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映画『BAD LANDS』感想

大阪という舞台のもつ、特有の空気を切り取るカメラ×名優・安藤サクラと山田涼介の痺れる演技×ディテールを重ねた犯罪描写と、エモーショナルさのバランスが絶妙な脚本。この化学反応が私のツボを突きまくり、ラストカットの想像を超えた爽快さに、涙する。
底辺に縛りつけられ続けたネリ達の「解放の物語」。その感想を、以下に記していきたい。

また、映画『燃えよ剣』で沖田総司役を演じた山田涼介さんに魅入られた"沖田オタク"として、『燃えよ剣』沖田総司と『BAD LANDS』ジョーの関連性についても触れずにはいられない。原田監督、あなたの"山田沖田"の強火ぶりには、感服でした。


◆虐げられた人びとの、終わりなき苦悩とその終焉

とある月曜日から、物語は始まる。
破魔矢を携えた謎の女が、鈴を鳴らして街を駆ける。女を見ると、人々は思う。
「ああ、また一週間が始まった」と。
多くの労働者にとって、月曜日は地獄の始まりだ。そこから五日間の労働に耐え抜き、週末には羽を休める。しかしまた、月曜日がやってくる。うんざりするようなサイクルに、何十年と縛り続けられている。その悲哀は、この映画と決して無関係ではないだろう。

主人公ネリ達もまた、労働者のひとりである。ただその労働の内容とは、特殊詐欺。役割の細分化された詐欺グループの人間達は、己のボスの顔もろくに知らないまま、ひとつの歯車として機能している。ネリが請け負うのは主に下見、そして受け子に指示を出す、"三塁コーチ"と俗に呼ばれる仕事である。特殊詐欺グループは、社会の縮図のような階層社会。下っ端の仕事であればあるほど、捕まった時のリスクは小さいが、儲けの取り分は少ない。
ネリの暮らしは荒んで、貧しい。僅かばかりの手当をあてにして生きる受け子達の暮らしも同様に、貧しい。そんななかでネリは、少しでも彼らの暮らしを成り立たせようと腐心し、高城からは、「二言目には金やな」と言われている。

「持たざる者の連帯」、そんな表現が作中に出てくる。平たくいえば「助け合い」ということなのだが、「助け合い」なんて生温い表現ではなく、「連帯」と言い表すところに、虐げられっぱなしでは終わらせない、抗おうとする闘志を感じる。要するに、そこには持たざる者の、施しも哀れみも受けず、どんな環境でも人間らしく強く生きようとする、矜持がある。
「持たざる者の、連帯。そう思うと、すーっとするんや」というネリのセリフには、そんな気持ちが込められているのかもしれない。

(「お上」でない権力者が不気味に蔓延り、虐げられた者達が蠢く物語。その舞台として、清濁併せもつ魅力に溢れ、人の情が血の色より濃い大阪という街ほど、相応しい場所はないように思った。人物達が聞き取れないほどの早口で関西弁を捲し立てる生々しいスピード感、街で生きる人の息遣いを切り取るカメラは、『燃えよ剣』で京都の街と人を描写した手法にも通じるものを感じた。これが原田監督のカラーなのだろうか)

作中、ドストエフスキー『虐げられた人びと』について触れられるが、公式ホームページに寄せられた監督のコメントからも、本作がこのドストエフスキーの長編小説を下敷きにし、主人公をネリという名前の女性にしたことは、明白である。主人公の性別転換とは大胆な脚色だが、この大きな改変によって本作は、犯罪に手を染め、底辺社会で生きざるをえない人間達の苦しみと連帯、解放を描いた、秀逸なフィルムノワールに昇華されたと感じている。
『虐げられた人びと』では、醜悪な貴族ワルコフスキー公爵をキーとして、二つのエピソードが同時並行で語られる。ひとつは、公爵の息子に恋をしたナターシャの悲劇。そして、実の父親である公爵に捨てられ、母親とともに苦難の暮らし送ってきた少女ネリーの悲劇。
一方『BAD LANDS』では、ネリは実の父親に虐げられながら愛されている。そして恐ろしいほどの暴力で支配する元カレは、どこに逃げても彼女を追いかけてくる。
ネリを苦しめ、底辺に縛りつける者達はどちらも、権力者であり、富を持つ者だ。

