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◆読書日記.《ジャン・ボードリヤール『消費社会の神話と構造』》

※本稿は某SNSに2018年12月8日に投稿したものを加筆修正のうえで掲載しています。

 ジャン・ボードリヤール『消費社会の神話と構造』読了。

ジャン・ボードリヤール『消費社会の神話と構造』

 ボードリヤールは社会学に精神分析や記号論や文化人類学等の知識を導入して独自の思想を展開したフランスの社会学者だ。ボードリヤールの文体は非常に比喩が豊かで素材も豊富。
 イマジネーションも豊かでぼく的には非常に読みやすかった。

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 本書は1970年代にフランスで出版されて話題になった本だそうだ。その頃は欧米も日本も、経済状態が今よりも良くて中間層が元気だった総中流社会だった。

 そういう時期の社会を分析しているから本書に取り上げられている社会は、消費によって経済を上向きにできると思われていた時代を舞台にしているようだ。

 という訳で本書に取り上げられている「消費社会」は、現代の日本の消費社会と比べるとかなり条件が違ってきているのが分かる。

 だがここで我々が考えなければならないのは、本書のどこが古びていて、どこがまだ使える部分なのか考える事ではなく、本書の知識を「2.0」にヴァージョン・アップすることだ。
『ジャパン・アズ・ナンバーワン』の時代を過ぎ、その衰退ぶりを既に隠しようもなくなってきた現代日本の状況は「消費社会」論的にはどういう事が言えるのか。

 例えば、景気が良い時のCMや大衆宣伝は、稼いだ分を活発に消費に回させることで景気の循環を良くさせていたが、現代日本のCMはもはや景気が悪くなっていることを誤魔化し、無邪気な消費を続けられるきらびやかな時代が未だに続いていているかのように錯覚させるかのような効果を持っているように見える。

 80~90年代のコカ・コーラのテレビCMと現代のCMと比べて見るのも、そういった消費社会の在り方の時代差というのが見えて面白いかもしれない。

 コカ・コーラのテレビCMが鋭く現代的という意味で興味深いのは、それがもはや「コーラの美味しさ」を伝える事は問題になっていないという点にある。
 コカ・コーラのCMは味を宣伝しているのではなく、その商品が自分のライフスタイルをどのような形で彩ってくれるアクセサリになるのか、という事を映像的に示唆しているのである。
 このスタンスはボードリヤールの説明した消費社会論的であると思える。

 最近(※リンクは2022年現在のもの)のコカ・コーラのテレビCMは、おそらく80~90年代の時代のものと比べて見てみると「現実の生活レベル」に明らかな差が出ていると感じる。

 80~90年代では、仕事中の風景も日常生活もスタイリッシュで、常に笑顔が輝いて見え、その添え物としてのコカ・コーラが、生活を彩るアクセントとして機能しているように見える。

 現代のコカ・コーラも、その「生活を飾るアイテム」としての価値という見せ方は変化していないようでもある。
 しかし、どこか80~90年代にあったスタイリッシュさが失われてしまったように見えるのは気のせいか。

 現代のコカ・コーラのテレビCMに描写される庶民的な生活感というのは「(輝きのない、つまらない、つらい)仕事のあいまに、コカ・コーラがひと時の幸福をもたらしてくれる」というスタンスになっているのである。
 この「仕事」の捉え方のわずかな差に、現代の衰退の痕跡が仄見えるように思えるのはぼくだけであろうか。

 昔のCMと今のCMを続けざまに見てみると、その「差」に、どこかしら「幸福な夢から覚めてしまった」という残念な感覚を覚えてしまう。
 ぼくが先に「現代日本のCMはもはや景気が悪くなっていることを誤魔化し、無邪気な消費を続けられるきらびやかな時代が未だに続いていているかのように錯覚させるかのような効果を持っているように見える」と言った事に理由は、こういった映像を比較をしてみると、端的にご理解いただけるのではないだろうか。

 コカ・コーラのCMを見ていても、現代日本の広告の本質が今も昔も変わらずに「消費は"幸福"である」という主張に基づいている事はよくわかるだろう。深層心理的には「享楽せよ/消費せよ」である。

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 消費社会というものは、個人が全く自由に消費を行っているわけではない。

 奇妙なのは、我々は統計によって常に「平均値」というものを覚え込まされると言う事だ。

 誰でも自分の年収が日本人の平均より上か下か分かるようになっている。
 誰でも、人より恋愛経験が多いか少ないか分かり、結婚が早いか遅いか分かっている。
 自分の学校の成績が上位か下位なのか、自分の息子や娘の成績が学校の中でどのレベルにあるのか常に知らされる。 

 現代人は常に平均値を把握させられているのかもしれない。

 われわれはモノを買う際にも、「自分の"消費行為"が、平均に比べて豊かなものか貧しいものか」ということを常に意識させられるのだ。

 服を買うにも、食器を買うにも、家具を買うにも、われわれにはそれが「安物」か「高級品」なのかというのが、おおよそのところ事前に分かっている。
 お金を出して受けられるサービス(エステであったりマッサージであったり宅配であったり料理の提供(外食)であったり…)についても、それが高級なサービスなのか安手のサービスなのか分かっている。
 そういったわれわれの消費行動の全体的なレベルによって、われわれは否応なく他人との「差」を意識せざるを得なくなるのではなかろうか。

