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◆感想.《ジャン=ポール・サルトル『存在と無 現象学的存在論の試み』》

※本稿は2022年4月8日に呟きの形式で投稿したレビューを日記形式にまとめて加筆修正したものを掲載しています。


 ジャン=ポール・サルトル『存在と無 現象学的存在論の試み』全三巻(人文書院)読了。

サルトル『存在と無 現象学的存在論の試み』

 あー、しんどかった。読むのに二か月半ほどもかかってしまった。
 しんどかった理由にはいくつかある。
 一つは数々の入門書や解説書で研究者が言うほどには読み易くはなかった事。サルトルの理論にはある種「人生論」的な部分があり、それが単純に「ぼくの趣味じゃない」というのがある事。その理論にしばしば納得できない部分が見られて興味が減退していった事。

 という事で読めば読むほどモチベーションが減退していく、ぼくとしては珍しい読み物であった。

 サルトルの論理展開というのは、ぼくには少々強引に見えてしまう。
 しかし、そういった所に関しても実際にその著作に触れて見なければ実感する事はなかっただろうから、やはり本書は読まねばならなかった。

◆◆◆

 サルトルの現象学は「現象学」と名がついているものの、その実フッサールの超越論的現象学ともハイデガーの解釈学的現象学とも違うものだ。

 違うとは言うが、理論の立て方自体はハイデガーを下敷きにしていると言っても良いだろう。その理論の多くは『存在と時間』から流用され、ブラッシュアップされている。

 例えば、『存在と時間』における重要概念「世界-内-存在」は、サルトルの『存在と無』でも同じく中核的概念となっている。
 そこから導き出される世界を「道具事物の総合的複合」という捉え方というのもほぼハイデガーの理論を利用している。

 サルトルはハイデガーの理論を応用しながらも、それだけにとどまらず、それを後年サルトルが言われるようになる「実存主義」的に解釈した方法論として展開していく事となる。

 つまり本書は「現象学」的な方法によるものだと言いながらも、実はほぼ実存主義の本だったと言って良いだろう。
 「存在論」とは言うが、その対象となっているのは存在ではなく、ほぼ「人」なのである。

 それに対して、ハイデガーの理論はあくまで「存在するというどういう事か?」という問題に焦点を当てている点が違う。
 この問題を解明するために『存在と時間』は前半部で「現存在」たる人間という存在の事について詳細に分析しなければならなかった。
 そして、存在論の本丸にあたる部分に入る所で『存在と時間』は中断されてしまった。

 その事がハイデガーの『存在と時間』の内容を大きく誤解させてしまう事となってしまったのだが、サルトルはその誤解を更に自分流の理論に引き付けて「実存主義」的なものにまで洗練させてしまうのである。
 それが研究者の澤田直をして「積極的な誤用」と言わしめたものなのだろう。

◆◆◆

 では、本書『存在と無』ではサルトルは人間存在をどのようなものだと論じているのだろうか。

 サルトルは基本的に人間を「意識」から考えているのである。

 それはそもそも、当初フッサールが始めた現象学の方法論の根元にあったものが「コギト」から始めるというデカルト的発想から開始されているという事でもあった。

 しかし、サルトルはフッサールの超越論的現象学のコギト性を、ハッキリと「独我論」だと断じて退けているのである。
 この批判は、はっきり言って超越論的現象学の理屈からしてみれば、ほぼ意味がない。

 サルトルの理屈というのはしばしばこのように「誤解」から成り立っている(それが、ぼくが読む気をなくす理由の大きなものであった)。

 サルトルの理論は現象学のコギト性から出発しながらも、いかにして独我論の罠から脱出する事ができるのか?といった形で展開していく。
 そのために利用されるのがハイデガーの解釈学的現象学であった。

 ハイデガー思想もそうだが、このためにサルトルの思想はフッサールの現象学とは似ても似つかないものになっていってしまう。
 結果として行きついたのが、現象学的なコギト性から出発した「実存主義」であった。

◆◆◆

 サルトルの実存主義の重要概念として最もよく知られているのは「即自存在」と「対自存在」であろう。

 これは存在に関する「特徴」のようなものを表している用語だと思っても良いだろう。

 「即自存在」とは、サルトルの説明から言えば「それがあるところのものであり、あらぬものであらぬような存在」の事である。

 ぼくはサルトルのこういうわざとやっているとしか思えないややこしい表現方法が非常に嫌いなのである。
 これは、ハイデガーの表現方法を真似たもので、それゆえにぼくはハイデガーの表現方法も(特に後期思想は)たいへんい嫌いである。

 本書の訳者による用語解説を引用すると、即自存在とは「自己を肯定する事のできない肯定。かたまり的。それ自体とぴったり粘着している存在。無時間制。不透明性。外面性」といった特徴が当てはまるそうである。これでもかなり分かりにくい。

