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ALSと出会って7年。ALS患者の皆とつくり上げてきた可能性のバトン

今や「ALS」という病気は多くの人が知るほど有名になった。
アイスバケツチャレンジも話題になったし、ドラマにもなったし、有名漫画でも取り上げられ、世界初のALSの寝たきりの国会議員も登場した。
だが、未だ原因もはっきりしていない不治の難病であり続けている。

解っている事は、呼吸器を装着しなければ診断を受けてから個人差はあるものの2年~5年ほどで呼吸ができなくなり死亡してしまう事感覚や思考には何の影響もないまま身体の動きが眼球などの一部を除いてほぼ動かなくなってしまう事年間国内で1000人ほどが発症している事、そして呼吸器があっても装着する人の数は3割ほどで、7割は呼吸器をつける選択を行わず死を選択する事。つまり、年間700人、平均で1日2人がALSで呼吸器をつける選択をせず亡くなっている計算になる。

これがALS(筋萎縮性側索硬化症)

まだ世間的にもまったく有名ではなかったこの病気との詳細な出会いは以前のエントリーに書いたが、私が2013年にヨーコさんというALS患者さんと出会ってから7年。私達が彼らと共にどんな挑戦をし、何ができるようにしてきたのか。その事例を紹介し、ALSの病気であってもこんな事ができるのだと知ってもらいたく、noteを書く事にした。

2013年から、仕事だけでなくプライベートでもずっと関わって開発してきた話なのであまりに長くなってしまった。応援していただければ嬉しいが、そうでなくとも、「今は寝たきりでもこういう事ができるのか」と、ひとつの希望の選択肢として、知っていただければ幸いだ。

はじめに

私とALSとの出会いのきっかけになった分身ロボット「OriHime」、元々は私自身の3年半の不登校の経験から、入院している子ども達が「本当にそこにいる」ような感覚で学校に通う為に作った遠隔操作ロボットだ。PCやスマホから操作し、周囲を見て周囲の人と会話や手振りのコミュニケーションができる。

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現在は全国のいくつかの学校などに導入されている他、100社以上の一般企業のビジネスの中でテレワークロボットとして活用される事が多くなっている。
このOriHimeの製品化を目指していた2013年、ヨーコさんという寝たきり状態のALS患者さんとの出会いをきっかけに、孤独を解消する私の研究活動の中に深くALSが関わり始める事になった。

2013年:ALSとの出会い

2013年3月、まだALSという病気が今でいうSMA(脊髄性筋萎縮症)などと同じく一般的には未だ知られていない頃、ALS患者のヨーコさんと出会い、彼女の豪快な人間的魅力もあって何か私にできる事をしたいと思い、OriHimeをヨーコさんが動かせるようにする有志の自由研究をスタートした。

何度か家に通い、3ヶ月目には目の周りに筋肉の神経信号を検出するセンサを装着し、手を動かす事ができなくとも周囲を見渡す程度だがOriHimeの操作が可能になり、遠く離れた友達とのBBQにOriHimeで参加する事を実現した。(この時まだヨーコさんは普通に発話できた。)

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その時のご友人達と。

2013年秋、ヨーコさんの体調が悪化し、会う事ができなくなってしまい、その後亡くなってしまった事で有志のチームは解散したが、開発途中、インタビューの中で彼女が言っていた
「この研究が誰かの役にたてるなら、私がALSになった価値になる。だから、オリィと一緒にやってる。」という言葉を思い出し、個人的に自由研究を続ける事にした。

ALS協会やICT救助隊、個人の患者さんなど色々な方を訪問して回っている中で、ヨーコさんから紹介されていたALS協会副会長(後に会長)の岡部さんを訪ねた。当時は30万円くらいして高額だったアイトラッキングセンサーを採用し、顔にセンサーを貼る事なくOriHimeで「うなづく」動きができるようになった新型をさっそく試してもらった。

喋る事もできず、目しか動かせない岡部さんが、OriHimeで「頷く」「相槌を打つ」「床を走り回るペットを見る」「ペットの写真をとる」事が可能になった。
日本ALS協会にも頻繁に出入りするようになった。この頃、ALS協会の患者さんにOriHimeを見せて「分身ロボットを使えば将来は自分で自分の身体を介護する事ができますよ。分身とはそういう意味です。」と説明したが、学生の冗談に思われたのか信じてもらえなかった。

