「ドラゴンクエストXI」が描いたLGBTを取り巻く周囲の人々

映画「カランコエの花」は、LGBTの当事者ではなく、それを取り巻く周囲の人々をにフォーカスをあて、彼らが翻弄される様子を丁寧に描いた。

このLGBTを取り巻く環境という問題に対して、私が感銘を受けた作品が、
RPGの金字塔「ドラゴンクエスト」の最新作「ドラゴンクエストXI」 だ。

すでに音楽について熱く語ったが、このLGBTや社会に蔓延するアイデンティティのラベリング問題についても一石を投じた作品であると考えている。

なぜかと言うと、所謂“オネエ”キャラクターである人物について、周囲の人々がラベリングする対応を一切見せなかったことだ。

当事者の名はシルビア。外見は長いまつ毛が魅力的なマッチョなオネエ口調の30代男性。物語の序盤で、半ば強引に主人公とともに行動し、後に正式に仲間に加わる。「自分の芸で世界中の人々を笑顔にする」という夢と目標を持ち続け、その志はまったくブレることはない。世界的に有名な旅芸人であり、名声はあるものの、子供に対してひざを付き、同じ目線で対等な立場で会話をするなど誰にも平等。しかし、騙したり傷つけたりする者には容赦なく立ち向かう本物の騎士道精神の持ち主であるなど、本当にシビれる人なのである。

そんなシルビアとシルビアに憧れるオエネ仲間の人々は派手で目立つ存在なため、初めて見た人は戸惑うが、彼ら(彼女ら)が悪い人ではないと分かると心を開き、交流をはじめる。

その中で一貫しているのは、シルビアが「オネエ」あるいは「オカマ」ということには一切言及していないことだ。シルビアを指す二人称も人によって、また時と場合によって、「おっさん」「女子」「おねえさん」「ぼっちゃん」と変化するが、呼ばれる本人はまったく気にしていない。若干一名、旧知の仲である人物のみ、その外見に驚くが、そんなこと男から女に変わったよりも、驚愕の変化を遂げたかつてのマドンナにショックを受ける30年目の同窓会となんら変わりはない。確執のあったシルビアの父親でさえも、そのことには全く触れず、シルビアに対して一人の息子として向き合っている(確執の原因は別)。ゲームをプレイした人の中には「シルビアがオネエであること(なったこと)に突っ込まんのかーい」と思った人もいるだろうし、実際、ゲーム実況者のなかでもそのような発言をした人もいた。

つまり、ドラゴンクエストXIの世界では、そんなことに突っ込む人の方が「変」だと言わんばかりの態度を突きつけてきた。それが、本当に清々しく、ストーリー以上に感動した点である。

実は「ドラゴンクエストシリーズ」はこのような人が勝手に想像しているでろうラベリングをことごとく打ち砕いてきた。伝説の英雄は◯◯で、◯◯はガングロコギャルで、何百年も生きているであろう師範は◯◯で、、、とラベリングから自分が勝手に思い描いたイメージがいかに陳腐であるかを思い知らせてくれる。

それがXIでは、LGBTという社会問題にも切り込んできたことが大きな挑戦でもあると感じた。また、「勝手な思い込みや常識が通用しない、ということを受け入れることがいかに大切か」を説教臭くなく説いてくれていることに脱帽するのである。

もう一つ、主人公の勇者でさえも、勇者というラベリングに悩み、克服することで成長する姿を終盤見せてくれる。「悪魔の子」と呼ばれた勇者の生まれ変わりが、本質は勇者なのか悪魔なのかではなく、自分は自分なのだと自覚することで強くなる姿を描きたかったのではないか。シルビアや主人公にもこういったラベリングに打ち勝つ「勇気」が備わっているからこそ、プレイする我々の胸を打つ。そう改めて感じた。

アイデンティティのラベリングは時に人を奮い立たせる。しかし、それに縛られたり、依存したりすると、逆に進むべき道に迷うことになる。誰になんと言われようとも、どんな目で見られようとも、他人を尊重し、人々の幸福を願うシルビアのように「アタシはアタシの道を進むのよ!」と堂々と言える清々しい人になりたい。だからラベリングされたアイデンティティはいらない。「ゲームの世界」だからではなく、現実もそうであることを願いつつ、映画「カランコエの花」の登場人物に一緒にドラクエXIしようよ! と本気で叫ぶのであった。

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