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◆読書日記.《長尾謙一郎『クリームソーダシティ完全版』》

<2024年4月26日>

<あらすじ>
“そこはある。きっとある。そこでは全てが完璧なんだ。"雨の渋谷で政治家を襲撃したDr.皇とTAKO介は、気がつけば一瞬にして楽園「クリームソーダシティ」に立っていた。謎の美少女に導かれ、楽園と日常とを行き来するTAKO介。世界の真理に肉薄するDr.皇。はたしてこれは現実なのか──?
2014年5月に「週刊ビッグコミックスピリッツ」(小学館)での連載が未完のまま突如終了し、長らくのあいだ漫画読みに語り継がれてきた幻惑の楽園譚『クリームソーダシティ』。本当に描きたかった“結末"がここにある。

太田出版、長尾謙一郎『クリームソーダシティ完全版』特設サイトより引用)

<編著者略歴>
長尾謙一郎(ながお・けんいちろう)
1972年愛知県生まれ。アーティスト。漫画、映像、アートディレクション、絵画、イラストレーション、アニメーション、音楽、文章など、活動は多岐にわたる。漫画代表作に『おしゃれ手帖』『ギャラクシー銀座』(ともに小学館)、『バンさんと彦一』(太田出版)、『PUNK』(白泉社)など。

太田出版、長尾謙一郎『クリームソーダシティ完全版』特設サイトより引用)

 長尾謙一郎の長編コミック『クリームソーダシティ完全版』読み終えた。

長尾謙一郎『クリームソーダシティ完全版』(太田出版)

 以前から噂のみは聞いて興味を持っていた作品だったのだが、この度たまたま立ち寄った古本屋で本書を見かけたので購入したという次第。

 最近はマンガも読むものの、わざわざ長文レビューを書こうと思えるほどの特徴のある作品に巡り合えずにいたので、これが久々のマンガレビューとなる。

 先に本作の出版経緯を説明しておこう。

<あらすじ>にもあるように、本作は2013年から『週刊ビッグコミックスピリッツ』誌上で連載されていたものの、2014年の連載第24回目にして突如「未完」のまま連載終了となった作品である。

 本作はその後、2015年に続編を描くために制作費の支援をクラウドファンディングで募り、2016年の夏には既刊1~2巻につづく第3巻が発表される。

 そして2017年に1~3巻に大幅な加筆を加え「最終章」を追加したのが本書『クリームソーダシティ完全版』というわけである。

 しかし、何故本作は突然連載を終了したのか?

 その理由については「ビッグコミックスピリッツ」誌上で連載を終了した2014年に、作者の長尾謙一郎自らが以下の様なコメントを残している。

この度、小学館「ビッグコミックスピリッツ」誌上にて連載を続けてまいりました『クリームソーダシティ』は、ある“権力からの勧告”を受け、
本日発売のスピリッツ24号を最後に未完のままで終わることになりました。

まず、楽しみにしていた読者のみなさまに心からお詫び申しあげます。
前述の“権力の勧告”に関しまして、詳細は私からは申し上げられません。
担当者も最後の最後まで作品の為に抵抗してくれたのですが、
結果としてこのような事になってしまいました。

一体、今作のどの部分がひっかかったのか、詳細は知らされておりません。

確かに『クリームソーダシティ』は、反倫理的で反道徳的な作品だという見方はあります。
ある意味『悪徳のすすめ』を扇動してるようにも見えます。
しかし、私個人としては、創造とは“数字”も”言語”も超越した
いわゆる『善悪の彼岸』に立たざるをえないものだと考えております。
どんな反社会的な作品も、創造的で斬新なものは
結果的に世界に対し平和的な効果を持っていると、私は考えております。
つまり、この事態を不当であり理不尽だと感じております。

近頃、『表現の自由』の『自由』の範囲が、狭くなり、
日本という国が、きな臭くなってきてるような気がしています。
言論統制などという恐ろしい言葉も日常的に耳にするようになりました。
私に降りかかったこの事態が、あくまで私個人の問題であり、社会全体の問題ではないことを願います。