2014年:日本武道館で挨拶とアイスバケツチャレンジ

日本武道館で8000人の前でプレゼンする「みんなの夢アワード4」に出場する事になった。岡部さんが視線入力だけで操れる、2足歩行OriHimeを開発して8000人の前で歩き回り手を振るデモンストレーションを考え、仲間らと3ヵ月でデモロボットと操作システムを開発した。

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何度も調整を重ね、当日のリハーサルでは全く動かないトラブルの中、本番では奇跡的に復活し、岡部さんは自宅から2足歩行版のOriHimeを操作する事に成功し、優勝する事ができた。(優勝スピーチの時、岡部さんはアドリブで万歳をしていた)

同時期、ALS患者の藤澤さんと出会う。
65歳でALSを発症され、私と出会った77歳の時は自宅のベッドで過ごす生活をされていた。

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77歳でALSにしてアーリーアダプター精神のある藤澤さんは是非OriHimeをまだプロトタイプにも関わらず購入してくれ、それを技術の解るヘルパーさんに指示を出して視線で動かせるような改造を試みていた。(凄い)
その熱意に動かされ、私も藤澤さんの頻繁に家に通うようになった。

2014年夏、ALSという病気を一躍有名にした「アイスバケツチャレンジ」が世界的に流行した。バトンが廻ってきたら1万円寄付するか、氷水を頭からかけてバトンを廻すという、話題性あれど賛否両論あるイベントで私にもバトンが廻ってきた。だったらALS当事者の人が氷水をかけるシステムを作ればいいじゃないかと、これまで作っていた技術を流用して半日で作って投稿した。

藤澤さんは頬の筋肉は最後まで残り、私に水をかけて少年のような顔で笑っていた(動画最後)
ALS患者が遠隔で水をかけるシステムは世界的にも初めてだったようで、海外のメディアでも紹介され、藤澤さんの家に集まって皆で見るのが楽しかった。

2015年:ノルウェーでの活用と、OriHime eyeシステムの発明

2015年、本業の傍ら趣味で視線入力でOriHimeを操作するソフトウェア開発を進め、多くのALS患者さんを訪問して生活を見学させてもらっていた。その中で、OriHimeをテスト導入されていたノルウェーに住んでいるALSのタラルセンさん一家(奥さんが日本人)がノルウェーの国営放送で紹介され、話題になった。

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日本と違い在宅の制度がなく、一緒に暮らす事ができないALSのお父さん(今は奥さん達の奮闘の末に権利を勝ち取られ、一緒に暮らされている。)が、OriHimeで自宅の娘たちの宿題をみたり、遊んだりしている。

タラルセン一家の奥さんであるユキさんとよく意見交換し、家族が日本にくる時はノルウェーにいるアーレさんとOriHimeでつなぎ、家族皆でディズニーランド旅行も実現した。一緒にコーヒーカップに載ったりしていた。

2015年秋、藤澤さんの家に通いながら様々な視線入力の方法を研究している時、普段ALSの患者さんが使っている「透明文字盤」をソフトウェア上で実装してみたところ藤澤さんが「これはいい!」とすぐに入力してくれた。
すぐにいつもどおり公開しようかと思ったところ、これは特許をとった方がいいとアドバイスを受け、特許を申請した(のちに国際特許も申請)

特許技術であり、「これまでのどの意思伝達装置よりも良い」という藤澤さんのお墨付きもあり、それまで自由研究、趣味として続けていたALS×OriHimeのプロジェクトは製品化を目指す事になった。また、藤澤さんはその後オリィ研究所の特別顧問になり、OriHimeのプロジェクトのアドバイザーに就任された。
当時79歳。「20代の若者とベンチャーやれるのは楽しい」といつも言ってくださった。
また、藤澤さんは奥さんとOriHimeで花見へ行ったり、同窓会へも参加されるなど、積極的にOriHimeを使ってフィードバック意見を頂き、改良した。

2016年夏、「OriHime eye」 リリース

動画に映っているのは日本ALS協会の現会長の嶋守さん。彼も協力者で、製品化の際は何度もテストに協力していただいた1人。

多くのALSやSMAなどの難病の方に使ってもらえる製品になり、色々とフィードバックを貰うようになり、機能もどんどん追加していった。

・視線だけではなくスイッチだけで操作できるモード
・エアコンやテレビも操作できる周辺制御装置との連携
・文字入力と発話だけではなくWindowsそのものを操作できるモード
・長文を保存し、スピーチできるモード
・眼が疲れにくい白黒反転モード
などなど。

