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カブトムシの延命措置

命の終わり
人間のエゴで命をつなぐのは
正しいのだろうか

子が可愛がっていたカブトムシが
今朝死んでいた。

我が家に来たのは夏休みに入るころ。
学校で観察用に育てていたもので
つがいの成虫を一匹ずつもらってきたものだ。

そこから子が毎日毎日丁寧に世話をして、
卵を産み
幼虫が生まれて
幼虫はもっさりと大きく育っている。
そして随分たくさんの卵を産んでくれたがために
私としては来年がとても心配でならない。


8月の終わりには先にメスが死んでしまった。
卵を産む時に詰まってしまったようで
老衰ではないところに切なさを感じる。

その頃のオスはというと
来た頃の元気と乱暴さはとうになくなっていて
ゆっくり歩き
ゆっくり食し
まさにおじいちゃんだった。

そんなオスも
次第に動かなくなって
ひっくり返ってしまった。

9月の始めにはいつもひっくり返っていた。
私は命の終わりをすぐに受け入れたのだけど、
子は見つける度に元に戻してあげていた。

オスをエサ場に置けば
本能なのかエサをそのまま口にする。
すると少しの間だけ動くことができる。

ひっくり返る→起こす

このループを延々に繰り返しながら、
近頃では1日のうち9割
ひっくり返っているのが常だった。
それでも子は都度起こしてあげていた。

つらいとか
悲しいとか
もっと生きてほしいとか
子にそういう感情は恐らくないだろう。
小さな子どもが転んだから手を貸すような
これは特別なことではないという風に
自然に起こしてあげていた。
生きているのだから当たり前なのだという風に。


昨日私がケースを覗いた時、
ひっくり返って寝ているオスの
触覚がゆらゆらと動いているのを確認している。
確かに昨日は生きていた。

今朝、いつも通りに
子が世話をするためにケースを開け、
ひっくり返ったオスを起こしたのだが
いつもの反応がなかった。
全く動かず、
くっと足を閉じていた。

ついに命が尽きたのだ。

子が無言で私を見て、
どうしよう、という風の顔をしていた。
それからいつものように起こしてあげて
でもエサは新しいものには代えずに
そっと土の上に置いてあげていた。

もうぴくりとも動かないカブトムシ。
覚悟ができていただけにショックは少ない。


今回の「起こしてあげる」ことから
随分と考えさせられた。

私が世話をする子どもの立場だったら、
——ひっくり返っちゃったー
それだけで終わらせていた気がする。
そのまま弱り、すぐに死んでしまうのだろう。

自力でエサを食べられなければ
当然それは死を意味する。
今回のように都度起こし
強制的にエサを与えることは
一種の延命措置であり、
それは正しいことなのかわからない。
ひっくり返ったのならそのままにして
自然のままにしてあげればいいのにと
実は思っていたりもした。

実際3週間ほど長く生きられたカブトムシは
果たして幸せだったのだろうか。
虫が幸福感を持ち得るのかは謎だけど、
こうやって生き長らえた時間は
カブトムシにとってどんな時間だったんだろう。
苦しかったのだろうか。
嬉しかったのだろうか。

これがもし人間だったら
——1日でも長く生きてほしい
——生きていてくれるだけで嬉しい
そうした気持ちで過ごす家族の気持ちも、
——延命措置などせず自然のままにいきたい
そう望む本人の気持ちも、
私はどちらも頷くことができる。

今回やったことは完全に人間のエゴだ。
人間の延命措置の必要性は価値観によるため
はっきりとしたことは言えないが、
でもうちのカブトムシについては
死を受け入れる時間ができたことは事実。
子どもは命を感じる時間を
大人は命について考える時間を得ることができた。


カブトムシが
優しい時間だったと
思ってくれていたら嬉しい。
私は温かい時間だったと信じている。

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