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フリックで書き殴る生き方の模索

幸福度が高い人生であれば、もはやどんなんでもいいんではないかと思ってる王翦です。

多様性は大きなテーマだけど、少なくともライフスタイルは徐々に画一的ではなくなっていると感じる。けど同時に、今も昔も過去の常識と新しい常識の押し問答を経て進んできてるという意味では、今も昔も同じようなもんではないだろうか。新しい常識にはなるべく迎合し思考停止だけはしないようにしたいと思えど、SNSで流れてくるニュースはだいたい明日には覚えてないジャンクインフォメーションで、それを毎日数分でも眺めてる僕は、きちんと寿命のムダ遣いをしている。誰が不倫しただの薬物で逮捕されただのに怒ってる人見て、「何怒ってんのウケる」って時間を過ごしてる時点で僕も同じような次元にいるんだと思う。

脳のキャパ的にも人類にこんなに情報はいらないはずで、その反動かキャンプとかサウナとかそういう体験に憧れているひとりなのだが、決して少なくない人数が同じような憧れを持ってるんじゃないかと思う。

何となくケータイの電源オフり、研ぎ澄ます雑踏の全然奥に
(引用元:Dragon Ash『静かな日々の階段を』)

再来年くらいにはVlog配信しながらキャンピングカーライフでも始めてやろうかと企んでいるが、僕自身もジャンクインフォメーションを垂れ流してる1人だと言えなくもない。けど、人は何よりそれぞれがまず自分の幸せだけ考えてたらいいんだと思ってるので、迷惑をかけない範囲で謳歌してやろうと思っている。英語が話せるようになれば海外だっていい。

僕は長男で、バツイチで、両親は姓の同じ孫が欲しいと思っているらしい。子供は大好きだし再婚は機会があればしたいが、今はそんな事考えられないという気持ちが強い。来年には37歳なので、僕も決して若くない。が、いずれは子供やパートナーと時間を共にし、僕は変化しつつも何かに挑戦し続け、お互いが幸福である状態を追求していきたい。

ミニマリストを目指した動機に『終活』があって、明日もし僕が死んだら、この部屋を誰かに片付けてもらうのが申し訳なくなった。どうせなら遺品はなるべく残さず整理しておきたい。さらさら死ぬ気はないけど、そう思う事でより自由になれた気がした。

なんせ、僕は『起きただけでラッキー論』を唱えるくらい、死を身近な存在として意識しているんだ。明日もし交通事故で死んでも、残念だがまぁしゃーないと受け入れる準備はある。

人の悩みはすべて対人関係である、とアドラー心理学の『嫌われる勇気』では書かれていた。悩みがある状態という事は孤独ではないという事だとも思う。そう考えたら幸せな事だ。すべては捉え方次第なので、押し潰されそうな悩みを抱えてる人にはぜひ参考にして欲しい。そして、その悩みからは全力で逃げてみるのをオススメしたい。

僕はわりと人と違う発想や着眼点を持てるようなのだが、それも他者との比較の上で初めて成り立つ個性なので自分ではどうでもいい事だと思っている。ただ、会った人の半分くらいは好奇心の目で見てくれるので、それは多分良い事なんだと思う。

他人と競争する事からはおりて他者貢献を考える。note書き始めた当初と同じような事書いてるが、そこから競争の意識は削ぎ落とされた。

あの頃は承認欲求があったが今はあまりない。アウトプットを足してくだけ。継続の先に手に入る報酬は、“継続できたという結果”だ。この記事も、思考の整理が出来ただけで御の字なのだ。

そして、これからも自由な生き方を模索する。今のテーマはこれ。


この執筆活動が、僕の知らない誰かの人生のお役に立てたら、これほど嬉しいことはないなぁ。 そう思いながら、PCに向かっています。 応援していただけたらありがたいですm(__)m