「障害者向けの製品なんだから無料で公開するべき」という声も当時はうけたが、有償の製品になった事で開発費に投資でき、開発メンバーも増え、バグも修正し、安定的に改良を重ねる事ができるようになった。
様々な方々に使ってもらって回った。

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そんな中、出会ったALSの患者さんから「OriHime eyeで友達や家族と会話できるのは嬉しいが、できれば仕事をしたい。社会の一員として活動できるなら、OriHimeを買いたい。」という声をいただいた。

そこで、年齢も1つ違いでALSを発症し、WITH ALSという団体を立ち上げて活動していた武藤将胤(ALS)と、私の秘書として2014年からOriHime開発に関わっていた番田雄太(頸髄損傷)と共に、「たとえ寝たきりになってもOriHimeで働ける未来を作る自由研究プロジェクト」を開始した。これもビジネスになるとは思っていない有志の自由研究からスタートした。

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名古屋でALSの啓蒙イベント「ゴロン」を開催している平野アナウンサーや、ALSに限らず車椅子のバリアフリーマップアプリ「WheeLog!」を開発する織田さん、初期からのOriHimeユーザーの岡部さん達多くの応援者と共にキックオフイベントを実施。OriHimeでどうやったらお金を貰えるような仕事に就けるかなど、アイデアを出し合った。
 
そんな中、OriHime eyeを使いこなす人が現れはじめた。


2017年:アーティスト榊さんの登場と、購入補助制度の適応

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これらの絵はOriHime eyeを使い、目だけで書かれた絵だ。
私も初めは信じられないと驚愕した。というのも2015年くらいの自由研究の際にOriHime eyeのシステムを使って絵を描くシステムを作り、難しくて現実的ではないと途中で止めた経緯があったからだ。

これを書いたのは農林水産省で、ALS患者の榊浩行さん。
彼は視線で絵を描くだけでなく、OriHimeで農水省へテレワークし、地方のシンポジウムなどにも出席、国家公務員としての仕事を続けられた。

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病院に入ると榊さんのOriHimeが挨拶してくれて、病院スタッフの人達とも談笑し、よい関係性を築かれていた。
表情は作れず寝たきりの榊さんだが、その横のOriHimeが「お綺麗な方の訪問を歓迎します」と言うのだ。そんな榊さんは病院で人気者だった。入院のコツは、スタッフと仲良くなる事だ。

また、めったに外に出られない榊さんはOriHimeで友人らと共に外出し、鎌倉や名古屋、トークショー等のイベントなどにも出席され、私ともよく一緒にイベントに登壇するようになった。
病気で身体が動かなくても色んな可能性が広がりました。同じような病気の方にも、ぜひ希望をもって共に生きていければと願っています。」と、OriHimeを使ったビデオレター(上記)で伝えられた。

2017年夏、OriHime eye(現在の製品名 OriHime eye+switch)は補装具費支給制度により、1割負担で購入できるようになった。(PC込み45万円なので、4.5万円で導入が可能。)全国にも代理店ができ、これにより更に利用者が導入しやすくなり、機能を更に向上させる事ができるようになった。

詳細:


2018年:OriHimeの拡大と、分身ロボットカフェ計画

2014年くらいの自由研究段階のOriHime eyeプロジェクトに注目され、「OriHime eyeで友達や家族と会話できるのは嬉しいが、できれば仕事をしたい、社会に参加したい。」と私に言った1人でもあった高野元さん。元スタンフォードの研究員であったほど優秀な人だが、ALSを発症してからは勤めていた仕事を辞められていた。それでも独自にALSの人がプレゼンできるシステムを開発されるなど精力的に活動されていた。

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松岡修造さんの番組に私が出演するオファーを貰った時、元々テニスが大好きだったという高野さんにすぐに連絡し、高野さんがOriHimeで松岡さんとテニスをする番組が実現した。

これによりご縁が深まった高野さんとの挑戦はその後さまざまな形で広がる事になる。

また、ALSになってしまい仕事を続ける事ができなくなった広島の教頭先生を、なんとかOriHimeで卒業に出席してもらえないかと、生徒会長と副会長の2名がオリィ研究所へ電話をかけてきたのもこの時期だ。

