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戯曲「サンドリヨン」第三回

第四場面:城、王子の執務室

 ぱっと明かりがついた。次の舞台は室内のようだ。窓のない、本棚の置かれた部屋。おそらく執務室か書斎だろう。本棚も含め、置かれた家具は決して派手ではない。しかし、どれにも凝った装飾が施されているのが見える。

 ペンの走る音に目を向ければ、青年が一人机に向かっていることに気がつくだろう。軍服を着た若い男性だ。その服、背格好は物語の始まりに目にしたものと同じであった。そしてそれ以上に、彼の顔には既視感があった。なにしろその顔は、先ほどの少年とどこか似通っていたのだから。

 ノックの音が響き、ドアが開く。青年が顔を上げた。

「あぁ、お前か。いつもご苦労、何用だ?」
「王子、やーっぱりダメでした。ありゃあもう陛下はテコでも動きませんよ。」

 片手を振りながら入室してきた男性は、王子、と呼ばれた青年とよく似たデザインの軍服を着ていた。しかし、彼のそれは王子のものより飾りが質素だ。歳は王子よりひとまわり程上に見えた。王子に対し随分と親しげな様子だ。しかし、その親しさの中にも明らかに彼を敬う様子が見て取れる。宮廷仕えの軍人であろう。

「舞踏会の件ですが、やはり陛下に中止の意向はないようです。王子の意向をお伝えしたのですが、陛下ときたら『どうせあの阿呆息子には姫の選び方も分かるまい!』と聞く耳をまーったく持たず……おっと失礼!」
「ふふ。いい、いい、気にするな。別に誰が聞いている訳では無いのだから。流石付き合いが長いだけあって、父上の話し口に良く似ているじゃないか。耳元で聞こえるようだよ。」

 くすくす笑う王子に、王の口真似をした男性は口を抑えたままつられたように笑う。ごまかすように一つ咳払いをして、彼は改めて言葉を続けた。

「兎に角、はい、舞踏会は絶対に開催するし、そこで殿下に姫を選んでもらうと言っておりました。これ以上の交渉は下手をすると私の首が吹っ飛びかねませんので、もう王子も諦めていただけませんか。」
「そうか、父上ならそう言うだろうと思ってはいたが……参ったな。もう舞踏会の予定日まで日もない、諦めて当日上手く誤魔化すことにするか。」
「程々にして下さいよ。殿下のお戯れが過ぎると、叱られるのはこの私をはじめ殿下の部下たちなのですから。」

 己の首を抑えた部下に、王子はニィと笑って保証はしないと言った。部下はわざとらしくため息を吐く。

「それにしても、父上もしつこい。妃くらい面倒を見られずとも自分でなんとかするというのに。」
「陛下はきっとまだ王子のことを、庭を駆け回っていたやんちゃ坊主のままだと思っていらっしゃるのですよ。私が出会った十年前から比べたって、王子は随分とご成長なされた。それくらい私にも分かるというのに。」

 やれやれと首を横に振る部下を見て、王子はまた少し笑った。少しぎこちない笑みに見える。

「昔からお前には手間をかけたな。それに、あのころの教師たちにも。随分と品のない子どもだったと今なら分かる。」
「やだなぁ、六つの子どもなんて皆あぁですよ。まぁ陛下は王子の教育を始めるのがちょっと遅かったですね……これ、内緒ですよ。」

 本当に首が飛びます、と部下は苦笑いを浮かべた。

「同意するよ。知識を詰め込むのは些か大変だった。」
「でも、結果的にこれほどご立派になられたのですから、教師たちだって鼻が高いと思いますよ。」

 懐かしむように目を細めた部下に、王子は目を伏せた。

「なら、良いのだが。」
「しかし……お言葉ながら王子、何故そんなに結婚に乗り気ではないのですか?もちろん、御自身でお選びになりたいという気持ちは分かります。ただ、一度とはいえ御相手とも実際に言葉を交わして選ぶことを許されているのですし、そんなに暗くなることは無いように思えるのですが。」