長尾謙一郎

コミックナタリー「長尾謙一郎「クリームソーダ シティ」未完のまま連載終了」(2014年5月12日)より引用 )

ある“権力からの勧告”を受け」というのは、なかなか思わせぶりな書き方である。

 本作そのものが現実と虚構を織り交ぜた、いささか胡散臭い作り方をしているため、上のコメント中にある「“権力からの勧告”を受け」たなどという事態が本当にあった事のか、それとも作者によるブラフなのかというのは良く分からず、どちらもありえそうに思える。

 が、本作は2013年という、あの第二次安倍政権とほとんど時を同じくして連載スタートされた作品だったという事実が、なかなかに味わい深い現実との照応を感じさせる。

 というのも<あらすじ>にもあるように、本作は連載一回目にして日本の政治家を主人公らが暗殺するエピソードから開始され、その後も日本の首相をいいようにおちょくるようなシーンをしばしば挟むなど、政治的に挑発的な内容が見られたのである(当時ネット上にネトウヨがウヨウヨしていた状況を考えても、シャレの分からない連中が出版社に苦情を申し立てた、などという事などはじゅうぶん考えられる)。

 念のため言っておくと、本作は政治風刺をメインテーマにした作品ではない。

 表面的にはノーテンキなくせに、真綿で首を絞められているような閉塞感に包まれているこの日本社会の現実を、いささか露悪的に描写しているがために「政治家」だけを風刺対象から外して聖域などにはしなかった、というだけの事であろう。

 本作のテーマの一つは、あらゆる意味での「革命」、あるいは「変革」である。

 だが、そんな主人公らにまっとうな「革命思想」などというものはないし、それどころかまっとうな「政治思想」さえもなかったであろう。

 本作は連載第一回目で、主人公らが渋谷で選挙活動をしていた「自共党」の候補者を襲撃するシーンから始まり、最終章でも政治家を暗殺するシーンが出てくる。

 しかし、彼等が政治家を襲撃する理由は、さほど深い説明がなされるわけではない。

『なぜに…?』

『なぜに政治家(やつら)は皆、示し合わせたように顔が汚いのじゃ…?』
全てはそんな先輩の素朴な疑問から始まった…

「心が腐ってるんですよ……」
「さよう……」

(本書P.13より引用)

 本書を通読しても出てくるのはこの程度の、かつてマルクスが嫌悪したような、お伽噺のような軽率な革命思想である。

 暗殺してどうなる?暗殺したら何がどう変わる?何が良くなる?暗殺した後はどうするつもりだったのか?

……その全てがあやふやなまま。彼等はある種のフラストレーションの解消のために、政治家の暗殺を企てるのである。

 その結果、彼等はカール・マルクスに「コングラッチュレイショ~~~ン!」と抱き着かれて、次の瞬間、楽園「クリームソーダシティ」に迎い入れられる事となる(ちなみに本作のマルクス理解はかなりのデタラメである/笑)。

 この「思想のない暗殺」は、8話に登場する、上司を殺害した中国人女性も同じパターンだと言えるだろう。

 彼女は「私、その時イライラしてたも~ん いろ~んなことにイライラしてたもん! あんなことやこんなこと、その他諸々、いろんなことがアタマぐるぐる回って… 最終的に中華人民共和国の全てに嫌気さした!(P.172)」という軽率な理由により、勤めていた銀行の金庫に火を放ち、そこに上司らを閉じ込めて殺害した。

 その直後、この女性もマルクスに「コングラッチュレイショ~~~ン!」と抱き着かれ「クリームソーダシティ」に迎い入れられる事となる。

 そんな事をして、果たして彼女は何を得たのか?
わ~~~い♡ 気持ちい~~~~!! なんかスッキリしたよ~~~♡(P.175)」といったフラストレーションの解消が出来ただけである。