卒業式では長岡先生もスピーチされ、生徒からは教頭先生のいる卒業式になったと喜びの報告を受けた。その後、長岡教頭先生はまだ私にもできる事はあると、広島県のALS協会の副支部長に就任され、活動されている。

夏、2014年に日本武道館で2足歩行OriHimeを動かした時から岡部さんとやりたかった、もっと大きな人サイズのOriHimeを開発して、岡部さんが動かして近くにいる人にものを渡す実験に成功した。

さらに、2年前から番田と武藤と共に語り合っていた、OriHimeを使ってALSなどの難病があっても仲間と一緒に働けるカフェ「分身ロボットカフェ」構想を発表し、実現させた。

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カフェで働いたメンバーはALS3名を含む全国の10名の様々な外出困難なメンバー達。また、ALSではないが頸髄損傷で首から下は動かす事ができない山﨑さんも、OriHime eyeを使って視線入力で接客した。

パイロット達の時給は1000円。10日間だけのイベントだったが、多くの海外メディアや政治家も見学に来られ、「なんだ寝たきりでも働けるじゃないか」と多くの人に知ってもらえたイベントになった。

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松岡修造さんとテニスをした高野元さんはここでも大活躍し、OriHime-Dを自在に操作し、お客さんと合成音声で会話し、ドリンクのオーダーをとって給仕する。これを視線だけでやれる事を実現した。さらにはスプーンが欲しいというお客さんからの要望にアドリブで応え、キッチンまで移動しながらチャットで裏方へ伝え、きちんと届ける事まで実現した。

同じくパイロットで、ALSのみかさん
OriHime-Dで働き、お客さんのテーブルに紙コップを並べる事例を作った。


2019年:ALS患者の自分の声を残すプロジェクト+宇宙兄弟コラボ

1月、視線入力で絵を描かれる榊さんは、代官山TSUTAYAで絵を展示&販売が実現した。ポストカードも沢山売れたが、榊さんは「研究開発に寄付したい。」と言ってくださり、我々に寄付してくださった。その資金は次のプロジェクトの開発に使わせていただく事にした。

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2018年春、
ALSの武藤とはずっと話していた課題があった。それはOriHime eye+switchの声は機械の合成音声であり、自分の声とはかけ離れてしまう問題だ。
些細な事に思われるかもしれないが、自分の声というのは自分の一部であり、呼吸器をつける事で一生それを失ってしまう。私自身、多くのALS患者さんと会ってきて仲良くなっても、本人の声を知らない事がほとんどだった。
世の中には声を残すサービスも存在はしていたが非常に高額で、30万円~100万円するものもあった。そこで東芝デジタルソリューションズさんの協力を得て、彼らがリリースしたばかりの「コエステーション」とOriHime eye+switchをコラボさせる、ALS SAVE VOICEプロジェクトを開始した。

資金はクラウドファンディングで集め、ありがたい事に340万円もの資金を使い、開発を進める事ができた。はやく実現しないと間に合わない人もいる。速攻で開発をすすめて3ヵ月後、2019年の夏にサービスリリースした。

上の動画と一緒に見てもらえると、武藤の声がほぼそのまま再生される事に驚くと思う。さらに改良を重ね、この手の意思伝達装置としては初となる感情を乗せて読み上げる機能も搭載した。

この「コエステーション」はiOSアプリでリリースされており、誰でも無料でかなり高品質な合成音声を簡単作る事ができる。(現在androidは未対応)
ALSの方は病気が進行すると声も変化が現れる事がある。無料なので早めに声を残しておいてさえもらえれば、OriHime eye で一生使い続ける事ができる。

また、ALSやSMAなど、身体がほぼ動かせないメンバーらと「第2回 分身ロボットカフェ」を実施。人数を30名に増やした。これまで全く働いた事がない人達も積極的に採用し、仕事も細分化する事で更に多くの労働の実験が可能になった。

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第2回分身ロボットカフェでは、ALSのキャラクターが登場する宇宙兄弟・せりか基金さんとコラボが実現した。
カフェにはOriHimeとOriHime eyeユーザーで、2019年夏にALS国会議員として当選し話題になった舩後議員も来られ、多くのスポンサーに協賛していただき、2018年より更に多くのメディアに注目されるイベントとなった。

また、WITHALSの武藤とは2018年に引き続き、視線入力でVDJを行うイベント「MOVE FES」を開催。
視線入力だけでここまでやれるという事例を発信し続けている。