 部下の疑問に、王子は束の間答えに詰まった。眉を下げて、言葉を選ぶようにこたえる。

「まだ自分が一人前であると思えないのだ。妻を持つような器量が、私には無いように思えてならない。」
「またまた、ご謙遜を!」

 部下はわざとらしく目を見開いて手を振った。

「昨年の日照りを貴方が予想してくれたから、我が国が難所を乗り越えられたようなものじゃないですか。」
「……過去に学んだだけさ。」
「過去、ですか?」
「十年前の日照りは知っているだろう?あの時我が国の東部がひどい被害を受ける中、一つだけ貯蔵を徹底して助かった村があったことを知っているか?」
「あぁ!物語にもなっていますよね。妖精に助けられた村。村に日照りのことを前もって予期した者が来たとか。」

 どこまで本当か知りませんけど、と続けた部下に、王子は苦笑いを浮かべた。もちろん伝承のようなものではなく記録からだが、と付け足してこたえる。

「あの村のやり方を真似ただけだ。おかげで、食糧不足の国に高く輸出することも出来た。日照りが来るかもしれぬと備えておくことが出来たのは、過去の飢饉を知ったからに過ぎない。私の実力ではないさ。」
「何をおっしゃりますか。過去から知見を得られること自体が、王子の実力を物語っているってもんですよ。」

 王子はこたえずに、ただ肩を竦めた。ご自身に厳しいですねぇ、と言いながら部下は手に持った書類を王子の机の上に並べる。

「しかしまぁ、致し方ないとはいえ皮肉なものですね。今回我が国は日照りでむしろ儲かったようなものなのですから。」
「……物の数が減れば価値が上がる。そして、希少になった物を持っていた者は益を得る。食料などの必需品は尚のこと。自然なことだが、些か残酷なことよな。」

 王子はこたえて、かぶりを振った。

「他所のことまで心配すれば身が滅ぶ。まずは我が国の中でも打撃を受けた、他国からの趣向品を扱っていた貿易商たちのことを考えよう。昨年の日照りの景況で、己で身を滅ぼした者もいると聞いている。」
「おっしゃる通りで。」

 書類を王子の机に一通り広げて、部下は最後に一枚の紙を王子に差し出した。

「これ、国民に配られる例の招待状です。一応お目通しを。」
「あぁ。まぁ、見たところで変えようもないのだろうがな。」
「そうおっしゃらずに。」

 城の鐘が響いた。部下は驚いたように窓の外を見てから、眉を下げる。

「おっといけない、長話をしてしまいました。私は戻りますね。王子も根を詰め過ぎぬよう。」
「あぁ、また後でな。ご苦労。」

 部下が部屋を出ていった。王子はしばし招待状を眺めていたが、それを机に放って大きくため息をついた。

「自分で起こす災害の予言は難しくない、かぁ。過去に学んだと言っても、きっと君が思っているようなことじゃないんだよなぁ。」

 ドアに向かって、王子が呟く。その声は先ほどまでのものとは打って変わって弱々しい。彼が手を伸ばしたソードベルトには、剣と共にあの杖が掛けられていた。

「僕は一体どこに向かっているんだろうか……」

 王子の言葉に返事をするものは、そこにはもう、誰もいない。机に突っ伏す王子の姿は、じきに暗闇に呑まれた。

第五場面:サンドリヨンの屋敷

 再び舞台はサンドリヨンたちの住まう屋敷に戻ったようだ。夫人たちが屋敷に来てから何日か経ったのだろうか、屋敷からはますます人の気配が薄まったように思えた。

 使用人の服に袖を通し、サンドリヨンが屋敷の中をパタパタと走り回っているのが見える。慣れた手つきで掃除をこなしているようだ。

 ノックの音が響いて、サンドリヨンは掃除の手を止めた。慌てて屋敷のエントランスまで駆けていって、彼女はドアを引いた。ドアの外には、先ほどの王子の部下と同じ軍服を着た男性が立っていた。おそらく彼も王家に仕えている者だろう。