 作中に出てくる楽園「クリームソーダシティ」という街の存在は、最後まで謎のままとなっているが、現実からこの幻のような楽園へ迎い入れられる人間は、政治家を暗殺した主人公らであったり、「中華人民共和国の全てに嫌気さした」中国人女性や、イタリアの国王を撃ったアナキスト(モデルはガエタノ・ブレーシか?)など、はっきりと「反体制」的な人物らであった。

 こういった所に、著者が「確かに『クリームソーダシティ』は、反倫理的で反道徳的な作品だという見方はあります」とコメントせざるを得ない部分があったのだろう。

 おそらく本作の著者にも、1960年代に世界中の若者たちを熱狂させたようなカッチリとした革命思想などは、ないのだろう。

 本書を読んでも分かる通り、この作品の作り方は、時に行き当たりばったりにライブ感覚で出来上がっており、起承転結では進まないある種の「感情」に突き動かされて作られているのである。

 何より「政治家の暗殺」では世界は変わらない、という事は主人公らの行動の結末によって示されている。「暗殺による変革」はもとより、本作の目的としているテーマではないのである。

 この作品の提示しているものは、もっと絶望的なイメージだ。

 この作品の提示する「絶望」とは、独裁政権下の抑圧的な世界観とは違った、もっとバカバカしい「絶望」なのだと思う。

 本作に出てくる日本の政治家連中が軒並み「バカ丸出しな安っぽい人物」であり、そんな軽薄な連中が日本の舵取りをしている、という絶望感である。

戦争は地球のお祭りなのでーす!!(P.476)」と笑顔で戦争法案を提示する日本の首相・小瀬を暗殺したとしても、どうせまた「バラエティーに富んだ面白おかしい健康政治!!そして朝一杯の飲尿!!『こんにちうっしー、また来てポテト!』をスローガンに!!私は国会にむしゃぶりついてゆきたい!!!(P.14)」等と言うバカバカしい政治家が代わりに出てくるだろう……。

 思えば21世紀の日本はあの「小泉劇場」などという何だか政治家としては軽薄に見える首相が大人気となった所からスタートし、昨今の首相まで続く詭弁やはぐらかしのバカバカしい国会答弁が頻発するという事態がずっと続いているとは言えないか。

 作者としてはコメディとしてやっているつもりだったのに、いつの間にかそれが「笑えないコメディ」になってしまっている……そんな状況になってはいないか。

 政治風刺としてのこんな誇張さえも「もしや誇張になっていないのでは?」と疑ってしまうような状況が続いてはいなかったか。

 こういった感覚が、上にあげた作者の「近頃、『表現の自由』の『自由』の範囲が、狭くなり、日本という国が、きな臭くなってきてるような気がしています。言論統制などという恐ろしい言葉も日常的に耳にするようになりました。私に降りかかったこの事態が、あくまで私個人の問題であり、社会全体の問題ではないことを願います。」というコメントにも、滲み出ているように見えなくもない。

 本書で表現されている、ある種の「息苦しさ」の正体とは、著者のそういった感覚に根差しているのではないだろうか。

 本作の作られ方は、恐らくロジカルに築き上げられる作劇ではなく、「イマジネーション」によって突き動かされるライブ感覚な作劇なのだろうと思う。

 主人公らは作中、しばしば幻を見、そうかと思えばすぐ現実に引き戻され、何が幻で何が現実なのか分からず混乱する。

 楽園「クリームソーダシティ」も、確かに主人公らを魅了した「楽園」そのものであったが、その存在は果たして現実のものだったのか、それとも彼らの幻覚だったのかも判然としない。

 物語の後半で、主人公らは楽園「クリームソーダシティ」から追放された。

 主人公の一人、TAKO介は戻ってきた厳しい現実社会の中で、しばしば驚きと魅惑の連続であった「クリームソーダシティ」の幻を見るが、それが何だったのか思い出せないまま現実に引き戻される。