 では、具体的に即自存在とは何に当てはまるかと言えば、ざっくりと言ってしまえば「生物ではない物体全般」という事が出来るのではないかと思う。コップやテーブルや灰皿なんかが「即自存在」だ。

 で、主に「対自存在」のほうが人間を表しているのだが、要はこの「即自-対自」関係によって、人間という存在と、それ以外の意識を持たない物体とは根本的に何が違うのか、という事を説明する道具として、これら「即自-対自」という表現方法は使われているようなのである。
 これによって人間という存在が、それ以外の物体とは違った顕著な特徴がありますよ、という事をサルトルは説明しているのである。

 では、その「対自」とは何なのか。

 またサルトルの表現方法から引用してみれば「それがあるところのものであらず、あらぬものであるような存在」だそうである。
 これは訳者の用語解説には「『意識』『コギト』と同義」と書かれている。
 つまり「対自」を持っているのは、基本的には意識を持っている生物に限られるのである。

「それがあるところのものであらず、あらぬものであるような存在」とはいったい何を言いたいのかと言えば、平たく言えば「静的に動かないものではなく、常に動いて変化して働き続けているもの」のようなものだと思えば良かろう。

 つまり「意識」というものは「常に意識が働いている」からこそ意識であって、意識が働いていない時には「意識がない」=即自となってしまう。
 人間は死んでしまえば「即自存在」となってしまうものなのである。死体には(基本的には)意識がない。ないし「意識の変化」というものもないし、死体には「行動の自由」等というものも存在しない。だから死体は、意識を持っていない物体と同じように「自己を肯定する事のできない肯定。かたまり的。それ自体とぴったり粘着している存在。無時間制。不透明性。外面性」という特徴が現れるのである。

 固定的で変化がなく、「自己を肯定する事のできない肯定」となった意識が、もう死んでしまった状態、という事となる。変化があるからこそ「意識」が意識足り得るという事なのである。

 斯様に本書では、人間存在を「意識」を基本軸に論じていく事となる。

 人間は、意識がある時はほぼ常に何かしら考えていたり、何かに捉われていたり、何かを感じていたり、何かを認識している。
 常に何かしら働いているのが「意識」だ(因みに、こういう観点からサルトルはフロイト学派の「無意識」の存在を否定している)。
 だから、常に同じ状態の意識というものはないのである。

 意識は常に変化を伴う。

 それは基本的には何にも拘束されない働きであるからこそ「自由」なのである。意識は自由であり、自由である事を宿命づけられている。
 「自由な意識ではなくなる」という状態は、意識の状態ではない。意識は否応なく自由なのである。この「自由」には肯定性も否定性もない。

 例えば、意識が自ら自由をなくそうとする事もできる(意識不明の状態=死亡する)。
 しかし、それも含めて、意識の「自由意思」によって選択した結果の事なのである。
 意識は「選択」する分には自由にありとあらゆる事を選択する事ができる。

 無論、その意識の選択について拘束を課してくるのは、意識外の物質的世界の「状況」によってである。

 人間は「世界」の内に、いつの間にか投げ入れられている。
 その中にあって(世界-内-存在)、人間は「選択をしない」でいられるという事は出来ないのである。
 意識である人間は、何かしら自分が投げ込まれている状況の中で、自分がどのように行動するのか、常に「選択」に迫られているのである。

 厳しい親から「●●しなさい」と命令されて生きている「意識」であろうとも、「行動の自由」を拘束されている奴隷状態の「意識」であろうとも、その一瞬一瞬で「選択しないでいられる」という事はできないのだ。
 何故なら「親に従う」も「主人に従う」も、それは自らの意識が「選択」した事なのだから(異論はあろうが、サルトルはそういう考えなのである)。

 勿論、「親に反抗する」事も「主人に反抗する」事も、やれば自らが破滅してしまうから実質ムリな事ではあるだろう。
 だが、それも「選択」するという意識の自由は「自由」なのだ。
 「自由である」という事は「欲する事を自分自身で決定する」という事でもあるのである。

「私は自由であるべく運命づけられている」「人間は自由の刑に処されている」……といった事が「対自存在」たる人間の特徴だといった所であろう。

 長々と説明してきたが、正直ぼくはこのようなサルトルの「自由」観には疑問があるし、ほとんど納得する事ができない。

 このサルトル思想から出てくるものが、あげく、人が戦争に巻き込まれてしまっても「この戦争は"私の"戦争である」と言ってしまう逆転現象である。
 この部分のサルトルの説明は比較的分かり易いのだが、分かった所で納得できるかと言えば納得できるものでもない。

