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舞台『HELI-X』感想

「おまえは、誰だ」

冒頭、ナレーションは観客に問いかける。
この問いかけこそが『HELI-X』という物語の根幹を成し、さらには脚本・毛利さん、演出・西森さんにとって『メサイア』シリーズを手がけていた頃からの永遠のテーマであろうと確信した。
「おまえは、誰だ」
何を信じ、何を夢見て、何を主張する。他人に己の信念を委ねるな。自分自身の目で見て、考えて、行動する。それが、この広い世界で自分自身を規定する魂となるのだから。
つまり『HELI-X』とは、アイデンティティの物語。そう思った時、「これはおもしろい!」と拳を突き上げたくなった。

観劇前は、期待と同じだけ不安も抱えていた。自分の意志で性別変更を行える世界観。「ジェンダー」は現代社会において皆で考えるべき大切なテーマではあるが、しかしほんの少しの配慮不足だけでも多くの人を傷つけたり不幸にしたりしてしまう。実際、初日観劇中の私の胸の奥にはモヤっとしたものがあった。そんな私が『HELI-X』という作品をどのように捉え、どのように面白いと感じているかを書いていきたい。

もしもジェンダーそのものをテーマにした作品だと身構えて観劇にのぞめば、肩透かしを食らったり残念に思った部分もあるかもしれない。例えば主人公のアガタとゼロを象徴的に表すギリシャ神話のアンドロギュノスの絵をバックにしながら、「かつて男と女がひとつであった幸福な時代」と語られるシーンがある。が、ここでは例えば同性愛であるような、多様な性愛の志向については念頭に置かれていないように思えた(ただしあの一連のシーンが、あくまで異性愛者であるゼロの心情に限った話であれば納得である)。
またHELI-Xの世界では、例えば政治家として上り詰めるために男の身体を選択をした者がいるように、性別による社会的な不平等はいまだ罷り通っており、それを是正しようという動きもない。
性別を男か女かで分けるのではなく、その人それぞれに、それぞれの性別のあり方がある、すなわちグラデーションであると考えるのが、いまや一般的になりつつあるのではないかと思っている。そんななかで、このHELI-Xの打ち出した世界観は私の考えとは少し異なるもののように感じたし、少なくとも多様な性の在り方の肯定、という考え方に救われている身としては、もやもやとした気持ちになったのも事実。これが、初日に観劇しているときの私の正直な気持ちであった。
しかし、パンフレットの座談会記事にもあるように『HELI-X』はジェンダーを語る物語ではなく、ジェンダーを入り口として使用する物語である。ジェンダー論について意見をしたところで、この作品の制作意図とはずれてくるだろう。本作において大切なのは、性の多様を認める社会を描くことではない。「性の多様性が認められないディストピア」のなかで、多様な「個」であるために戦う人間達の群像を描くことだった。

