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映画『一秒先の彼』感想

時間、を扱った映画だ。

時間がズレたり、止まったり、切り取られたり、閉じ込められたり、重なったり。

そんな時間の奇跡を描くファンタジックな作品を、存在そのものでファンタジーを生み出す岡田将生と、独特の詩的な雰囲気を持つ清原果耶が創り上げた。

◆「時間」にまつわるさまざまなモチーフ

本作は、何をするにもワンテンポ早いハジメくんと、ワンテンポ遅いレイカちゃんの物語。こうした登場人物のキャラ設定にとどまらず、映画の中には「時間」にまつわるさまざまなモチーフが存在するように読み取れた。

まず、京都という舞台の持つ力は大きい。千年の王城の都。神社仏閣が今もなお存在感を持って街の中に君臨するこの街は、東京や、他の都市のように時間は川の流れのように過ぎ去らず、蓄積されていく。街の風景は常に、現在と過去の二重写のように感じられる。
私は京都に住んだことはないが観光で何度も訪れたことがある。また万城目学や森見登美彦作品を愛読することで余計に、京都への幻想的なイメージが膨らんでいるのかもしれない。そんな私の個人的な思い入れを差し引いても、京都が昔ながらの時間を閉じ込めて存在する、この作品にはうってつけのファンタジックな舞台であることは、疑いようもないだろう。
なにかのインタビュー記事で、原作の「一秒先の彼女」は台湾に行きたくなる映画だ、と語られていたが、私は本作を観て、今無性に、京都に行きたい。京都の夏を感じたい。高瀬川(ですか?)に突き落とされることすら羨ましく見えるほどに、あの景色の中に入り込みたくなっている。
そんな京都という街だからこそ、レトロな小道具が、映える。クーラーのない長屋暮らしで、ちゃぶ台の前に座ってラジオを聴いて。ともすれば、貧しく侘しい暮らしを強調するこれらの小道具が、なんだかノスタルジックな魅力を持って、胸に迫る。縁側に座ってスイカを食べる、そうめんをすする。夏空のした、自転車を漕ぐ。そうしたシーンのひとつひとつに、理想化された夏、もう今の日本では手の届かないかつての、美しい夏の幻影をみてしまう。
そもそも、映画の中で印象的に使われる、手紙、という小道具も、時間に大いに関係する。手紙とは、タイムラグの発生する通信手段だ。差出人が手紙を書いたときの気持ちや感情は、タイムカプセルのように紙に閉じ込められて、数日遅れ、ときには数年遅れで相手に届く。テンポの遅いレイカちゃんがせっせと手紙を送るのは、なんとも彼女らしい行動だ。
そしてなんといっても本作のキーアイテムは、時間を切り取るカメラだろう。それも、デジタルカメラやケータイのカメラではない。現像が必要な、昔ながらのフィルムカメラ。その場で撮影したものを確認できるのではなく、切り取った時間を作業を経て、紙の中に留めている。撮影した瞬間の心のときめきをも、そのままに残して。

◆世界に取り残されるレイカと、世界のテンポとズレ続けるハジメ

カメラで写真を撮るときに大切なのは、タイミングだ。過ぎ去る一瞬、一瞬の、至高の「今」を上手く見つけて、シャッターを切る。タイミングがズレると、被写体はブレたり、ぼやけたり。せっかくの表情や動きの面白さを逃してしまう。
ワンテンポ遅いレイカちゃんが、動く人間を撮るのが苦手なのは納得だ。ハジメくんを撮影しても、まったくタイミングが合っていない。
ある意味で、彼女にはまったく不向きな趣味である、カメラ。死んでしまった父親の形見を大切にしている彼女の時間は、両親を失った時から止まっているようだと感じたし、レンズを通して世界を捉え、シャッターを切るものの、タイミングがズレ続ける姿は彼女の抱える孤独を示唆しているように思えた。ハジメくんと過ごした病室での時間、その思い出という「止まった時間」が、彼女をなんとか支えてきたのだ。
一方、ハジメくんも、同じく父親を失ったときから人生の歯車が狂い出す。自分は本当はこんなものではない、誰も自分を正当に評価してくれない、愛してくれない。肥大化した自己愛と、満たされなさが生み出す僻み、屈折した感情。
二人に共通して言えることは、「誰も自分を見てくれない」という哀しみを抱えていること。だからこそ、世界のテンポからズレ続け、取り残されている二人のタイミングがバッチリと合い、互いが互いを認識した瞬間に、救いが生まれる。

この物語の白眉は、ハジメくんと両親の家族写真のシーンだろう。
失われた家族が再び元に戻るその幸福な光景に、バッチリと彩りを添える、刹那の芸術、花火。
その瞬間を、レイカのカメラが切り取る。

あの花火は、明るいうちにあげても無駄だ、なんにも見えない、と花火師に言われていたあの花火だ。打ち上げるタイミングが早すぎてなんの意味も持たなかった花火が、ここにきて、抜群のタイミングで、見えている。それを、動くものを撮るのが苦手なレイカが、きちんとカメラに収める。タイミングのズレたもの同士のタイミングが、バッチリ、合う。
魔法のような一日だからこそ起き得た奇跡のシーンに、鳥肌がたった。涙腺が緩んだ。この映画を観にきて、良かったと思った。

コンプレックスに縛られていたハジメくんは、レイカちゃんの存在を思い出してからは、すこしだけ性格が柔らかくなった。もともと決して悪人ではないのだが、以前より少しだけ心に余裕があるように感じられた。それは、(知らない間に写真に撮られている、という少々奇妙な形だったとはいえ)この世には自分をきちんと見てくれる人がいる、大切に思ってくれる人がいると実感できたがゆえのことだろう。
そしてレイカちゃんもまた、前に向かって歩き出す。彼女はラストシーン、首からカメラを下げていない。たまたまなのかな、とは思ったが、そういえばカメラ屋のバイトを辞めている。事故に遭ったからではなく、自分の意志で、ハジメくんを撮った写真だけを残して辞めたのだ。それはなぜなんだろうか。
これは私の推測に過ぎないけれど、失われた幸福、閉じ込められた過去の象徴であるカメラに縋るのは、もうやめたのかもしれない。彼女の心を救ってくれるのは、死んだ父親やかつてのハジメくんではない。今を生きる、ハジメくんだと思えたから。カメラは素敵な趣味なので続けてほしいけれど、でももう、無理にまわりのテンポに合わせなくても、彼女らしく生きていってほしいなとも思った。

岡田将生と清原果耶。
どちらも、清涼感と透明感、そして詩情に溢れた俳優だ。
清原さんは、朝ドラ『なつぞら』でしか観たことがないけれど、相変わらず、ただ黙っているだけでもその奥行きのある表情でこちらの想像を掻き立てる、素敵な雰囲気を持った方だと思う。寡黙なレイカちゃんの、静かな強い意志を秘めた眼差しが忘れられない。
そして岡田将生さん。私は岡田さんのファンなのだけど、今作、ワンテンポ早い男の子を演じると知り、「逆じゃないの?!」と驚いた。だが、岡田さんの演じるハジメくんは、口が悪くてもワンテンポズレてても愛くるしい。そしてクドカンのセリフを自在に乗りこなす。聴いていて心地のいい、京都弁。彼のどんなにキャリアを重ねても損なわれることのない透明感が、この映画のファンタジックな仕掛けに説得力を与えていたのだと思っている。

2023.7.7 鑑賞


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