 その辺のニュアンスは重要であろうから、以下かなり長い引用となるが『存在と無』から文章を引いてこよう。

「人の一生のうちには、偶発事などというものは存在しない。不意に爆発し私をひきずりこむ或る社会的な出来事も、外からやってくるのではない。もし私が或る戦争に動員されるならば、この戦争は"私の"戦争である。この戦争は私の姿に似ており、私はこの戦争に値する。私がこの戦争に値するというのも、まず第一に、私は自殺もしくは脱走によって、つねにこの戦争から逃避することができた。これらの究極的な可能性は、或る状況を直視することが問題になるとき、つねにわれわれにとって現在的であるはずの可能である。私はこの戦争から逃避しなかった。私はこの戦争を"選んだ"。このことは無気力に由来することもありうるし、世論の前における臆病に由来することもありうる。【あるいは、また】私が、戦争に行くことの拒否そのものの価値よりも、他の或る種の価値を選ぶからでもありうる(私の近親から尊敬、私の家族の名誉、等々)。いずれにしても、一つの選択が問題なのである。この選択は、その後も、ひきつづき戦争の終わりにいたるまで、たえず繰り返されるであろう。していると、ジュール・ロマンの《戦争においては、罪なき犠牲者は存在しない》ということばに、われわれは同意しなければならない。したがって、もしひとたび私が死もしくは不名誉よりも戦争を選んだならば、すべては、あたかも私がこの戦争の全責任を担っているかのごとくに進行する。もちろん、戦争を宣言したのは、他の人たちである。おそらく、私は単なる共犯者と見なされることになるかもしれない。けれども、この共犯という観念は、法律上の意味をしか持っていない。ここでは、この観念は通用しない。なぜなら、「私にとって、また私によって、この戦争は存在しない」というようにさせることは、私次第であったからであり、私は「この戦争が存在する」ということを決定したからである。そこには、いかなる強制も存在しなかった。なぜなら、強制は一つの自由に対して支配力をふるうことができないであろうからである。私は、いかなる言いわけをももたなかった。なぜなら、われわれが本書のなかで繰り返し言ってきたように、人間存在の特徴は、「人間存在は言いわけなしに存在する」ということであるからである。してみると、私には、この戦争を要求することしか残されていない。(サルトル『存在と無』3巻P.274-276)」

 このサルトルの考え方は非常に逆説的で、サルトル好みだと言えるだろう。
 だが、これは真実をついていると言えるのか?

 いかに人間が自分の状況について自分で選択し、自分で状況さえも変えられるといった所で、まるで「例え戦争に巻き込まれたと言っても、それに抵抗しなければ、貴方はその戦争を(恐怖によってという理由があったとしても、近親からの要請があったという理由があったとしても)"選んだ"のだ。つまり、この戦争に"自ら選んで参加した"のだ」……等と言われて納得できるものだろうか?
 皆様も一般的な直観として、違和感を覚えるだろう。

 上記の言いようからも、サルトルの主張がある意味「自由」という自らの理論の整合性を保つためにも全体的なリアルな状況が見えていないように思えるのだ。

 何より『存在と無』の思想は「コギト」から発想している現象学から出発した理論であるからこそ、「人間の集団」というマクロの問題が見えにくいという問題がある。これは現象学一般に存在している問題でもある。
 事実、後期サルトル思想では、こういった自らの理論の弱点を補うように「集団」についての論考を深めていくようになる。

◆◆◆

 このように、サルトルの理論は様々な逆説を利用して非常にユニークな特性を持っていはするものの、その理路は少々強引な所が見られる。

 サルトルは「作家としては一流だが思想家としては二流だ」と揶揄されていて事が思い出される。

 それでもサルトルが戦後、本書によって一躍有名になったのには、時代的な条件、地域的な条件というものが関わっているのではないかと思っている。

 サルトルの『存在と無』の論理展開というのは、基本的に先人の思想的業績にどんどん疑問を付し、それを修正していきながら自らの理論を固めていくという方法であった(しかし、その先人の思想的業績に対するサルトルの理解については上述したように、誤用が見られる)。

 彼が論駁していった思想家というのは、カントから始まりヘーゲル、マルクス、フロイト、アドラー、フッサール、ハイデガー……と、それまでの近代思想を形作っていった代表的思想家たちなのだが、これらの名前を挙げて分かる通り、みなドイツ人なのである。

 サルトルが『存在と無』によって思想界に殴り込みをかけるまで、西洋近代思想の中心はドイツにあったのである。

 常に西洋の近代思想を牽引してきた数々の哲学の巨人たちの思想をバッサバッサと切り捨て、その上で精緻な理論をくみ上げていくサルトルの著作は、戦後のフランス人からしてみれば、それまで自分らを抑圧してきたナチス・ドイツから、思想という分野だけでも自らの国の人間が取り返してきたという希望を抱いたのではないかと思うのである。

 サルトルが『存在と無』によってフランス思想界に華々しくデビューし、思想書としては異例の売り上げを得たのもそういう好条件が重なったものではないかと思うのである。


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