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彷徨く

noteを書いていて、知り合いに見つかるのが怖い。

私の文章はいつもネガティブな一文で始まる。そして私の思考と同じように、数珠繋ぎに次の話題へと移っていく。これは私の良くないところだ。


自分がどうしても性別に抗えないことに辟易している。

私の中に存在する健康的な程度の異性性の比率。母は健康的な程度にあるよ、といった。私の突飛な質問に対し精一杯励まそうと言ってくれたのだったが、私はがっかりした。異性で生まれることに憧れている。だが、異性の世界をよく知らないから、そんなことが言えるのだ。


気持ち悪いと思う自分が気持ち悪い。自意識過剰。


おそらく、似ているから目をつけられた。そして、似ているから私は遠ざけたいのだ。自己肯定感が低い人間は、誰しも同じようだと思う。

いや、そんなに物事は複雑か?ただ単に、「生理的に受けつけない」だけなのではないか。

「生理的に受けつけない。」この言葉はその枝の先に暴力的差別をつけてきた。私が最も忌み嫌うものの素質を私は十分に持っている。ひどい。耐えられない。

こうやって思考放棄し感情に流されてしまうのは、性別のせいではない。個性の問題だろう。ちなみにそのアイデンティティだって簡単に書き換えられる。運良くそういう年齢だ。ならまだ私は、自身の中の異性の比率を変えられる可能性がある。それは果たして、希望だろうか。


後先考えずに、考えを吐きだすのは愚かだ。匿名だから大丈夫だろうか。過去に何度もブログを放棄した。文章が増えるたびに、自分を特定される確率が上がると思った。自意識過剰ではあるが、実際にその可能性は0ではない。


なぜこんなにも考える?

友人達は、嗚呼、もっと魅力溢れる友人達にとっては、こんなことよくある事だ。汚されたように感じるのは、俺が自分自身を弱いと思い込んでいるからだ。一体、俺の何を汚されたのだろう。それでも、考えたくないのに考えてしまう。昔からそうだ、好きの反対は無関心である。俺は無関心になれない自分が、嫌でたまらなかった。幼少期の映画のトラウマシーンを、怖いもの見たさで観返すような。そうだ、昔は恐ろしかった蜘蛛の写真を、俺は今は好き好んで見る。好きと嫌いは表裏一体なのだ。なぜ無関心になれない。気持ち悪い。気持ち悪いと思う自分が気持ち悪い。



だが特定されたからと言って何なのだろう。逃げて隠れる必要などない。恥ずかしい。ごく個人的な意見。恥ずかしい奴。これもごく個人的な意見。人によって基準は変わる。気にすることなどない。誰に何と言われようと、毅然と振る舞えばいい。

人を傷つけたくないが、一つの主張を持たねばならない。全てのことが同時に成り立たつことは不可能だと考える。一つの鞘におさまっていくことは怖い。終着点が諦めでも、まだもがいていたい。




人の心を動かす文章が書ければいいなと思うが、めちゃくちゃで不穏だ。最後まで読んでくれた方がいれば申し訳ない。

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