見出し画像

《有料・冒頭試読》【オリオンズ&マリーンズ・背番号の系譜/(21)「19」投手系譜の背番号も名捕手から始まった】

割引あり

(写真 左から、17代・最長16年背負っている唐川侑己、初代・チームを引っ張った名捕手土井垣武、3代・シーズン33勝の小野正一、9代・1年だけの在籍だった野村克也、12代・抑えの切り札成本年秀)

(21)「19」投手系譜の背番号も名捕手から始まった


 背番号19と言えば、2008年から16年背負っている唐川侑己に代表されるように投手のイメージが強い背番号だ。かつては現在も球団記録である年間33勝を挙げた小野正一も背番号19だった。
 しかし、その歴史は球団創設時の名捕手・土井垣武から始まった。創成期の投手陣を支えたが、土井垣がいたからこそ初代日本一も成し遂げられたと言われた名捕手だった。その後、投手が引き継いできたが、1973年に1年だけ捕手が継いだ。名捕手・野村克也が入団し南海時代に着けていた19を選んだからだった。創成期以来、名捕手が再び引き継いだ背番号19。不思議な縁を感じる背番号の系譜でもある。

----- 現在の背番号「19」 -----

 ★《17代》2008(H20)年~2024(R6)年・17年目 唐川 侑己(からかわ ゆうき) 投手(在籍17年目)

 【唐川 侑己 背番号変遷】19(17)
 2007(H19)年の高校生ドラフト1巡目で「高校ビッグ3」と言われた一人、地元・成田高校の唐川侑己が入団。背番号19を引き継いだ。
 1年目の2008(H20)年から一軍マウンドに上がった。開幕は二軍で迎えたものの4月下旬に一軍登録され、26日のソフトバンク戦(Yahoo!D)でプロ初登板、初先発し7回無失点と好投。球団史上初の高卒新人初登板初先発初勝利を記録する。以降、ローテーションに加わりデビューから3連勝をマークした。しかし、徐々に打ち込まれるケースも目立ち、夏場には二軍落ち。終盤に再合流も白星ならず、1年目は5勝4敗、防御率4.85で終えた。翌09(H21)年は、開幕からローテーション入り。5月10日の楽天戦(千葉マリン)でプロ初完封、19日の横浜戦(千葉マリン)は完投と2試合連続完投を記録し4勝をマークする。ところが、以降は打線の援護にも恵まれず、白星が遠ざかった。最終的に21試合に先発し、5勝止まり(8敗)、防御率は3.64だった。
 10(H22)年も開幕から先発ローテーション入り。3月22日の西武戦(西武ドーム)では完投でシーズン初勝利を挙げる。しかし、交流戦中に打球を受け骨折し離脱。8月に復帰し完封勝利を含む3連勝をマークするも、9月に入るとヒジの張りで離脱。そのままシーズンを終えた。このシーズンは6勝3敗、防御率2.71だった。11(H23)年も開幕ローテーション入り。前半戦だけで8勝を挙げ、初のオールスター出場。後半戦も白星を重ね、最終的に24試合に先発し自身初の二桁となる12勝(6敗)、初の規定投球回に到達し、防御率2.41でリーグ6位に名前を連ねた。12(H24)年も開幕ローテーション入り。6月に右肩の違和感で一時離脱も、前半戦は12試合で8勝2敗と勝ち越す。しかし、7月中旬に右ヒジの違和感で抹消。そのまま一軍に再登録されることなくシーズンを終えた。
 13(H25)年も開幕ローテーション入り。離脱することなくローテーションを守り、自己最多となる27試合に先発。チーム最多タイの9勝(11敗)、チームで唯一、規定投球回をクリアしたものの、防御率は4.18と今一つだった。ところが、14(H26)年は開幕ローテーション入りも状態が上がらない。5連敗を喫して自身初のリリーフに回る。その後二軍で再調整し7月にようやく初勝利。しかし、その後も状態は今一つ。最終的に4勝9敗1ホールド、防御率4.66だった。
 15(H27)年も波に乗り切れない。開幕ローテーションも初先発で打ち込まれて二軍落ち。再昇格後、3連勝するも打線の援護に恵まれてのものだった。最終的に12試合の登板で5勝4敗、防御率は自己最低の6.32に終わった。16(H28)年は二軍スタート。後半にローテーションに定着し、5年ぶりとなる完封勝利を記録するなど唐川らしさも見せ、最終的に15試合に先発し6勝6敗、防御率2.84だった。しかし、翌17(H29)年も苦しむ。開幕ローテーション入りも、開幕7試合で1勝6敗と不安定なピッチングを見せる。シーズン通してローテーションを守ったものの、最終的に21試合に先発し5勝10敗、防御率4.49で終えた。
 18(H30)年は転機のシーズンとなる。シーズン中盤に一軍に合流し先発するも、結果を出せずに再び二軍落ち。7月に復帰先発しシーズン初勝利を挙げるも、先発登板はこの登板が最後となる。後半からリリーフに専念。最終的にリリーフで21試合(4先発)に登板し1勝3敗4ホールド、防御率は2.83と新たな地位を確保した。19(R1)年は、リリーフとして開幕一軍入り。勝利の方程式として8回を任される。それに応え、開幕から7試合連続無失点を記録するなど好投する。しかし、夏場には失速し、一転して不調に陥る。最終的に5勝3敗14ホールド、防御率5.26で終えた。
 20(R2)年は先発復帰してシーズンを迎える。しかし、チームはリリーフ陣を再編する事態となり、先発としての調子が今一つの唐川が再びリリーフに回る。8月から9月上旬にかけて、17試合で無失点を記録するなど好投。最終的に32試合に登板し1勝1敗14ホールド、防御率1.19でチーム13年ぶりの2位、4年ぶりのAクラス入りに貢献した。
 しかし、23(R5)年は状態が上がらない。6試合の登板に留まったが、唯一の先発も3回2失点で敗戦投手となった。最終的に0勝1敗1ホールド、防御率7.04だった。二軍では先発としてもマウンドに上がり、24(R6)年は先発復活を目指す。
 (23年シーズン終了時)
 <339試合、78勝74敗、防3.73、0S、64H、183先発、6完封、820奪三振>