金。金。金。

金のない暮らしとは、どうしてかくも惨めなのか。逆に言えば、金さえあれば、この終わることのない最低の人生から、逃げ出すことができるのではないか。ネリは、そう考えたに違いない。
つまるところ彼女は、金が欲しかったのではない。ただ、自由が欲しかった。尊厳の脅かされない人生が欲しい。そのために必要なのが、金だった。
ネリは夢を語る。南の海にいきたい、と。その時映画を観ている者の脳裏によぎるのは、鮮やかなライトブルーの海。白い砂浜。眩しいまでの太陽光と、緑色の椰子の木。ほとんどの時間、濁った色彩が画面を覆う本作において、「南の海」という言葉の持つインパクトは、強烈である。目の前の現実と、夢との落差に、身悶えせずにはいられない。
ネリはきっとポリネシアで、なにか具体的にやりたいことがあるわけではなかったのだろう。南の海、の象徴する平和で穏やかな時間、心の楽園をこそ手に入れたかった。
(高城を埋めた後に入ったラブホの内装が、どことなく南の海を彷彿とさせたことが気になった。紛い物の「南の海」だとしても、ネリ達にとってはひとまず支配者を片付け、一時的に楽園を手に入れたひとときではあったろう)

権力者である高城も、胡屋も、人間の愛し方が歪んでいる。そんな愛に虐げられてきたネリだが、彼女を救ったのもまた、愛だった。

曼荼羅の、ネリへの愛はまるで祖父のような、慈愛に満ちた献身的な情だった。親よりも自分を可愛がってくれた彼とネリは、実の親子よりもあたたかな関係で結ばれている。
誰もが金に執着する物語の中で、彼が金を欲しがらなかったことにも注目したい。誰かを助けたい、誰かに分け与えたいという曼荼羅のあり方は、自己本位な人間の多い本作のなかで、ひときわ美しく見えた。

そして曼荼羅と同じく最期には、命も、金も投げうってネリを愛した男が、ジョーだ。
ありがちな姉弟愛とは違う、しかし性愛とは言い切れない奇妙なジョーの感情を、一言で表すのは難しい。ジョー自身も、さまざまな表現を使って二人の関係性を表現しようとしていた。腐れ縁とか、バディとか。
ネリがジョーに見せる顔は、姉の顔だと感じる。幼かった彼女達にとって、苦労を共にした家族は「世界」の最小単位で、この地獄を一蓮托生で生き抜く、自分の身体の一部のようなもの。
それを最もよく表しているのが、ネリの父親殺しのシーンだ。高城とジョーが揉み合いになった際、高城の方を刺したのははじめ、意外に思えた。だがかつて、ネリのためにジョーが自身の父親を殺していた経緯を知り、納得がいった。高城を生かしていれば、ネリは権力側に立てたかもしれない。だが、ジョーを見捨て、自分一人だけで助かる道をネリは選ばなかった。弟も、救われなければ意味がない。弟とは、そういう存在だ。
ネリとジョーの、姉弟らしい遠慮のない物言い、軽口の応酬は微笑ましい。珈琲を飲む時にすぐ隣に座られるとうっとうしかったり、ちゃらんぽらんすぎる疫病神的な弟に呆れ果てながらも、面倒を見たり。銀行印を探せと説明するネリと、ちっとも真面目に捜索しないジョーのシーンなんか、歳の近い弟を持つ姉の身としては「姉弟あるある」すぎて、感動した。
そんな姉に甘える弟の感情は、しかし姉よりも随分と、ウェットに感じた。
高城とネリとの関係性を訝しむ。自分より曼荼羅の方を優先させるような物言いをするネリに、臍を曲げる。ネリが、二人で生きてきた過去の話をするのを、喜ぶ。自分を愛しているのでは、と言われ、カッとなりネリが向けてきた銃口を優しく、下ろしてやる。ジョーは、ネリをいつも見つめている、それこそ、愛おしそうに。
彼はどうしようもない男ではあるが彼なりに、姉を守ろうといつだって考えていたに違いない。自分はサイコパスなんやとイキっているのも、彼女のためならどんなヤバいことでもやってあげられるアピールに聞こえてくる。高城に対する押し込み強盗だって、姉を支配する男からその金を奪い、共に逃亡するつもりでやったのだ。
そんな彼だから、ネリ本人が目を背けていたであろう、彼女自身が真に救われる方法を、一発で見抜いていた。
それは、胡屋を殺すこと。
どんなに金を持っていても、どこに逃げても、胡屋が生きている限り、ネリの心は休まらない。支配され虐げられる恐怖に怯える日々は終わらない。
だが、あの大企業の社長を始末するなど、常人には到底できうることではない。ネリは犯罪社会を強かに生きる女だが、好んで人を殺すような人間ではない。だから、胡屋から逃げることしかできない。
でも、ジョーは違う。
大好きな姉のためなら、倫理も道徳も、恐怖も躊躇いもすべてすっ飛ばして、人を殺せる。

