雲を飼う2

雲を飼う

第24回ゆきのまち幻想文学賞入選作です。

 雲を飼ってみませんか、と、突然言われたものだから、僕はちょっと驚いて、声の先を見る。休日の繁華街は人で溢れて混み合って、ティッシュなんか配られても、普段ならば、はい、そうですかと無視してしまうのに、雲なんて、唐突な呼びかけと、凛とした声が美しくて足をとめた。女がいた。

 透きとおるような白い肌には赤味がさして、宇宙の透けた夜空みたいな、怖いほど真っ黒な瞳で、髪は瞳と同じ、黒くてつやつや。その長く垂らした黒が白いワンピースによく映えた。暦の上では秋とはいえ、まだまだ残暑も厳しいというのに、長袖のワンピースなんて、暑くはないのか。彼女は凛とした声でくり返す。雲を飼ってみませんか。

 雲とは、あの、空に浮かんだ雲ですか、と、僕は尋ねる。女は僕の瞳を捕らえて、あの、空に浮かんだ雲です、と言った。そうかやっぱり虫ではないのか。虫の蜘蛛は嫌いだけれど、空の雲なら飼えるかな、とぼんやり思って、えさは、と聞いてみた。女は少しばかり目を細めて、金平糖を少しばかり、と答えた。それなら僕のバイト代でも出せるだろうと考えて、それでは、飼いましょう、と言った。

          *

 「ぼんやりしすぎだろ」

 六畳一間のこたつの中で、にやにや笑いながら高杉が言った。高杉は大学の同じ学科の友人で、通うには遠すぎるといって週に二、三度は僕のうちに泊まりに来る。僕は雲に金平糖を食べさせながら言った。

 「まさか女の子だとは思わなかったんだ」

 雲は小学生に上がるか上がらないかの幼女だった。女が雲を手渡したとき、僕は面食らって、えっ、と声を出して、雲を凝視して、どういうつもりか聞こうと女に目をうつしたときには、彼女の姿はもうなかった。

 「警察にあずけろって言ってるじゃん」

 でも、と僕は口をつぐむ。姿形は幼女だけれど、あの女に瓜二つではあるけれど、この子は確かに空に浮かぶ雲になるのだと、心のどこかで確信している。だってこの子は軽すぎる。子供だからというわけではない。重さがないのだ。目には見えるのに、触れることもできるのに、人の形をしているのに、人ではない。これだけ得体が知れないというのに不思議と気味悪さは皆無だった。そういうものだと受け入れさせる魅力をこの子は持っている。高杉もそれはわかっている。わかった上で、からかう。

 「お前がロリコンだとは思わなかったよ」

 「うるさいな。これからは金平糖持ってこないとうちに入れないから」

 ぞっこんですね、と、高杉は笑った。


 実際僕は雲を育てるのに熱中した。彼女はお腹がすくと、僕のそばまでちまちまと歩きより、楓のような小さな手で僕のだぼだぼのジーパンの裾をつかむ。つかまれたら僕は、愛しくなってしまって、たまには金平糖ではなくて、もっと体に良さそうな、にんじんなんかを切って渡すのだけれど、雲はいやいやと首をふって、やはり金平糖をねだるので、仕方がないなと、ふたつ、みっつ、手のひらに乗せる。雲は、色とりどりの星の粒を眺めてはうっとりとして、ひとつ、ふたつとぽりぽり食べた。

 雲はすくすくと育った。最初の頃より二回りほど大きくなり、動きも機敏になっていったが、それでもやはり、幼子であった。そして、この頃から雲に変化があらわれた。

 雲は日に日に薄くなっていった。薄く、というのは、痩せすぎているとか、そういうことではなくて、幽霊が目に見えるとしたらきっとこんな感じなのだろうといった、透明性のことであった。雲自身もだんだんと透明になっていく自分に戸惑っているみたいで、僕が課題の合間などに、ふと目をやると、自分の手のひらを見つめて首を傾げていた。

 十二月に入ると、雲は、ますます透明になって、ついには金平糖も食べられなくなってしまった。雲は、なんとかして僕の手から金平糖を掬おうと、するのだけれど、彼女の手は金平糖ごと僕の手をすり抜けていく。もしかしたら、死んでしまうのかな、なんて思ってみたが、すり抜けていく手の感触が温かいので、やはり人とは別の生き物なのだと、うわの空で思った。

 雲はついに見えなくなった。雲は言葉が話せないから、僕は駄菓子屋で風車を買ってきて、家にいるときはポケットにさしておいた。雲が近寄ると、ふー、と息をふいて、風車はからから音を立てて回るのだ。風車はかさばるので、根付けの鈴なんかも試してみたが、風車の方をお気に召したようで、暇さえあれば寄ってきてはぷくぷくと回した。

 

 雲はとうとういなくなった。月の美しい夜のことであった。バイトが少し長引いて、帰宅が零時をまわってしまい、雲はもう寝ているなと思ってドアを開けると、外出の際玄関に置いておいた風車がからからと鳴る。あれ、と思って、雲、と呼びかけると、ふわっ、と足下が温かくなって、そして、その温度は僕の体をすり抜けていった。僕は、え、と思って、雲、と呼んで振り返ると、ふわふわと、溶けていきそうな白が、夜空に透けて浮かび上がった。行ってしまうの、と声をかけると、風車が弱々しくまわる。僕は、そうか、と思って、いつでも帰っておいで、と言った。風車はからからと元気な音を出した。

          *

 年の瀬にもなると地方から来た友達はみんな実家に帰ってしまう。だけど僕は大学のそばに残った。高杉は相変わらず週に二、三度やってくる。毎回晩飯を作るのは面倒くさいので、今日は飲みに出かけることにした。

 「薄情な雲だな」

 高杉は風車をからから鳴らした。僕は、なんで持ってきたんだよ、と奪い返してポケットにつっこむ。だってお前が辛気くさい顔してるから、と高杉が返した。普通だよ、と、僕は焼き鳥を食べながら答えた。思ったよりも低い声が出た。

 居酒屋を出ると、外は、つん、と、冷え込んでいて、風もないのに寒い。ふいに、からからと風車がなった。あれ、と思って空を見ると、白い何かがちらちらと落ちてきた。

 「おお、雪だ」

 初雪だな、と高杉が言うので、僕は、ちがう、と、うわずった声で答えた。

 「雲が会いに来たんだ」

 風車がまわる。

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