 現実では様々な不幸に見舞われるが、それが劇的に解決して救われた……と思ったらそれがすぐ「幸せな幻覚だった」と分かって現実に引き戻される。

 主人公らは苦しい現実を生き、「追放された楽園」へ戻る事を願いながらも、その手段が分からずに苦しんでいる。
 あるいは現生を「楽園」化するため「ライトシング(正しい事)」を繰り返すも、彼らの非力さ、無能さが仇となって事態は悪化していくのみである。

 現実とは、彼等にとって全く格好のつかない、とても格好悪い不幸の塊である。

 主人公らが「ライトシング(正しい事)」をするために立ち上げた「非営利団体D・R・T」に助けの電話がかかってきたと思ったら、それはトイレが詰まった家庭からの電話であったり、女性を襲おうとしていたチンピラたちを排除しようとしても、あっけなく負けて病院に運ばれてしまう。

 主人公の二人組はかつて「J-pop界狂乱の00年代初頭」に大人気だった「小室ファミリー」に所属するアーティストであったのに、チンピラからはボコ殴りにされ、追い立て屋からは殴られアパートから追い出され、ホームレスとなって公園で寝泊まりするようになる……といった情けない現実を受け入れなければならない。

 この辺の主人公二人の「ダメ人間」っぷりの哀しさは、いましろたかしであったり、『僕といっしょ』以後の古谷実であったりといった漫画家らが採り上げてきた主題と同様のものである。

左:古谷実『僕といっしょ』、右:いましろたかし『初期のいましろたかし』

 TAKO介の最愛の相棒たる先輩のDr.皇は、高潔な精神でこういった「情けないわれわれの現実」に悠然としたスタンスで抗う。

 チンピラに袋叩き似合って入院した時には「余は負けてはおらん… なぜならばまだギブアップしておらんからなあ… あきらめぬ限り負けにはならん。すなわちノーサイドの笛は、まだ予の耳には届いておらんということだ。(P.227)」と言い、アパートを追い出されて公園で寝泊まりするようになってしまった際も「予は人間を遮る全ての壁と天井を取り払った… 見上げれば空、腰を下ろせば土、予はもはや地球そのものだ…(P.362)」と自らの「情けなさ」を打消し、己の尊厳を観念的に回復しようと抗う。

 ある意味Dr.皇は、世界を変革する方法を自らの観念的な変革に求めた人間だったのかもしれない。

 そう考えれば、あくまで地に足ついて現実世界から抜け出せないTAKO介のほうは、世界を変革する方法を「行為」に頼った人間であったと言えるだろう。

 彼らそれぞれ二通りの「変革」はあえなく挫折する事となる。

 チンピラに負けた事実を「余は負けてはおらん…」と打ち消した所で、自分の顔を醜く歪める傷が癒されるわけではない。
 アパートを追い出されてホームレスとして生活しなければならない事実を「予は人間を遮る全ての壁と天井を取り払った…」とポジティブに捉えようとしても、金のない苦しい生活が改善されるわけではない。

 自らの不幸をいくらポジティブに受け止めようとしても、限界がある。厳しい現実が、やがてDr.皇の観念を押し潰してしまう。

「楽園」に戻りたいと思いながらも、ただただ愛するDr.皇の成そうとしていた「ライトシング(正しい事)」を、自分なりに最低限守って生活していたTAKO介も、様々な人間に騙され、狂気に打ちのめされ、最終的に決断した決定的な「行為」でさえも、厳しい現実の前に挫折する。

 本作の主人公らは、強烈な正義感と子供にも負ける非力さによって空回りし続けるヒーロー、ジョージ秋山『デロリンマン』の主人公・デロリンマンの近親者と言えるのだろう。

ジョージ秋山『デロリンマン』

 Dr.皇とTAKO介の、社会を変革したい――彼らの言葉を使えば「楽園を創造(シャイラ)する」――という願いは、能力も知識も足りず、滑稽に空回りし続けるだけである。

