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《有料・冒頭試読》【オリオンズ&マリーンズ・背番号の系譜/「33」2人の殿堂入り胴上げ監督の背番号】

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(35)「33」2人の殿堂入り胴上げ監督の背番号

 オリオンズ&マリーンズ背番号33の系譜を振り返る時、大きな歴史があることに気づかされる。初代は阪神で監督兼投手として活躍し、球団創設時にオリオンズに移籍した若林忠志だ。当時は総監督として湯浅禎夫が指揮官としてチームをまとめ、監督の肩書は現在でいうところのヘッドコーチや指導する主将的な立場だったが、監督兼投手として日本一に輝き、野球殿堂入りも果たした球団史に輝く経歴を持つ。そして、12代として33を背負ったのが山内一弘だ。現役時代はオリオンズミサイル打線の4番打者としてリーグ優勝に貢献し、世紀のトレードで阪神に移籍した。17年ぶりにオリオンズに復帰し、33番を背負い2年連続前期優勝した監督となった。もちろん、野球殿堂入りを果たした経歴を持つ。背番号33は2人の野球殿堂入りした2人の監督が背負った背番号なのだ。

----- 現在の背番号「33」 -----

 ★《19代》2022(R4)年~2024(R6)年・3年目 八木 彬(やぎ あきら) 投手(在籍3年目)

 【八木 彬 背番号変遷】33(3)
 2021(R3)年のドラフト5位で社会人・三菱重工Westから入団した八木彬が、背番号33を引き継いだ。
 ルーキーイヤーの22(R4)年は開幕は二軍スタートだったが5月に一軍合流。15日のオリックス9回戦(京セラD)で5番手として初登板。以降、一軍に帯同し中継ぎとしてマウンドに上がる。最終的に22試合に登板し、防御率3.63とまずまずの内容だった。
 2年目の23(R5)年も開幕二軍スタートとなり、交流戦中の6月に一軍に合流する。しかし3試合に登板して失点を重ねて抹消され、このシーズンは3試合の登板に終わり、防御率は18.00に終わった。
 (23年シーズン終了時)
 <25試合、0勝0敗、防5.33、0S、0H、0先発、0完封、23奪三振>

----- オリオンズ&マリーンズ「33」の系譜 -----

 ★《初代》1950(S25)年~1953(S28)年・4年 若林 忠志(わかばやし ただし) 一軍監督兼投手 ⇒ 二軍監督兼投手 ⇒ 一軍監督兼投手(在籍4年)

 【野球殿堂入り】野球殿堂競技者表彰(1964年)

 【若林 忠志 背番号変遷】33(4)
 初代背番号33は野球殿堂入りを果たしている若林忠志監督兼投手が背負った。プロ野球創成期から阪神で活躍し、すでに42歳のベテランだったが、前年は阪神でも監督兼投手だった。ただ、球団創設時は総監督・湯浅禎夫が実指揮を執っており、若林は監督ではあったが現在のヘッドコーチや指導する主将的な立場だった。
 50(S25)年は開幕からコーチ役に時間が割かれていたが、5月23日の西鉄8回戦(大分・春日浦)にオリオンズ初登板初先発し、2回2失点で降板する。以降はリリーフとローテーションの谷間で登板し、7月23日の南海14回戦(札幌円山)8回6失点ながら完投し初黒星。26日の大映14回戦(夕張鹿谷)では中2日で2回途中からマウンドに上がり、最後まで7.1回を1失点で切り抜け初勝利を挙げるタフネスさを見せる。10月29日の東急19回戦(後楽園)では9回2失点で完投勝利。さらに11月12日の近鉄18回戦(藤井寺)では4安打完封勝利を挙げ、当時の最年長完封勝利記録を更新した。最終的に14試合(7先発)に登板し4勝3敗、防御率3.70、完投も4試合だった。松竹との日本シリーズでは驚きの第1戦に先発し、延長12回を161球で完投勝利を挙げ、後に長らく日本シリーズ最年長勝利投手記録となる勝利を挙げ、チームに勢いをつける。最終第6戦では2番手として5回途中から登板。2本塁打の岩本義行を無死満塁から敬遠するプロ野球史上初の作戦に出る。終盤に追いつかれて延長となったが、初代日本一へチームを導いた。翌51(S26)年は登板数も減り、11試合(5先発)に登板し勝利なく0勝4敗、防御率は4.83で終わった。
 52(S27)年は登板機会なくシーズン前半を終える。7月16日の西鉄戦(平和台)で発生した「平和台事件」(遅延行為でノーゲームとなりファンの暴動に発展)の責任を若林総監督とともに取る形で二軍監督兼投手に降格。このため、このシーズンは一軍未登板に終わる。
 53(S28)年は若林総監督とともに一軍監督兼投手に復帰する。しかし44歳という年齢から2試合(1先発)の登板に留まり0勝1敗、防御率10.29で終わり、現役を引退するとともに退団した。
 投手<27試合、4勝8敗、防4.46、13先発、1完封、35奪三振>
 打撃<27試合、打率.191、47打数9安打、2本塁打、8打点、0盗塁>

 ★《2代》1954(S29)年~1955(S30)年・2年 杉尾 富美雄(すぎお ふみお) 投手(在籍3年)

 【杉尾 富美雄 背番号変遷】49(1) ⇒ 33(2)
 1953(S28)年に社会人・日炭高松から入団した杉尾富美雄が2年目に背番号を49から33に変更した。
 1年目の前年は一軍未登板に終わったが、2年目の54(S29)年は6月に一軍ベンチ入り。6月13日の阪急10回戦(長野松本)に2番手として初登板。その後、リリーフとして登板し、8月29日の東映17回戦(駒沢)で初先発するも1回に1失点して降板、初黒星を喫する。最終的に14試合(2先発)に登板し0勝2敗、防御率4.65を記録した。しかし、3年目の翌55(S30)年は一軍未登板に終わり、オフには引退した。
 投手<14試合、0勝2敗、防4.65、2先発、0完封、20奪三振>
 打撃<14試合、打率.250、8打数2安打、0本塁打、1打点、0盗塁>

 ★《3代》1956(S31)年~1959(S34)年・4年 山本 格也(やまもと かくや) 捕手(在籍4年)

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