 ※在籍時に達成した主な記録
  ◇1000投球回(2017年4月16日、史上346人目)平成生まれ初

----- オリオンズ&マリーンズ「19」の系譜 -----

 ★《初代》1950(S25)年~1953(S28)年・4年 土井垣 武(どいがき たけし) 捕手(在籍4年)

 【土井垣 武 背番号変遷】19(4)
 戦前から兵役の3年間を挟み、長年、大阪(阪神)の正捕手だった土井垣武が球団創設に加わり、大阪時代から着けていた初代背番号19を背負った。大阪からは若林忠志、別当薫らが移籍して騒動となったが、土井垣は別行動し10年選手制度を利用しての移籍だった。
 1年目の1950(S25)年から正捕手としてマスクを被った。5番打者として打撃でも貢献。112試合に出場し打率.322でリーグ5位に入り、15本塁打72打点とチームをリーグ初代王者、初代日本一にけん引し、初代パ・リーグ捕手のベストナインに選出された。翌51(S26)年はキャンプを兼ねた長期のハワイ遠征での調整に苦戦し、その影響で若干数字を落とす。112試合の出場で打率.268(リーグ21位)8本塁打60打点で終えたが、2年連続となるベストナインには選出された。
 52(S27)年は復調し、打率.296(リーグ11位)13本塁打72打点を記録。球団創設年から3年連続、大阪時代から6年連続となるベストナインに選出された。
 しかし、53(S28)年は92試合の出場に留まり、規定打席に到達したものの、打率.264でリーグ27位、6本塁打43打点と移籍後最低の結果に終わる。球団は32歳という年齢も考慮し、ハワイからチャーリー・ルイスを補強すると、土井垣は東映に移籍した。
 <426試合、打率.290、1534打数445安打、42本塁打、247打点、29盗塁>

 ※在籍時に選出された表彰
  ◆ベストナイン/3度(1950年~52年/すべて捕手)自身通算6度選出
 ※在籍時に達成した主な記録
  ◇1000試合出場(1953年4月29日、史上18人目)

 ★《2代》1954(S29)年~1955(S30)年・2年 佃 明忠(つくだ あきただ) 捕手(在籍4年)

 【佃 明忠 背番号変遷】19(2) ⇒ 20(2)
 1954(S29)年に早稲田実業高校から入団した佃明忠が土井垣の背番号19を引き継いだ。
 1年目の54(S29)年と2年目の55(S30)年はルイスが正捕手としてマスクを被っていたため、佃は2シーズンともに20試合の出場に留まり、二軍でマスクを被った。55年にはイースタンで首位打者を獲得した。オフには背番号を20に変更した。
 <175試合、打率.222、423打数94安打、14本塁打、42打点、7盗塁>

 ★《3代》1956(S31)年~1964(S39)年・9年 小野 正一(おの しょういち) 投手(在籍9年)

ここから先は

9,500字
この記事のみ ¥ 200〜

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?