「どなたですか?」
「城からの使いです。こちらをお届けに。」

 城からの使いは肩にかけた鞄から封筒を一つ取り出した。

「あら、ありがとうございます。」
「それでは!」

 封筒を手渡して、城からの使いはくるりとサンドリヨンに背を向けた。ブーツの音を響かせて去っていく使いをしばし見送ってから、サンドリヨンは手元の封筒に目を落とす。真っ白で、外からは何も読み取れなかった。蝋封のされたそれを、サンドリヨンが開けることは許されないに違いない。

 億劫そうにため息をついてから、サンドリヨンは屋敷の階段を上がる。ドアの前で立ち止まって、彼女はドアを強くノックした。

「お母様、お手紙です。」
「入りなさい。」

 サンドリヨンがドアを開け、腰掛けていた夫人の側まで近寄る。差し出された手紙を黙って取って、夫人は封を切った。手紙を開きながらサンドリヨンに尋ねる。

「誰から?」
「城からの使い、と。」
「あら、何かあったのかしら。」

 夫人は紙を広げ、しばしそれに目を通す。

「良いお知らせでしたか。何かあれば、お父様にお手紙を出しますが。」
「いいえ、あの人に心配をかけるようなことは何も無いよ。ただの招待状さ。」
「何か催しが?」
「お前には関係ないことだよ。掃除にお戻り。」

 サンドリヨンは一礼して、部屋から出ようとした。夫人がサンドリヨンの後ろ姿に声をかける。

「あぁいや、そうだね、やっぱりあの人に手紙をお願いしようかね。」
「はい?何と書けばよろしいでしょうか。」

 足を止めて尋ねれば、夫人が手紙に目を落としながら伝言の内容をしばし考える。

「王が開く舞踏会にこの家も招待されたのよ。だから恥のないように新しいドレスを仕立てると、手紙を出して伝えておいておくれ。」
「……はい、お母様。」

 微笑んで、サンドリヨンは今度こそ部屋を出た。廊下を進んでいると、途中のドアが開いて姉が部屋から出てきたところと行き会う。一瞬しまった、という表情が姉に過ったようにも見えた。

「あら、掃除は終わったの?」
「いえお姉様、今は別の用事をお母様から言いつかったので掃除は中断しております。お父様にお手紙を出すために便箋を取りに行くところですわ。」
「あぁそう。何かあったの?」
「お城で舞踏会が開かれるそうです。」

 それが、とばかりに姉が小さく首を傾げた。お姉様も御呼ばれしたのですよ、とサンドリヨンが言葉を続ける。

「舞踏会のためのドレスを仕立てることをお父様に伝えるように言いつかったのです。そうだ、ですからきっと近いうちに新しいドレスを作れますよ、お姉様。」

 サンドリヨンの言葉に、姉は眉を寄せた。

「お前は?」
「え?」

 サンドリヨンに聞き返されて、姉が思いきり聞かなきゃ良かった、という顔をした。ぞんざいに質問を言い直す。

「お前も、舞踏会に行きたくなったりしないの?まぁ、お母様が許すとは思わないけど。」
「御冗談を、お姉様。私が行くなんてめっそうもありませんわ。」

 小首を傾げたサンドリヨンに、姉は呆れたようなため息をついた。それから、ふいと意地悪な表情になって腕を組む。

「ああ、その通りだね。だって灰被りなんかが舞踏会にいたら、皆の笑いものですものね。」
「そうですよ、お姉様。」

 サンドリヨンはころころと笑った。それを見て、姉は何も言わずに彼女の横を通り抜けようとする。

 ふと思い立ったようにサンドリヨンを振り返って、旦那様は舞踏会の前に帰ってくるかしらと尋ねた。サンドリヨンが首を傾げると、姉は片眉を持ち上げる。

「旦那様がここにいれば、お前もドレスくらい貰えるだろうに。あの人のたまの遠出と舞踏会が被るなんてついてないわねぇ、サンドリヨン。」

 声音は尖っていたが、姉の目はどこか寂し気だ。サンドリヨンと話す時、彼女はよくこういう表情をしているように思う。

「いいえ、お姉様。お姉様もお父様とお会いしたでしょう?お父様は出かける前も、私よりお母様のお言葉を信用していましたから……きっといらっしゃっても、あまり変わりありませんわ。」