 が、彼らに足りないのは能力や知識だけではないのだろう。

 かつて60年代学生運動に参加していた若者たちのように、希望を持って信じる事の出来る「思想」が、この時代には欠落している。

 そして、「この人物を打倒すればこの苦しい現実が救われる」という「黒幕」や「敵」が、果たして存在しているのかどうかも分からない。

 また、われわれのこの苦しい現実を生み出している根本的な原因は何なのか?……という「原因」が見えていない。

 さらに、「こうすればこの厳しい社会を変えられる」というはっきりとした「方法論」や抜本的な「手段」が、存在していない。

 ……かくて、彼らは「倒すべき敵」も「解消すべき原因」も分からず、行動すべき指針となる「思想」もなければ、この現実に対抗できる「方法論」さえも見当たらないまま、「変革したい」という意識だけが空回りし続ける事となっているのだ。

 本作では「楽園」へ至る道も、あるいは日本を「楽園」へと「創造(シャイラ)」する方法も、提示されてはいない。
 主人公らはただただ、ボランティア的に「ライトシング(正しい事)」をし、古典的な変革の方法としての「政治家の暗殺」を繰り返すのみである。

 Dr.皇が言うには、この世は「灰色の地獄」である。TAKO介は渋谷で「やっぱりこの街は狂ってます…(P.398)」と嘆く。

 この苦しい社会を「楽園」化しようとあがく彼ら二人には、そのための手段も、抗う相手も皆目見当もつかないまま、苦しい現実の洗礼を受けてのたうち回っているのである。

 本作のレビューを見てみると「面白いのかどうかよく分からない」「意味が分からない」「難解」等と、この物語の意味を理解できないという意見が散見できる。それにも関わらず、多くの人が本作を「意味が解らないけれども圧倒される」といった感想を漏らしている(本書のオビの推薦文、俳優の山田孝之の「大好きです。でも正直言って分からない」という言葉に端的に表れている感想だ)のには、それなりの理由がある。

 いま、日本社会は確実に厳しい状況に陥ってきている。
 それは例えば国民の公的負担増や少子高齢化社会、物価の上昇、子どもの貧困、環境問題、ジェンダー差別に政治の迷走……と、ここで詳しく説明するまでもないだろう。

 こういった厳しくも苦しい社会を過ごしやすいものにしたいと考えながらも、その手段も原因も分からずにのたうち回っているのは、何も本作の主人公だけではあるまい。
 本作を読んだ読者たちも、多かれ少なかれ本書で書かれる状況と同じような厳しい状況の中、どうにもならない閉塞感を抱いているからこそ、本書の主人公らの苦しみと悲惨な足掻きに共感し、圧倒されるのではないだろうか。

 本作が「政治家を暗殺」するシーンを含んでいながらも、「政治風刺をメインテーマにした作品ではない」とぼくが主張するのは、「解決手段がそういった分かり易い所にない」という主人公らの絶望感につながっているからである。

 抗う相手もその手段も分からないままのたうち回っているのは、本作の主人公らばかりではあるまい。おそらく、作者も同様の苦しみを感じているに違いない。

 一時期の『ガロ』を思わせるアート的な書き方をし、挑発的なシーンを複数はさみ、「新たな表現方法を模索しよう」と、作者自身も足掻いているのである。

 そんな作者なりの誠実な「ライトシング(正しい事)」の結果として、作者自身も「突然の連載打ち切り」という、厳しい現実に圧し潰されてしまう本作の運命そのものが、まるで本作の主人公らの挫折を追体験しているかのようである。

「私に降りかかったこの事態が、あくまで私個人の問題であり、社会全体の問題ではないことを願います。」

 ぼくにはどこかこの作品が、日本社会を蝕んでいる「バカバカしい現実」に対して、手段も方向性も分からないまま、変革を望み、抗う意識だけが空回りしていながらも、それを続けずにはいられない「絶望的な抗いのイマジネーション」で作られた物語のように思えるのである。


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