悲しみも何も、綴るだけの価値がお前の感情なんぞにあるものかよ、とバカにされそうな気がする。

 生きることを肯定している自分のことも、死にたくてたまらない自分のことも、結局は理解してくれるのは自分自身だけだから。

 ツイッターは自分に向けて発信している。

 自分に銃口突きつけて「さあお前は死ぬのか、死にたくないのか」ってやってる。

 「自分で引き金を引く勇気はない、むしろ俺死にたくない」とか思いつつ、心の何処かで「偶然で暴発してくれたらラッキーだな」とほんのり期待するくらいには、生きることに魅力を感じていない。

 若いころの死にたがりは、例えるなら濃い霧に包まれた深い森の中を彷徨い歩き続けるストレス、「なんでもいいから一刻も早くここから俺を出してくれ」という焦りと恐怖。

 それが少し歳を食うと、霧は晴れ森を抜ける。自分の目前に道が拓ける。そしてその道沿いに、人生の喜びとか幸せとかいうものが、漠然とあと何個残っているのか見えてしまう。

 というか、どれだけ目を凝らしても、普通の人にはあるものが自分には1個も残っていないことが見えてしまう。

 見えてしまう。

 そう見えてしまうだけなのか。

 現実が見えてる結果なのか。

 いずれにせよその先へ向かって歩きたくない、歩くのをやめたい、もうここでずっと止まっていたい、なんならそのせいで死んでもいい、って思う諦めが大人の死にたがり。

 

 自分が勝手に期待した分だけ裏切られることばかりだった。

 もっとも過剰な期待を実現するために自分から努力を惜しまない、とかそういうことしてないけど。うじうじ。

 希望はいつもすり抜けた。けど自分から逃げたつもりはない。つかむ力もつかみ方も、誰も教えてくれなかったし、自分で編み出す知恵もなかった。うじうじ。

 ずっと何もできなかった。ほったらかしで唯一「死ぬな」とだけ命じられて、ただただ生きてきた。うじうじ。

 っていうか。

 悲しみも何も、綴るだけの価値がお前の感情なんぞにあるものかよ、とバカにされそうな気がする。


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