 にこりと笑って言い切ったサンドリヨンに、姉は瞠目したようだった。ただ、すぐに興味なさげな顔に戻って肩を竦める。

「あ、そ。味方なしって訳ね。」

 サンドリヨンはただニコニコとしている。きっと、それが姉を苛立たせているのだろう。もしかしたらサンドリヨンもそれを分かっているのかもしれない。

「手紙、書き終わったらお母様に見せてから出すのよ。」
「はい、お姉様。そうします。」

 ひらりと手を振って、姉はサンドリヨンと反対方向に歩いて行った。その背を少し眺めてから、サンドリヨンは歩き出した。

 その背が見えなくなる前に、あたりは暗くなった。

第六場面:どこかの屋敷

 照明がついて次に見えたのは、また室内のようであった。一見先ほどの屋敷と似通っているが、こちらの方が余程手入れが行き届いている。ただ同時に、やや質素なのも見て取れた。

 部屋の中央近くに置かれた品の良いテーブルに、少女が一人腰掛けて本を読んでいる。よく見ればそれはサンドリヨンの姉であった。穏やかな顔で本のページを捲る姿は、先ほどまで見ていた少女と同じ人物であるとは信じ難い。

 しばらくして響いた革靴の音に、彼女は顔を上げた。

「なぁダリア。ちょっと、良いかい。」

 現れた身なりの良い男性は、姉、つまりダリアと呼び掛けられた少女にどこか似ている。

「どうしたの、お父様。」

 お父様、と彼女は抵抗なく男性に呼び掛けた。これは彼女の記憶だろうか。まだ、彼女の父親が生きていた頃の。

「あぁ……最近仕事が立て込んでいて、お前と話すことも減っていたからな。なに、最近、どうだ。」
「っふふ、何それ。こういう時ばかり口下手になるのね。」

 座れば、とダリアは自分の正面の椅子を指し示した。頷いて男性は彼女の前に腰掛ける。ダリアは手に持っていた本を閉じて、少し身を乗り出した。

「お父様こそ、最近調子が優れないようだけれど。取引先はやっぱり駄目そう?」
「お前が心配することじゃないさ。」
「でもね、お父様。もしも私に縁談が来なければ、家を継ぐのは女の私なのよ。この意味、分かるでしょ。」

 彼女の言葉に、父親は少し目線を落とした。考え込むようにしばし黙ったあと、彼はゆっくりと口を開く。

「日照りの影響は大きい。我が国は王族の方々が上手いこと立ち回ってくれたが、隣国はそうはいかなかったようだ。今はとてもじゃないが、工芸品の方まで手が回っていないようだよ。」
「この後が大変そうね。貿易商、しかも贅沢品を扱っていた以上、緊急時に取引が蔑ろにされる可能性は考えておくべきだったかも……いえ、ごめんなさい。私が言うことじゃないわね。」

 半ば独り言のように呟いてから、ダリアは謝罪の言葉を付け足した。父親はゆっくりと首を横に振る。

「本当に賢い子だよ、ダリアは。息子でなかったことが惜しい。」
「お母様はそれが嫌みたい。お父様も、良家の娘には……女にはこんなもの必要ないと思う?」

 ダリアが指の背で本の表紙を叩いた。父親が束の間、目を伏せる。

「……知識は、誰にとっても生きる上で重要な武器になる。止めやしないよ。」

 彼の言葉に、ダリアは少し目を細めた。何か言いたげにダリアの口元が動いたが、結局彼女は何も言わずに背もたれに体重を預ける。父親はダリアの様子を見つめてから、ふいとその彼女の手元の本を見た。

「本は好きかい。」
「まぁ、ね。でもお父様、私も分かっているの。きっと一生これが役立つことなんてないわよ。結婚してしまえば、きっとどんな武器も無用の長物になるわ。」

