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◆読書日記.《澤田直『新・サルトル講義 未完の思想、実存から倫理へ』》

※本稿は某SNSに2022年1月6日に投稿したものを加筆修正のうえで掲載しています。

 澤田直『新・サルトル講義 未完の思想、実存から倫理へ』読了。

澤田直『新・サルトル講義 未完の思想、実存から倫理へ』

 著者は立教大教授で専攻は地中海思想と現代文学……という事で作家であり思想家でもあったサルトルの紹介者としてはなかなか踏み込んだ解説をしてくれて非常に参考になる一冊であった。

 サルトルというのは一時期世界的ブームになった思想家だが、現在ではいささか時代遅れ的な見られ方をされている人でもある。ぼくの中の印象もこれまあまり良くなかった。

 サルトルは膨大な量の著作を出していて、前期思想だけでも代表作『存在と無』という少々厄介そうな大著を書いている。
 また、後期思想の代表作にも『弁証法的理性批判』という大著があり、それ以外に小説の代表作『嘔吐』や戯曲の代表作『出口なし』『悪魔と神』『アルトナの幽閉者』があり、評論に『聖ジュネ』があり、更に評伝の代表作、フローベールの評伝『家のバカ息子』なんかも存在してどれから手を付ければ良いか、といった感じで仕事量が半端ないのである。

 その思想は大まかに分ければ、前期は実存主義と現象学が有名で、後期からはアンガジュマンに移っていくようになる。

 サルトルの政治参加やメディアに積極的に出て様々な問題に発言をするのはこの後期のアンガジュマンの思想がサルトルを貫いていたからである。
 サルトルが様々な仕事を手にしてあらゆる物事に口をはさむのは、彼が普遍的知識人として積極的に「状況」に参加していたからで、そうする事が彼の哲学の実践だったのだ。
 サルトルにとっての思想・哲学はアカデミックな研究機関の中で展開される学術ではなく、参加し、状況を変え、行動し、発言をする「アンガジュマン」であったのである。

 だが、そのようにあらゆる物事にコメントしていれば当然、誤解も間違いも出て来る。

 サルトルはいわゆる「普遍的(=何でも知っている)知識人」と呼ばれる部類の知識人であったが、何もかも専門だというわけではない。全てにおいて正しい判断ができるわけでもない。

 彼は友人だったカミュと有名な論争を起こして仲たがいもしたし、友人のメルロ=ポンティとも思想的に袂を別つ事になった。

 サルトルはそのようにしばしば論争を引き起こし、批判もしたし、多くの批判も受けた人であった。それだけ、遠慮会釈なく様々な物事に発言をしていたのだから、当然と言えば当然であった。

 だから、サルトルには批判や論争もある「間違える人」という印象があった。

 また、サルトルは晩年、共産主義に近寄りソ連や中国にも訪問している。
 ぼくの中のサルトルのイメージの一つには、そのように「共産主義に親密だった人」というのも、悪いイメージに繋がっていたのかもしれない。

 そのうえサルトルはフッサールの現象学やハイデガーの学説についても、どうにも正しく理解して活用していたとは思えないような利用の仕方をしていたという事もあった。

 だが、本書『新・サルトル講義』は、そういったサルトル思想が「間違いも厭わない」という意図的なスタンスを自らの思想としていたと説明し、サルトルを全面的に擁護しているのである。
 何故なら、サルトルにとって重要なのは「アンガジュマン」――自分という存在が投げ出されている状況に対して、ただ漠然と受け入れるのではなく、自ら積極的に参加して発言する事で、周囲に呼びかけ、周囲を巻き込み、状況を自らの力で変えていく事――であり、それは「自由と言う刑に処されている」人間ができる「自由=リバティ=様々な闘い・運動を通じて手に入れた自由(人工的な自由)」なのだから。

 間違っているかもしれないからと発言を慎んでしまえば、それだけ社会に提出される「意見」というものは減るものだし、そのような発言がなければ議論も批判も起こりようがない。

 間違っているなら間違っているとして「これは正しくない意見」というサンプルが社会に提出される事となる。

 賛否別れる意見であれば、それについて批判でも賛同でも論争が幾らかでも起こって、人々が考えを深める機会が提供されるかもしれない。

 だが、発言をしなければ、そういった周囲への影響というものは何一つ発生しないのだ。

 人間には、発言する自由がある。
 発言して、他人に影響を与え、他人を巻き込む事で、ほんの少しだけのものであっても、社会に影響を与える事ができる。

 様々な人間の意見が社会に飛び交う事で、人は互いに影響を与えあっている。

 一人の意見は、湖に小石を投げてたてる細やかな波紋のようなものかもしれないが、多くの人間が一人ずつ小石を投げて行けば、波紋はやがて重なって行って大きな波をたてる事となるだろう。
 そう考えると、一人の意見の些細な影響というものは、バタフライ効果のように社会に無視できない影響を与えているものなのかもしれない。

 そもそも「歴史」というものは、個々の行動の全体化であり、そういった個々の人間の参加の総体によって成立されたものであったとも言えるだろう。

 だから、「人間は自由と言う刑に処されている」と考えたサルトルは、戦争や虐殺など歴史的悲劇を回避するには『情況』に積極的に参加(アンガジュマン)しなければならないと考えたし、そうしなければ悲劇的な『状況』を変える事などできないと考えたのだ。

 この思想があるからこそ、ちっぽけな個人が「歴史」を変えられるわけがない――という考えは、サルトル的には間違っていると考えたわけだ。

 そんなわけで一時期、何かしら世界的な事件が起こる度に世界はサルトルがどう発言するのかと固唾をのんで注目したのだという。

『新・サルトル講義』を読んで分かったのは、サルトル思想で重要なのは個々の内容ではなく、サルトルが発言すると言うその実践的なスタンスそのものにあったのではないかという点であった。

 だから、本来的にサルトルの思想を学ぶという事は、その思想の一つ一つを鵜呑みにする事ではなく「これは間違っているな」とか「これは正しいな」と、自分の意見を持つ事なのだろう。

 サルトルを読む――それは、読者である我々もサルトルという「状況」に参加するという事に他ならないのだから。


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