我々人間には、男性、あるいは女性の肉体が与えられている。(インターセックスと呼ばれる、生理学的に男性、あるいは女性の両方の特質を有している場合もあるが、それもまた、自分の意思とは関係なく与えられた肉体である)肉体とは、生まれながらにして与えられるものであり、人の努力ではどうにもならない制約のようなものだ。
西森さんは座談会の中で、ジェンダーとは最終的に魂と入れ物の話であると語っているが、本作を考える上で非常に重要な指摘であろう。つまり本作において男であろうが女であろうが肉体とは、時に自分の魂の自由を縛る「不条理」そのものなのである。女の身体では愛する子どもを守ることができない。男の身体では子どもを産むという幸せを得ることができない。自分の望むこと、自分の果たしたい夢、すなわち自分らしく生きたいという願いを、肉体は阻む。
さて作中では、性別の転換手術というと性同一性障害をもつ人のための措置のように捉えられるが実際は、もっと多くの人間が手術を行ったと語られた。男であること、女であることの苦しみは、作中のキャラクターの過去のように壮絶でなくとも、誰しもが味わったことのある経験だと思う。男だからと先輩社員に風俗に連れて行かれるとか、若さと美貌に恵まれない女は馬鹿にされるとか……現代社会に生きる我々は、少なからず生まれ持った性別という縛りに苦しめられて生きている。だから登場するキャラクター達の苦しみは、決してマイノリティの苦しみではないのだ。普遍的な人間の生きづらさであり、生きることの苦しみである。しかしそれでも生きていくことの強さを、HELI-Xは描く。(『メサイア』の時にもお二人は、まさにこの生きることの苦しみと強さを描いてきたように思っている)
そこで、想像してみてほしい。多くの人々が、もしも男に生まれ変わったら、或いは女に生まれ変わったら、と考えたことがあるだろうが、もし本当に我々に、肉体の性別を選べる自由が与えられたらどうするか。もちろん、今のままの自分を愛する人もいるだろう。変わりたいと願う人もいるかもしれない。だがいずれにしろ、肉体の自由と精神の自由を共に手に入れた時、立ち現れるのは幸福な楽園ばかりではない。時に自由に生きるということは、荒野を進むに等しい苦難がつきまとう。なぜならば自由には、それ相応の選択の責任が伴うからだ。
だが、彼らは--リュージンは、ワカクサは、シデンは、シュンスイは、カンザキは、レスターは、アンガーは、クライは、そしてゼロは……選んだのだ。肉体の性別を選ぶことと同時に、自分が自分であることを貫き通す戦いに身を投じることを。そのために世間からヘリックスだと後ろ指をさされようが、彼らは決して己を恥じることなく生きていくのである。
彼らの舞台上での振る舞いは、かつて女だったこと、あるいは男だったことを過剰に意識させないものであり、そのおかげで、『個』の獲得のための闘争、というHELI-Xのテーマの軸がぶれなかったと思っている。肉体という入れ物がどうあろうと、魂はその人だけの固有のもの。男らしさ、女らしさにとらわれずにキャラクターの内面を表現する役作りをされていて、そこは非常に気持ちよく観劇できたし、キャラクターひとりひとりへの愛着がわいた。
そんなヘリックス達とは対照的に、性別の変更など考えたこともないアガタという人間の在り方、心の動きも本作の大きな見どころの一つであった。当初、ヘリックスという存在への偏見や嫌悪を抱いていた彼はリュージンに、なぜ手術を受けたのかと尋ねる。それにリュージンは秘密、と答えるのだが、プライベートなことを無遠慮に尋ねるアガタのデリカシーのなさが妙にリアルで、またそれをリュージンがひとりの尊厳ある人間としてはぐらかしてくるのも、個人的に好きなシーンだった。だが中盤、ある程度互いの人柄も知ったところで過去を明かし合う。そこでもアガタの「そんなことで」という、あまりにも自分本位の狭い価値観から生じた台詞が飛び出す。対するリュージンの台詞は印象的だった。「そんなことって……十分な理由よ。(中略)わかってほしいとは言わない。でも、こんなひともいるんだってこと、知っておいて」
「個」を主張するとは、勇気のいる行動だと思う。他人の意見に洗脳され、流されるままに生きていれば、同じ意見を持った「仲間」同士の輪の中で安寧を得られるのかもしれない。しかし「個」を主張すればアガタとリュージンのように、偏見、排斥とまではいかなくても、価値観の差異により分かり合えない人、は必ず現れる。しかし、誰とでも共感しあったり同意を得たりしなくてもいいのだ。「そのような人もいる」のだとゆるやかに他者を肯定し、存在を認める、「個」を「個」として尊ぶことは、誰もが幸せに生きていく社会を築くうえでとても大切なことなんだろうと思う。
アガタが、絶望するゼロに向ける「言葉がみつからない」という台詞も、しみじみと良い。アガタは決してゼロの気持ちにはなれない。この二人の間には断絶がある。だからこそ安易な慰めの言葉をかけるよりも真摯だ。ゼロという人間に歩み寄りたいけれど彼の人格を尊重しているがゆえに近づけないような印象を受ける台詞なのである。
アガタという人物は、これまで自分の価値観のみを正しいと信じて生きてきた。世間知らずだけれど、しかしその心のうちはひどく純粋だと思う。例えるならば無色透明。彼はまだ、自分が何者であるのか、その答えを持たない。市民を守り、誰もが幸せに暮らせる世界をつくりたいという夢を抱くが、その意思を貫くための武器はいまだ持たず、ヘリックス達や、ユニオンからの独立を目指す自治軍(彼らもまた、「個」の独立を目指す者達である)らの異なる価値観と衝突し、世間の荒波にもまれながら、今ようやく螺旋機関の一員として一歩を踏み出したところである。これから、アガタはどのような色に染まるだろう。どんな色を自らの人生のキャンバスに描くだろう。
「おまえは、誰だ」
その答えを彼はこれから、ゼロと共に見つけていく。そんな役どころに菊池修司という役者が当てられているところが私はとても楽しみで仕方がない。「メサイア」での好演も未だ記憶に新しいし、個人的には「熱海殺人事件」における速水役が、今回のアガタの立ち位置によく似ていると思っている。速水も、はじめは頑なだったが周りのキャラクターに影響を受けながら精神的に成長し、未来を担っていくポジションだった。無色透明な若者が、周りの色に綺麗に染まりながらも自らの色を主張していく姿が、これほど似合う役者はいないのだ。私は東京公演を複数回観劇したが、回を追うごとにアガタの、ゼロの激白を受けての感情の動きが大きくなっているのが感じられ、大きな目に涙を浮かべて台詞を発している姿に感動を覚えた。
対してゼロは、復讐のために肉体の性別を変えた。一見、己が己であるための選択をしたかのように見えるが、ゼロはカイが死んでからはまた何者でもない「ゼロ」に戻ったと考えている。さらにたった一つの生きる意味であった復讐は果たされず、彼に残されたものは、もはや何の意味も持たない男性の身体と、己の半身を失った絶望のみである。しかしカンザキの言葉をきっかけに、ゼロは再び生き続けることを選択する。カイと夢見た「誰もが幸せに暮らせる世界」を達成することが、今のゼロの生きる意味。ゼロもまた、空っぽの肉体の器に入れる魂をこれから、アガタと共に見つけていく。奇しくもゼロに残されたカイの夢は、アガタの抱いている夢と重なる部分がある。今後、二人が共に歩んでいく上で大きなキーになるのだろう。二人の行く末から目が離せない。
だからどうか!!次回作を観たい!!お願いします!!
(2020.12.9執筆)

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