 父親はこたえない。しばしの沈黙。

「妙な、ことを聞くようだが。」
「なぁに?」

 父親は言葉に悩んでいるようだった。唇を舐めてから、少し震える声で尋ねる。

「賢いお前に、ひとつ聞いておきたいんだ。」
「私でよければ誠心誠意こたえるわ、お父様。」
「……例えば、砂糖を運んでいる蟻がいるとするだろう。」

 父親の真意が分からないのだろう、ダリアは少し戸惑ったような顔で頷いた。父親が続ける。

「それを踏み潰して殺すことと、砂糖を蹴って取り上げること、お前はどっちの方が残酷だと思う?」

 奇妙な質問。ダリアは少し上を見て、考え込む。そうね、と小さな声で呟いてから彼女は父親を見た。

「どっちも残酷だと思うけれど。でも、まだ砂糖を取り上げる方がマシなんじゃないかしら。潰れてしまえばそこでおしまいだけれど、砂糖を無くすだけなら次の砂糖を探すことが出来るでしょ。」
「……そうかい。」
「人によるかもね。えぇと、人というよりこの場合は蟻による?でも蟻ってどの程度物を考えているのかしら。」

 首を傾げる娘の頭を、父親は数度優しく撫でた。なぁにいきなり、とダリアが眉を下げる。

「ありがとう。少しすっきりしたよ。」
「そう?なら良いのだけれど。」
「お前の考えが聞けて良かった。やはり私とお前とでは、また考えも異なるんだね。」

 父親が部屋を出ていくのをしばし不思議そうに眺めてから、ダリアは読書を再開した。少しして、やはり父親の様子が気になったのかダリアは立ち上がる。

 彼女は部屋を出て、屋敷の中を歩いた。すれ違う使用人たちに声をかけながら進み、彼女は一つのドアの前で立ち止まる。ノックの音が響いた。沈黙。

「……お父様?」

 返事はない。

 彼女がドアを引いて中を覗くと、彼女の父親が机に突っ伏していた。机に広がった本と書類、そこに不釣り合いなワインボトル。手に握られたグラスの中には、少しの赤ワイン。

「お父様?執務室で寝るなんて不用心よ。疲れていらっしゃるなら……」

 言葉の続きは、音にならなかった。軽く揺すってもピクリともしない様子に、ダリアが肩にかけた少し力を込めたその時。

 無抵抗に傾いた父親の身体に、ダリアは慌てて身を引いて避ける。受け止められないことは分かっていたのだろう。机にグラスが転がって、赤黒い液体が広がる。ガシャンと何かが音を立てても、父親は動かない。

「お父様?」

 彼は動かない。少しの身じろぎも、ない。

 大きな音に驚いたのか、使用人たちが部屋に入ってきた。いくつか上がる悲鳴。ダリアはただ立ち尽くしている。

 父親が運び出される。ダリアはまだ、立ち尽くしている。夫人が入ってきて、ダリアを抱き寄せた。

「私が全部何とかするからね、ダリア。何不自由ない暮らしをさせてやる。だからお前は、お前は私の前からいなくなるんじゃないよ……!」

 泣き叫ぶ夫人に抱かれながら、ダリアはただ、空になった椅子を見つめている。じきに、使用人たちが夫人をダリアから引き離して去っていった。

 彼女は一人部屋に残って、空の椅子を見た。

「砂糖を運んでいる蟻を踏み潰して殺すことと、砂糖を蹴って取り上げること……」

 彼女に声をかけるものはいない。もう誰もいない椅子に、彼女は語りかける。

「……貴方にとっては砂糖を取り上げる方が残酷だったのね、お父様。」

 彼女はそう呟いてから、顔を覆って崩れ落ちた。泣き声一つ上げずに。段々と彼女だけを残してあたりは暗くなり、最後には何も見えなくなった。

第七場面:サンドリヨンの屋敷、姉の部屋

「舞踏会が近いのに、お姉様はあまり楽しそうになさらないのね。」

 サンドリヨンが姉の髪を梳かしながら尋ねるのが見えた。ここは姉の部屋だろうか、大きなドレッサーやベッド、クローゼットが目に入る。もしここが姉の部屋であるとすれば、元はサンドリヨンの部屋だった場所ということになる。