 全く他人との差が気にならない消費とは何だろうか? そんなものがまだ残っているだろうか? これがボードリヤール言うところの「消費の社会化」とも言えるだろう。

 以上のように消費者は無意識に、いつの間にか、消費社会によって様々な方法で「消費の方法」や「消費の知識」を訓練させられているのである。

 これをボードリヤールは「ルシクラージュ(再訓練)」という言葉で表現した。こういった部分は、現代日本でも変わらないアクチュアリティを保っている部分だろう。

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 われわれの社会では、お笑い番組や恋愛ドラマ、アクション映画などの娯楽作品が、とてもたくさん生産され、消費されている。

 そういった商品は、消費社会では「感情の消費」をするための機能として働く事となる。

 笑わせるためにお金が発生し、疑似恋愛にときめく事にさえ「ビジネス」を見出すのが消費社会と言えるだろう。

 消費者は「笑いたい(=「笑い」を消費したい)」ときのための道具として、お笑い番組を見ているのだ。

「消費行為としての笑い」というのはつまり、コミュニケーション上にあらわれる自然な感情とは違ったものになる。他人とのやり取りの中で生まれる笑いではなく、「笑いたい目的を叶える」ための行為である。
 笑いたいという欲求を持った人が、「笑いたい」と思って、笑う。
 そこに資本主義的(=消費社会的)イデオロギーが入りこんでいて、裏ではたいへんなお金が動いている事を、消費者は笑っている間に気付くことはないだろう。

「ウルトラ資本主義」であり「ウルトラ消費社会」である現代日本はそういった表面上の楽しさや様々な形での幸福感を商品として提供し、消費できるようになっている。

 消費者はテレビかゲーム、もしくはスマホさえあれば現実の自分ががどうなっていようと「楽しさ」や「幸せ感」を"なんとなく"享受することができる。

 事実、人生の中での現実よりもゲームの中の楽しさやSNSの中の楽しさのほうが幸福感が上回る傾向が出始めているのではないだろうか。

 人生で意味のあることを成し遂げて幸福を得るという「面倒なプロセス」を踏むよりも、ゲームの中の記号化された楽しさを消費するほうがよっぽど「コスパ」が良く「効率的」になっているのかもしれない。

 もう既に一部の若者の中では現実の仕事の達成感よりも、ゲームの達成感のほうが上回ってしまっている――とは言えないだろうか。

 消費社会で大量生産される娯楽は、既に過剰状態まで達しているのだ。

 人生よりもはるかに幸福感を得られるゲームが出たとしたら、果たして「厳しくもままならない人生を生きる意味」に説得力を持たせることができるだろうか。

 ますます現実逃避的な夢想的ストーリーが多くなってきた日本のアニメやゲームにのめり込む人々を前に、「行政や会社の上層部などに働きかけてでも、自分の環境や待遇を良くしよう!」という活動に、はたして意義を持たせる事ができるのか?

◆◆◆

 消費社会ではますます商品であるモノが抽象度を増していき、記号的なものになってしまう。

 商品=記号と化してしまう消費社会では、既に商品は「物理的なモノ」でさえなくなってしまう。「雰囲気」や「気分」さえも商品として消費するのだ。

 消費者は服を買うとき、単純に「寒さをしのぐ道具」を購入しているのではない。値札の付いたその布の先に「ファッション」という記号を見ているのである。
 正確には「それ着た際に得られる気分や、称賛の声や、優越感や、作られる自分の個性」という抽象的で記号的なモノを消費の対象としているのである。

 ラカンは人間は本能が壊れた動物だと言っているが、そのように「寒さをしのぐ=衣」はファッションに、「飢えをしのぐ=食」はグルメに、「子供を作る=生殖」はエロスに……というように、消費社会の人間は「本能」が壊れて、それが消費されるべき「享楽」に置き換わっているのである。

「欲求」と「欲望」の差は、「欲求」は本能的であり満たされると満足するのに対し、「欲望」は満たされても満足することなく更に欲しくなる。

 具体的に言うと、「欲求」である「飢え」は満たされれば満足してそれ以上欲しない。
 だが「欲望」である「グルメ」は満たされれば更に良いものを求めるようになる。もっと美味しいもの、もっと珍しいもの、もっと健康的なものを。

 本能的な「欲求」が壊れた動物である人間は、「欲求」の代わりに「欲望」を持つようになったので、現代消費社会は飽くなき新商品開発競争を繰り返し、例え一瞬でも間をあけることなく新しい欲望の商品化を行って市場に投入しているのである。

 つまり、消費社会とは生存に必要不可欠なモノの生産からどんどんと距離を隔てて行っていて、全く生存には必要のない「欲望」が商品として消費の対象となっているのである。

 その欲望のあまりに過剰な大量生産が、全く非効率的に地球の資源を消費していっている。

 そして何より重要な点は、われわれ現代人はそういう、生存には必要ではない「欲望」を満たすだけの抽象的で記号的なモノが、自分たちにとって必要不可欠なモノになってしまっているという事にある。

 人が生存するのにカメラは必要なのか? 生を長らえるのにテレビゲームは必要不可欠か? マンガのない生は考えられない?

 ボードリヤールの言う「ガジェット」とはそういったモノたちのことを指す。

 生活に必要ない無駄な発明(電化製品、カメラ、スマホ、自動車のアクセサリ等も)をガジェットと呼ぶ。
 ガジェットもそういった極めて現代的な問題を含む記号的なモノたちだと言える。

 しかし、我々はそういうガジェット(スマホ)が数時間、使えなくなっただけでたいへんな混乱を巻き起こすほど、ガジェット(=生存や生活に直接かかわらない無駄なモノ)に依存してしまっていることに気が付く。

 われわれはそういった「無駄なモノたち(=必要ではない、有り余る享楽)」に依存してしまっていると言えないだろうか。


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