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◆読書日記.《諸星大二郎『美少女を食べる』~短編「月童」「星童」に見られるエロティシズムとトリックスター的な両義性について》

※本稿は某SNSに2021年2月23日に投稿したものを加筆修正のうえで掲載しています。


 諸星大二郎先生のマンガ短編集『美少女を食べる』読みましたよ♪

諸星大二郎『美少女を食べる』

 本作は2019年~2020年にかけて『ビッグコミック』誌上に連載されたノン・シリーズもののオムニバス中~短編集です。
 SFや奇譚、怪異譚、奇妙な味、ファンタジー等バラエティに富んだオール新作のマンガ7作が収録されていますよ。

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 このバラエティに富んだ作劇の幅広さというのも諸星大二郎の特徴の一つで、自書解題を見ても、その発想が理知的になされている事が良く分かる。

 例えば冒頭の一編『鳥の宿』は「舌切り雀」をほぼ翻案という形で現代的にアレンジしたファンタジーだし、「アームレス」は日本の民話である「手なし娘」を元にしたSF、「タイムマシンとぼく」は昭和のレトロ映画を題材にしているし、表題作の「美少女を食べる」はスタンリイ・エリンの「特別料理」を思わせる「奇妙な味」系統の奇譚……といったように、該博な知識が諸星大二郎の発想の幅広さを支えていることが良く分かる。

 昭和期に活躍した一流のクリエイターは漫画家でもアニメーターでも、該博な知識を身に着けていて、そういった一流のクリエイターほど一ジャンルに拘らずに幅広く物事にアンテナを張り巡らせていたものだった。

 昨今の漫画家やアニメーターのように「漫画ばかり読んでいて漫画家になった」とか「アニメ好きが高じてアニメーターになった」というクリエイターが多いと、発想が漫画業界の中の常識や、同ジャンルの作品にありがちなアイデアに偏ってしまう。
 そのため、アニメや漫画やラノベといった業界は、しばしばアイデアが飽和状態に陥ってしまうのであろう。

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 さて、本作品集の中でもやはりひときわ目立つ作品が、同じ主人公とシチュエーションを使い、分量も編中最も長い「月童ユエトン」と「星童シントン」の二編である。

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 この二編は中国の清朝時代の資産家・姚家に「月童」という少年の家童(使用人)が雇われる所から始まる。

 「月童」は元々はとある大官に雇われていたのだが、その大官が亡くなった際、未亡人から引き取ってきたものであったという。

 「月童」には、彼と形も大きさも見わけもつかないほど瓜二つにそっくりな自動人形「星童」が常にセットで譲渡される事となっていたのだという。

 自動人形「星童」は、一体どういう仕組みなのか、「月童」が一切手を触れずに操り、人間と同じように動かす事ができた。また「星童」のメンテナンスやその仕組みは、姚家の主人しか知らされていないようであった。

 姚家の当主はこの人形が大変気に入って、訪客があるとしばしば「月童」と「星童」との舞いを見せた。
 同じ衣装を着て、同じ化粧をして踊る「月童」と「星童」の芸は素晴らしく、どちらが人形で、どちらが少年なのか見分けがつかなくなるほどであったという……。

 ある時「月童」は、本作の主人公である姚家の跡取り息子・姚兆明の付き人となる。

 「星童」の仕組みがどうなっているのか、姚兆明は知りたがったが、「月童」は秘密という事となっていると言って教えてはくれなかった。

 次第に姚兆明は、この少年「月童」に惹かれるようになっていく。そして近頃、姚家の当主である父が「月童」を頻繁に自室に呼んで閉じこもる事が多くなっている事に不安と嫉妬を覚え始めるのだった。

 果たして父の自室に呼ばれているのは人形のほうなのか、少年のほうなのか。いや、あるいは今おのれが抱きしめているこの少年のほうが人形なのでは?

 姚家は次第に不穏な空気に包まれていく……というお話。

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<注:以下のレビューには「月童」と「星童」のネタバレが含まれます>

 諸星大二郎先生の『諸怪志異』シリーズが好きなぼくとしては、久々に同じく清朝期の中国を扱った怪異譚の新作というのはありがたかったし、期待通りの水準の作品だったと思う。

 諸星先生の解題によれば、生き人形ものの作品は、同じく中国怪異譚として過去に「阿嫦(あこう)」(『太公望伝』に収録)というものも書いているのだそうだ。
 「阿嫦」は女の生き人形の話だったそうだが、本作は少年の生き人形と少年愛をテーマとしている所が特徴となっている。

 「生き人形」も「少年愛」もともに両義性を特徴としているのが面白い所だ。

 まず、「人形」はそもそも両義的な存在であるし、また人間にしてみれば始原的な感覚を刺激される呪術的なものでもある。

 われわれが人形に不思議な感覚を抱くのも、J・G・フレイザー卿が定義した類感呪術の法則である「類似したものは互いに影響を与え合っている」というプリミティブな感覚が人間に残っているからであろう。
 必要がなくなったら処分する。それが合理的な感覚というものだが、現在に至るまで日本の各地の寺社ではさかんに人形供養が行われている事からも、そういう感覚が現代日本人にも未だに影響を与えている事が伺える。
 「人形」が、単なる人の形を模した物体であると割り切って考えられないからこそ、こういった儀式が延命しているのだ。
 人形は古来から、呪的なものなのである。