「良いから、手を動かしなさいよ。」
「ごめんなさい、お姉様。」

 ドレッサーの鏡の前に座った姉は、サンドリヨンの質問にこたえずに不機嫌そうな声を出した。サンドリヨンは慌てて口を噤んで、姉の髪を結ぶことに集中しようとする。

 少しの間の後、こたえる気がないように見えた姉が不意に口を開いた。

「この舞踏会ってさ、きっと王子様が花嫁を探すために開いたのよ。」
「花嫁、ですか?舞踏会で?」
「そんな気がする、ってだけなんだけどね。確かなことじゃないわ。でも招待状にわざわざ『年頃の娘は全員出席させること』って書いてあるんだもの、そう考えたくなるのが自然じゃない?」

 サンドリヨンは頷いた。サンドリヨン自身は招待状を見ていないだろうが、もしそう書いてあったというのならば確かに不自然な文であった。頷いてから、サンドリヨンはおずおずと姉に尋ねる。

「そもそも、王様にお子さんって生まれていたのですか?王子様が生まれた、という知らせを聞いた覚えが、私にはないのですが。」
「あら、お前知らなかったの?確か……王子が六歳の時に初めて発表されたの。十年前になるのかしら?」

 こたえてから、姉は小さく笑った。なるべく頭を動かさぬようにしているようだった。髪を結うサンドリヨンへの配慮だろうか。

「とは言っても、私だって彼と同じくらいの年だから、その話をしっかり理解したのはもっと後だけれどね。お前なんて五つくらいじゃないの?」
「十年前でしたら、そうなりますわね。」

 サンドリヨンが頷いたのを鏡越しに見て、姉はじゃあ当時は知らなくても不思議じゃないわね、と返した。

「ま、生まれてからしばらくはその存在を隠されていたわけだから……生まれたっていう知らせがなかったのは正しいわね。」
「王子様がいらっしゃると、今まで知りませんでしたわ。」
「とんだ箱入り娘なのねぇ、貴方。」

 小馬鹿にしたように言った姉に、サンドリヨンは懐かしむように少し目を細めた。

「母とばかり話していましたから。母は、思えば少し世間離れしていました。」
「そう。」

 姉の目が気まずげに泳いだ。サンドリヨンは黙って姉の髪を編み込んでいる。しばし沈黙が下りたが、姉が何か思い出したように瞬いて口を開いた。

「でも流石に、同じ頃の飢饉は覚えているんじゃない?」

 サンドリヨンが頷く。

「えぇ。この間の日照りとは違って、十年前の日照りはこの国も大変だった地域が多かったと聞きました。」

 一瞬、姉が大きく目を見開いた。怒りに似た色がその目に過る。でもそれは、本当に少しの間だった。

「……良かった、それも知らないならどうしようかと思ったわよ。」

 いつも通りの調子で姉はそうこたえ、少し調子を落として続ける。

「昔の日照りは、この国でも苦しんだ村が出た。でもこの間の日照りは、この国の貴族の多くがむしろ得をしたらしいわね。被害が出たのは一部の貿易商くらい。貴方のところは得をした家じゃないの?」
「……どうでしょうか。母の病気がもうひどく、医者代がかさんでおりましたから。」
「そう。儲けたところで、死の前には人は平等に無力なのかしらね。」

 短くこたえて、姉は黙り込んだ。サンドリヨンが終わりましたと髪から手を離してから、にこりと姉に微笑みかける。

「舞踏会、お姉様ならきっと王子様のお妃になれますわ。」
「適当なことを。 端からもっと良い所のお嬢様しか見ないわよ。ほとんどの客は人数合わせみたいなものでしょ。多いに越したことはないってところかしら。」

 笑って姉はひらひらと腕を振った。

「それに、私は別に特別王子様の妃になりたいとも思わないし。」

 サンドリヨンは驚いたように数度瞬いた。返答が予想外だったらしい。

「そうなんですか?」
「話したこともない男と結婚することに変わりはないでしょう?とんでもない馬鹿じゃないなら誰でも良いわよ。」

 姉が立ち上がって伸びをした。彼女がサンドリヨンの方を振り返る。

「好き合うとまで言わなくても、せめて信頼した相手と結婚できれば良いのにね。そう思わない?」
「私は……」
「……ま、貴方には関係ないか。お掃除よろしくね、変なところ触らないでよ。」

