読書録:『自閉症裁判―レッサーパンダ帽男の「罪と罰」』

自閉症裁判―レッサーパンダ帽男の「罪と罰」を読んだ。あとがきにおいて筆者が、こんな売れそうもない本を出版してくれて感謝しかない、といった趣旨のことを述べていたのだが、この出版社、洋泉社なのである。ああ、なるほどなと妙に合点がついてしまった。売れる本が良い本であるとは限らないし、売れない本が悪い本という訳でもない。

ともかく、本書の扱っている内容を軽く紹介すると、タイトルにある通り、自閉症との診断を下された犯人の起こした殺人事件を扱ったものである。社会的な生活を送ることに困難を抱えている、と言い換えて良いだろう。ここで、「社会的な生活」を送るのに必要なスキルを、ひとまず「理性」と呼びたい。これは一般的な意味での理性というのもそうだが、人間の人間たる部分でもある(とここではしたい)。これは、人間の人間的ではない部分、つまり動物としての一面との対比である。これは情動的ないしは発作的な言動のみならず、食事なり排泄なり睡眠なり、そういったものを含む。

このように人間は人間であると同時に動物でもあるのだが、しかし現在の社会は、人間が完全に理性的な人間である、という仮定を前提としている。あるいは、人間の理性を過大評価しているか、情動的な側面をあまりに軽視している。その結果、理性的な判断に難のある人物はそこにいるはずであるのにも関わらず社会的には透明であり、その故に補助も救助とも縁が薄く、何かが起こるまで認識されない。しかし何かが起きた時には大体は手遅れ、こんな具合になっている(もちろんこれを肯定的に評価することはないが)。
自閉症の―というよりかは本書での犯人もこの典型で、そうした意味における理性の程度に問題を抱えており、少なくとも現在の社会で事実上必要とされる水準には達していない。本書では、特にコミュニケーションに係る部分におけるそれが強調されている。平たくいえば、読み書きや会話に困難を伴う。これらコミュニケーションはつまり、言語を操る能力で、これも理性に属するものといえる。ここで社会が要求する理性には、言語機能や経済的な判断などに限らず、規律の占める割合が少なくない。朝は眠くても起きるだとか、みんながやっているならばいけないことを見ぬふりをするだとか、眠くても寝ないで頑張るとか、そういったものだ。動物は恐らく眠くなったら頑張ろうとせずにとっとと寝るのだろうが、人間には理性があるので良くも悪くも寝ずに頑張れたりしてしまう。しかし、動物に近い人間は眠くなったら寝てしまう。良い社会というのはこれを許容できる社会のことなのだろうが、現代社会はそうなっていない。尤も、程度の差こそあれど、どのような人間にもそうした一面はある。先に述べた社会的な生活のスキルにも繋がる話だが、極は確実にあるとできるのに対し。境界は自明でない。そうした一面が全く無いのとすれば、それはロボットだ。現代社会はこうした意味において、人間ではなくロボットを要求しているとも理解できる。あるいは、人間が相当に「人間である」ことを前提としている。あまりにも人間的、という訳だ。

ただし、ある程度のロボット的な一面のないことには、社会にはいられない。そのように社会から弾かれやすい体質を持つ者は、それが自閉症なり何なりの障害を有すると認定されているかどうかを問わずに、一定数いる。一つ確かにいえるのは、そうした傾向が強ければ強い程、より弾かれやすくなるだろうということだ。弾かれた者が事件を、特に本書が扱うように社会の注目を集めるような事件を起こすことは、恐らく稀で、透明人間となるか、人間の社会の外側ないしは周辺に追いやられることが殆どなのであろう。

https://twitter.com/osadas5 まで、質問などお気軽に。