 ぼくから言わせれば人が人形に抱く奇妙な感覚というものは呪的なものだけではない。
 人間そっくりな姿かたちを持っていながらも「魂」の入っていないモノ……つまり人形というものは明らかな「死体」のメタファーなのである。
 例えば美少女の姿かたちをそのままに模していながらも、吉田良一や清水真理の球体関節人形に濃厚な「死」の香りが漂っているのも、そのためとも考えられる。

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 このように、感覚的に簡単には「単なる物体だ」と割り切って考える事のできない「類似的な死体」である人形に、人は正体の分からない不安感を抱くのである。

 「動く死体」は、それだけで既に恐怖だ。
 それと同じように、死んでいながら動く「生き人形」もまた、既にそれだけで人々に恐怖に似た不安感を与える要素を備えているのである。

 以上のように考えれば、「死者」でもなければ「生者」でもない、無生物でありながら生物のように独りでに動きまわる「生き人形」というものが、「生」と「死」のマージナルな性格を備えている事がわかるだろう。

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 「月童」と「星童」のもう一つのテーマである「少年愛」における「両義性」についても語っておこう。

 美術評論家であり性哲学者でもある福田和彦の『世界風俗じてんⅢ性風俗の巻』によれば、まだ避妊法が完全ではなかった時代の性生活において、やはり最も安全な避妊法は膣外射精であった。
 女性を気遣う紳士のマナーとして膣外射精を行っていた男たちにとって、男色というものは、女性との膣外射精による性交の不満を代償する悦楽として働いていたのだという。

世界風俗じてんⅢ性風俗の巻

 古代ギリシアの市民は男色にふける人間も多かったそうで、事実ソクラテスやプラトン、アリストテレスといった有名なギリシアの哲学者も、みな若い男性を傍に侍らせていたとも言われている。
 日本の中世の仏教僧の間に稚児との男色が流行したのも、女性との性交が禁じられていたための代償行為という理由が存在していた。

 実際、古代から女性と男性との性交には「望まぬ妊娠」以外にも様々な障碍が存在しており、例えば男女の性愛の深い交流がまだ発展していなかった時代の性交には、男女のオルガスムのタイミングの差異が常に両者を性的な対立関係に置いた。
 セックスが、男性の性急なオルガスム原則に支配されるならば、女性は己の性的充実を放棄せねばならず、女性のなだらかなオルガスム原則に支配されるならば、男性は性交のたびに自分の性的満足を長くお預けされなければならないと感じていた。

 男性にとってみれば、そういった女性との性的な不満を充足させる代償行為の一つとして男色があったのである。

 少年愛において少年は、女性の代わりであって女性でなく、男性であって性的に女性の役割として機能していた両義的な存在であったのだ。彼らは陰茎を生やした少女であり、子宮を持たない少女であった。

 文化上の男女の役割の差というものは、そのほとんどが交換可能だと考えるのが進歩的な「男女平等」の考え方であろう。
 料理にしても子育てにしても家事労働にしても、基本的には「女性でしかできない役割」というものはない。
 そんな中にあって唯一、男女の役割の差がほとんどはっきりと分かれる場面が「セックス」であろう(勿論、少数の例外はある)。
 たいていの場合、性交時に「貫入」と「受容」の関係が男女で逆転する事はない。

 だが、男色やサフィズムといった場面では、この定式は通用しない。
 男色おいては、性交のその現場で「貫入」と「受容」との両義性が成り立つのである。

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 諸星大二郎の「月童」「星童」では、この少年と生き人形のコンビは、しばしば互いが入れ替わり、少年が人形に、人形が少年に変化する事で人々を混乱させていく事で物語を進行させていく、ある種「トリックスター」的な性格を帯びている事がわかる。

 人形なのか?それとも人間なのか?「月童」と「星童」のどちらでもあり、生物と無生物との間を行き来し、更には男性的な役割と女性的な役割をも兼ねる。
 人々がトリックスターの存在によって混乱させられるのは、どちらとも区別ができず、はっきりと定義できず、曖昧で掴み処のない「両義的」な性質を持っているからである。

 少年「月童」は民話や神話に見られるトリックスターのように、あからさまな悪戯心を持っているというわけではなく、一見して真面目な人物のように思われる。
 だが、例えば本書P.90で、抱き合いながら愛を語っていた「月童」が、急に人形に入れ替わって「ダンナサマ、ワタシノコトモオワスレニナラナイデ……」と漏らし、主から「わ、わかった。わかったから急に月童と替わるな」と驚かせておいて、全くの無為とはいえないだろう。どこか、隠れた「悪意」があるのではないか……そう思わせる正体不明な所があるのは確かなのだ。

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 時に人形になり、時に人間に代わり、抱き合った瞬間などの「人間」的な肌触りが求められているまさにその時、突如として人形のような無機質さを露出させて人々をどきっとさせるのは、「両義性」を利用して人を騙すトリックスターの特徴を明らかに備えているものと言えるのではないか。

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 『稗田礼二郎』シリーズや『暗黒神話』『マッドメン』等々、民俗学的な素材も得意とする諸星大二郎の事だ。たとえ意図していなかったとしても、そういった民俗学的なアイデアを無意識に題材に入れ込む事もあるのだろう。
 無邪気にエロティックであり、常に入れ替わってその実態が掴みかね、人々を驚かし混乱させる。そんなトリックスターな性格によって秩序を擾乱させる存在を描く「月童」「星童」の両編が、どこかそんな民話的とも言えそうな魅力を放っているのは、諸星の学識の広さが作品に反映されているからなのだろう。


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