 サンドリヨンが返事に迷っているのを見て、姉は肩を竦めた。立ち上がった彼女に、サンドリヨンが頷いてから小首を傾げた。

「お姉様、花瓶のお水は替えておきますか?」
「あぁそれ?ううん、そのままでいいわよ。今朝替えたし。」

 部屋の真ん中に置かれた花瓶には、真っ赤な花が飾られている。たくさんの小さな花弁が、何重かの円を描くようにびっしりと開いていた。

「綺麗な花ですね。」
「でしょう?でも毒があるんですって。触ってかぶれたことはないけど……ま、触れたいなら何かタオルでも使いなさい。」

 結局、姉はこうやってサンドリヨンを思いやるようなことを口にする。だからだろうか、思い切ったようにサンドリヨンが声をかけた。

「ねぇ、お姉様のあの黄色いドレス、貸して下さいませんか?最近お召しになってないでしょう。」
「まぁサンドリヨン、舞踏会に行きたくなったの?」

 姉は少し迷いをみせた。結局サンドリヨンと目を合わせずに、半ば吐き捨てるように断る。

「やめておきなさいよ、本当に笑い物になってしまうわよ。」
「ごめんなさい、つい……私はお城暮らし、憧れるなと思ってしまったんです。」

 胸の前で手を握って頭を垂れるサンドリヨンを見て、姉はわざとらしくため息をついた。

「箱入り娘らしい考えね。まぁ、選ばれてしまえば嫌も何もないし。偶然か何かで私が王子の妃に選ばれたら、お前を侍女として連れてってあげるわ。」
「本当ですか。」
「お城暮らし出来るじゃない。良いでしょう。」

 きっと、姉はサンドリヨンの望む「お城暮らし」がそれで実現しないことを理解しているのだろう。そして、サンドリヨンがこの言葉になんと返すかも、きっと予想がついている。

「楽しみにしています。」

 いつも通りお手本のように微笑んだサンドリヨンに、姉は目を伏せる。部屋を出ようと数歩歩いてから、彼女は何かを思い出したように足を止めてサンドリヨンを振り返った。

「……砂糖を運んでいる蟻がいるとするでしょ?」
「蟻、ですか?あの、道を這っている?」
「そう、あの蟻。それを踏み潰して殺すことと、砂糖を蹴って取り上げること、お前はどっちの方が残酷だと思う?」
「え?」

 サンドリヨンが櫛を握ったまま首を傾げた。姉は疲れたように、馬鹿にしたように、へらりと笑った。サンドリヨンがその姉の表情を見て、戸惑いを浮かべる。姉はそれ以上説明しなかった。

「何でもないわ。忘れて。」

 バタン。ドアが閉まる。残されたサンドリヨンは、姉の言葉を反芻するようにしばらく閉じたドアを見つめていた。

第八場面:サンドリヨンの屋敷、どこかの部屋

 しばらくそうしてドアを眺めていたサンドリヨンは、ふと思い立ったように部屋を見回した。しばし彼女は何かを思い出すようにただ部屋を眺めていたが、じきにゆっくりと目を閉じた。

 元は彼女の部屋であったであろう部屋が、ぐるぐると姿を変えていく。

 次に彼女が目を開けた時、サンドリヨンは大きなベッドの横に立っていた。ベッドには夫人と同じくらいの年に見える女性が横たわっている。しかし顔色がひどく悪く、一目で病人と分かるほどだった。

「お母様。」

 ベッドに横たわるのは、今まで彼女にそう呼ばれていた相手ではない。ならばこれは、彼女の過去の記憶だろうか。彼女は女性に優しく話しかける。その笑顔は、今までのそれより余程柔らかい。

「お話って何かしら。」

 女性は何か話そうとしたが、咳に阻まれた。痛々しい音に、娘は眉を寄せる。

「無理をなさらないで。何も今日じゃなくてもいいわ、調子が良い時にお話してくれればいいのよ。私ならいつでもお見舞いに来ることが出来るんだから。」
「いいえ。今伝えなきゃならないのよ、カラー。」