「ジョーはな、あんたのことが本当に好きだった」

曼荼羅がネリにそう告げた時、私は、「好き」の一言に込められた彼の愛の大きさを想う。

互いの幸せのために弟を突き放そうとする姉に対し、弟のジョーは、姉さえ幸せになってくれればいいと、思っていたんだろう。
ジョーにとっては、自分の自由すらどうでも良かったんだ、ましてや金なんか。そのくらい、ネリのことが大切だった。
こんな切ない、愛があるか。
私は涙が、止まらなかった。

ジョーは胡屋の元に赴く前に、ネリに手紙を書いている。

"素敵な週末をありがとう"

そして物語は再び、月曜日へと向かう。胡屋を殺しても、大金を手にしても、そう簡単には《BAD LANDS》からは逃げられない。
警察の包囲網が狭まる中、彼女のとった逃亡方法とは、月曜日に必ず破魔矢を持って走り回る、謎の女の格好をすることだった。

一週間の地獄の始まり、月曜日。それを告げる女が今日もまた、大阪の街を駆け巡る。
時刻は0時を回り、火曜日になった。
毎週月曜日にしか走らなかった女が、火曜日にも走っている。繰り返されるルーチンは破られ、地獄の日々が終わったことを示唆する。

女は一枚、一枚と、羽織っていた重たげな服を脱ぎ捨てる。まるで、自身を虐げていた力から、逃れるように。
そして現れたのが、ネリの姿だ。

軽快に、羽根の生えたように、明け方の街をネリは走る。その表情に、希望を浮かべ。

なんと爽快な、胸を打つラストカットだろうか。
映画館のシートに縫い付けられたようになったまま、私は暫く、映画の余韻に浸っていた。

◆『燃えよ剣』の純粋と『BAD LANDS』の純粋
  山田涼介だけが残せる、唯一無二の爪痕

ここからは沖田総司オタクにして、山田さんをささやかながら応援している一ファンのテンションでお送りさせていただくんですけど、
まずこの映画、情報解禁一発目から原田監督、ぶちかましてきましたよね。

"沖田総司が現代に甦ったらこうなるのではないか、というコンセプトのもと山田涼介に参加してもらいました" (公式ホームページより)

正気を失ったよね。オタクの世界ではね、そういうコンセプトのこと、「沖田総司転生現パロ」って言うんだよ?!
まさか私が山田沖田の亡霊になっている間、限界強火沖田総司オタクみたいな映画撮っていたとは…原田監督が山田さんの演技にがっつり心を掴まれたからこそのキャスティングであることがひしひしと伝わってきた。作り手にこんなにも愛されている映画『燃えよ剣』、好きでよかった…と心底思いました。

そして続く二報、ここで私は、原田監督の強火ぶりを舐めていたことを思い知る。
なんと『燃えよ剣』池田屋ロケ地で山田さん演じるジョーに、「懐かしいかんじがする」と言わせていることが発覚。
い、いや〜〜〜〜"俺の考える最強の、沖田総司転生現パロを見てくれ"の気持ちが強すぎるよ〜〜こんなん、許されるの?!有名な映画監督が同担ってマジでありがたすぎる。どうぞこれからも末長く、沖田総司の幻影を追いながら山田さんを撮ってくださいますよう、お願いします。

で、映画を実際に観た感想。例の池田屋ロケシーンにさしかかり、ドキドキ。いったいどんな文脈でジョーに、「懐かしいかんじがする」なんて台詞を入れるができたのかなって、気になってた。

そしたらね、マジで、嘘でしょってくらい、脈絡がなかった!!!爆笑!!よくもまあぬけぬけと、「昔、新撰組の映画をここで撮ったらしいですよ」などという台詞を入れられたもんだ。それ、自分の映画ァア!
そのオープンセットで、「懐かしいかんじがする」と言い出すジョー。『燃えよ剣』ネタって知らない人からしたら、一回も訪れたことのない場所で唐突に意味不明なことを言い出すサイコパス野郎の台詞でしかない。いやジョーのキャラ的にはそれが正解なんやけど。とにかく、ただ言わせたかっただけ感がすごくて!!
私はいっそ嫉妬した。好きなだけ自分の作品で山田沖田への愛を表現し、それを万人に観てもらえる原田監督に。

しかもお遊びはそれだけじゃ終わらなかった!!
友情出演・岡田准一!!!!
好き勝手がすぎるだろうが!!!!!!
顔映った時、暫く本人だって信じられんかったもんね。岡田さん似の俳優さんかな…みたいな…理性が理解を拒否していた…だってそんな……
『燃えよ剣』で互いに、土方さんみたいなアクの強い人に生まれたかった、総司みたいな素直な人間になりたかった、って言葉を交わし合ってた二人がさぁ!!!現代に転生してみたら相変わらずバラガキで!!!拳銃を構えたままビクビク震える山田さんににじり寄る師範、素手なのにヒグマみてえな強いオーラを出している。すると、怯えたジョーは師範に銃を向けたまま呟くのだ。