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このイベントを最後に、武藤は気道食道分離手術を行い、肉声を失ってしまった。しかし、武藤の合成音声により、OriHime eye を使って声を失う前の声のまま、今でも一緒にトークライブや、ネット上での講演を続けている。


・・・

ここには本当に書ききれないほど、多く出来事があった。
呼吸器をつけた人、つけなかった人、つけていたけど亡くなってしまった人、様々な人達と出会い、会話してきた。
「家族に迷惑をかけたくない」
「寝てるだけじゃなくて、何かしたい」
「社会に参加したい」「恩返ししたい」
「何か生きた証を遺したい」
「心が元気なら、どこへでも行けて、なんでもできる」など
色んな声を貰い、そのたび気付かされてきた。

多くの仲間とも別れてきた。
私が7年関わるALSという病気との出会いのきっかけとなったヨーコさん、ALS協会で私を笑顔で迎えてくれた藤元さん、OriHimeを真っ先に導入し、OriHime eyeを一緒に作った藤澤顧問、ALSではないが呼吸器をつけて寝たきりで、3年間一緒にOriHimeを作ってきた相棒の番雄太、彼らは既に旅立ってしまい、OriHime eyeで絵を描かれた榊さんも2020年の5月に亡くなった。
仲間との葬儀のたび、彼らとの挑戦がここで終わるのかと本気で悔しく、辛く思ってきた。
 
しかし、ヨーコさんの人柄からスタートしたALS×OriHimeのプロジェクトがあったから岡部さんや藤澤さん達と出会い、藤澤さんとOriHime eyeを作った事でつながった高野さんや武藤、番田との出会いから働く事への強いイメージを持つ事ができ、「分身ロボットカフェ」の多くのパイロットにバトンが渡され、今はバトンを受け取った皆と共に「寝たきりでも働ける」事例を多く作り始めている。
また榊さんがOriHime eyeで農水省で働いた事や、絵をかいた事で、「目だけで絵が描けるんだ」と気付いた特別支援学校の子ども達が絵を描き始めた。

誰かの挑戦が、他の誰かの「できるかもしれない」に繋がる。そしてその人がまた次の挑戦を始める。そうやって誰かの願いが次の人達の道を拓く
その連続を見てきた7年だった。


私達が作ってきたツールが選ばれなくてもいい。ただ、「お父さんに使わせたかった」「あと半年早く知っていれば」という声は後を絶たず、それがもっとも悔しい。
必要な時に知らなかった事は、存在していなかった事と同じ事になる。こういう生き方もある、先人が作ってきた利用できる制度や便利なショートカットツールがある。今も研究は続けている。それらを「知って」もらう事で、選択肢になればと思う


2020年

分身ロボットカフェで働いたメンバーの中から、企業へ就職する人が現れ始めた。パイロット達の接客を受けた企業が、採用を進めてくださる事になった。
「ALSでも働きたい。」2015年、自由研究レベルだった私に会いに来てくれて、そう言った高野元さんは今、OriHimeで神奈川県庁、黒岩知事の共生社会アドバイザーに就任し、会議に出られるようになった。

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また、第1回分身ロボットカフェでOriHime eyeを使って働いていた頸髄損傷の山﨑さんは、大阪のチーズケーキ屋で販売員を、分身ロボットカフェで働いたマサは友達と一緒にゲームクリエイターになり、エミさんと伊藤さんはNTTホールディングスの受付案内として雇用され、山本さんと今井さんはマイクロソフトへ、そしてそれまで仕事をした事がなかった高校卒業したばかりのひろと君と、マヤさんは、7月から大崎のモスバーガーのカウンターへ、それぞれ分身ロボットで働く初事例として、先駆者となっている。

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世の中は理不尽や矛盾に満ちている。
生きる意味を問い、死なない理由を探したいと思う事もある。
しかし、生き方に悩み苦しんだ人達の行動が「そんなもんだよ」という諦めではなく、「こんな方法もあるよ」と、次の世代の希望への「ツール」「前例」として遺せるなら、私達も胸を張って「生きてよかった」といえるのではないだろうか

ALSと出会って8年目。
ALSや難病でなくとも、生きる限りいつか必ず寝たきりになる一人の人間として、寝たきりになっても「生きていたい」と思える未来を実現したい。私の研究テーマである「孤独の解消」の一環として、これからも取り組んでいきたいと思っている。


吉藤オリィ


追伸:
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