 カラーの言葉に、女性は否と返してまた咳をした。何とか息を整えて、小さな声でカラーに語りかける。

「私はもう貴方と共に過ごせる時間があまりないのよ。だから今のうちに愛する貴方に伝えておきたいことがあるの。」
「……大丈夫よ。お父様も使用人たちもお母様を治す方法を探しているわ。だからそんなことを仰らないで。」

 女性は首を横に振った。カラーは俯いて、分かっているわ、と小さくこたえた。また、咳の音が部屋に響く。

「ねぇカラー。私がいなくなっても、いつも思いやりのある子でいるのよ。それだけ約束して。そうすればきっと、貴方は幸せに暮らせるわ。」

 女性の手がカラーの頬を撫でる。

「いつも思いやりのある子でいれば、皆が、貴方を愛してくれる筈よ。」

 そう言ってから、女性はひどく咳き込んだ。医者や使用人たちが駆けつけ、カラーは押し出されるようにベッドから離れた。

 最後に部屋に顔を出した男性を見上げて、カラーは尋ねる。

「お父様、お母様は……もう、助からないの?」

 父親はさっと顔色を変えた。何かを言おうと息を吸って、結局、何度かただ息を吐く。

「縁起でもないことを、言うんじゃない。」

 父親はそう短く喘ぐようにこたえて、妻のベッドに駆け寄った。

 慌ただしく人が行き来していた。医者が、使用人が、出入りする。彼らが手に持つものは食事と薬から次第に薬だけに、そして何もなくなる。

 女性が運び出された。

 部屋に残ったのはカラーと彼女の父親だけだ。

 カラーは黙って父親を見上げた。たくさんの声が、あちこちから慌ただしく聞こえる。部屋の中は対照的に静かだった。父親はしばらく戸惑いを乗せて彼女を見つめていたが、黙って首を横に振るとカラーに言葉もかけずに背を向ける。

「きっと、私が余計なことを言ったからだと思っているのね。私のせいでお母様が死んだと。」

 父親はカラーの言葉に返事をせずに部屋を出て行った。カラー一人が部屋に残される。

「誰かのせいにしてしまえば楽だってことは、私もよく知っているわ。何か理由が、あるはずだと。そう思いたいのよ。そうでしょう、お父様。」

 閉じたドアに呟いてから、カラーは目を閉じる。まわりの喧騒が消えた。

「儲けたところで、死の前には人は平等に無力、なのに。」

 景色がまわる。サンドリヨンは、姉の部屋で一人ゆっくりと目を開いた。過去の影はもうない。

「……そうよ、お姉様の言う通り。」

 サンドリヨンは、姉の髪を結っている間は脇に避けていた掃除道具を掴んだ。どこか妙に明るい声で、彼女は歌うように続ける。

「あんなにお母様を救おうとお金をつぎ込んだお父様に残ったのは、残りの充分なお金と、さして面倒を見たことも無い、縁起の悪い一人娘だけなのだもの。」

 手慣れた様子で棚の埃を掃いながら、彼女は笑っているとも泣いているともつかない表情を浮かべた。

「でも、死ぬまでの間愛されるために必要なものはある。」

 彼女は宙を睨んでハッキリと言葉を紡ぐ。歌うように、己に言い聞かせるように。

「舞踏会、ええ、行きますとも。なんとしてでも行くわ。だってドレスさえあれば、王子の妃になるチャンスなのでしょう?」

 サンドリヨンは掃除道具を手に持ったまま、部屋を見回した。

「きっと、このみじめな生活から逃れられる。」

 そう噛みしめるように言って、彼女は宙に向かって頷く。

「大丈夫よ、お母様。私、ちゃんと思いやりのある良い子の顔が出来ているから。」

 一度言葉を切ってから、サンドリヨンが目を伏せてほとんど音にならない声で囁いた。

「ちゃんと誰かに、愛されるから。」

 返事をするものは、いない。それきり黙り込んで掃除に取り掛かったサンドリヨンの姿が、徐々に暗闇に消えていった。

気に入って頂けたらサポートおねがいします、 野垂れ死にしないですむように生活費に当てます…そしてまた何か書きます……