「撃ちたない…」

オタクはすぐさま、深読みした。
これは前世の沖田総司の記憶が、ジョーに言わせた台詞なのだと。家族も同然に育った盟友と同じ顔をした男。そんな人間を殺せるはずもない葛藤が、ジョーの思い切りを鈍らせているのだと。

「お互い、長生きしような」

そう言い捨て、去る師範。謎に情感たっぷりに思えるのは、気のせいか。情緒の崩壊するオタク。
今度こそ、命大事に生きてくれよな〜〜〜(なお、ジョーの末路

さて、沖田総司が現代に蘇ったら、というコンセプトのもと創り上げられたジョーというキャラクターと『燃えよ剣』沖田総司との共通点を探ったとき、私の中にまず真っ先に出てきた言葉は、「純粋」だった。とにかく、沖田もジョーも、系統は違うけれども、純粋。それが、私の二つのキャラクターに対して共通に抱く印象。

『燃えよ剣』沖田総司の「純粋」の秘密は、彼の思想性のなさ、にあると思っている。政治に関わらず、野望もない。ただ、彼の剣は、近藤や土方と共に戦うためにある。その想い一つで剣を振い、人を殺めるから、不思議と彼の剣には穢れのない純粋性が宿ると解釈している。子どもと遊ぶのが大好きな朗らかさと、容赦なく人を斬るそのギャップを、サイコパス、と解釈する人もいるけれど、少なくとも彼の中でその折り合いはつけられている。

ではジョーはどうか。彼は思慮が浅く、後先考えない、内面的情緒の成長していないサイコパス。だから彼は、いとも簡単に犯罪に手を染め、人を殺すという選択肢を取ろうとする。
沖田の、聡明ではあるが思想性のない在り方とは異なり、ジョーにはただただ、思考がない。恐ろしいほどの、軽薄な笑み。
沖田の時には、爽やかで柔らかな声で、どこか儚くも日向のような笑顔を浮かべていた山田さん。ところがジョーの演技では、また見たことのない表情を浮かべている。『燃えよ剣』以降、いくつか彼の出演者作を拝見したが、いったい、この役者の引き出しの数の多さはどうなっているのか。無限に新しい表情を見せてくれる。
他者の痛みに共感するという、内面的な情緒が育っていない空虚さ、それゆえの、年相応でない不気味な無邪気さ。生まれてこの方、社会の底辺で生きざるを得なかったものの持つ、特有の昏さ。それらを全て感じさせる、ジョーの笑顔。声色も、沖田の時とまるで違い、やや低く硬質の声で、関西弁を流暢に操る。
特に印象に残ったシーンは、岡田師範(役名、アロハの男)を仕留め損ね、逃げ出した先で、この拳銃で押し込みをしようと言い出すジョーの、風に吹かれている表情。
めちゃくちゃ、好き。
無軌道で幼稚な暴力性と、思考力がないがゆえの哀しき刹那性とが同居する、翳りある顔。頬骨の造り出す陰影すら美しい。もはや、芸術である。

そんな危険人物のジョーだけど、ネリへの想いは、ひたすら真っ直ぐなんだよな。
姉を健気に愛してやまず、どんなに問題を起こしても、愛想を尽かされるなんて想像もせず姉に甘えるジョーは、疫病神的であると同時に、天使のように凶暴に可愛くて、混じり気なく純粋だ。
山田さんは、地に足のついたキャラクターも、浮世離れしたキャラクターもどちらも的確に演じられる技量を持っている。底辺社会に縛り付けられながら、ちょっと浮世離れした刹那的な純粋性を持つジョーを演じるのに、これほど相応しい役者もいないだろう。

打算のない、一途なネリへの愛情が、彼を死へと導いていく。
胡屋を殺す直前、壁をなぞる彼のあまりにも暗く虚な表情に、ゾッとする。
ちゃらんぽらんで考えなしで、暴力にも殺人にも気軽に手を染めようとするわりに、いざ人を殺すとなるとビビっていた彼に、死に神が降りてくる。
でもその狂気はすべて、ネリのためだ。

死の影を負う人間、これもまた、山田さんの十八番。本作ではそこに、切ないまでの強烈な、献身的な愛をも纏って、またも《沖田総司》は、若くしてこの世を去った。

観る者の胸に、唯一無二の傷痕を残して。

(2023.9.29観賞)

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