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戯曲「サンドリヨン」第二回

第一幕

第一場面:サンドリヨンの屋敷、客間

 あたりの景色が目に入るようになると、どこかの屋敷の一室であることが分かった。一見豪華な様子だが、少し目を凝らせば掃除が行き届いていないことに気がつくだろう。人の住む気配が薄い。屋敷の大きさに見合わず、やけに静まり返っている。そこに、靴が床を蹴る音が二つ。一つは悠々と、もう一つがそれを追うように早い音を鳴らす。ドアが開いた。

 先ほど見た女性が部屋に入ってくる。品の良いドレスをまとった女性だ。髪や肌からひどく疲れた印象を受けるが、その表情は気高く、眼は鋭い。

 後から足早に彼女を追いかけて入ってきた娘もまた、先ほど見た者だった。美しいドレスを着た若い女性。その娘は先に来た女性に比べると、随分と子どもじみた様子であった。そのうえ、先ほどの様子とは打って変わっておどおどしてみえる。

「どうしてそんなことを言うの?そんなにお母様には私が役立たずに見えているのかしら。」

 落ち着かない様子の娘は、自分のほうを見もしない女性に抑えた声で尋ねた。ようやく振り返った女性、お母様と呼ばれた彼女は、その問いにひどく優しい声でこたえる。

「貴方のためよ。この家の娘はお前よりも、品性も、知性も、それに家事も裁縫も……何もかもが上なの。貴方は何もあの子に勝てないのよ。分かるでしょう?あの娘と仲良くして並んで立ちでもすれば、世間に比べられるわ。」

 優しい声は強張った表情と不釣り合いでむしろ恐ろしい。その様子に娘はますます表情を固くし、彼女の表情に残っていた困惑と悲しみは静かな怒りへと集約されていく。

「貴方の言う通りにする方が、よっぽど比べられることになるわよ。何故分かってくれないの?それとも分かった上で、貴方は私を更に貶めようとしているのかしら、夫人。」

 他人行儀に言い捨てた娘に、夫人は目を吊り上げる。吐き出された声は決して大きくなかったが、怒鳴りつけるように、ひどく尖っていた。

「黙りなさい、出来損ない!この家は私たちよりよっぽどお金持ちなんだよ。これはお前のための結婚なのよ、それが分からないのかい?」

 そこまで言ってから夫人は一度言葉を止めて、深く息を吐いた。

「お願い、大人しく私の言うとおりにしていて頂戴。」

 声の調子はまた猫撫で声に戻っている。頬を撫でた夫人の手を払い除けて、娘は母親を睨みつけた。

「貴方っていつもそうね、お母様。いいえ……お父様が死んでからますます、って言った方が良いかしら。」
「貴方のためよ!貴方が、父親がいないことで辛い思いをしないように!」
「見え透いた嘘をつかないでよ。」

 激昂する夫人とは対照的に、少女は落ち着いて言葉を続けた。乾いた笑いを含んだ声は、少し震えている。

「私のためと言いながら、気にしているのは貴方の世間体でしょう。それはお父様が死ぬ前からずっと。料理だって掃除だって、知りたがった私の意志をはねのけて、良家の娘には必要ないなんて言ったのはお母様じゃない。女が知識をつける必要なんかない、とも。」
「黙りなさい。」

 少女は下を向いて、一度唇を舐めた。息を吸う音が、聞こえる。

「それが……今更、何?出来損ない?」
「黙りなさい、聞こえなかったのかい!」
「お父様が死んでから、お母様はどんどんおかしくなっているわ!」

 娘の叫び声に、夫人は目を見開いた。その表情が徐々に凪いで、場にそぐわぬ優雅な笑みを浮かべる。娘がたじろいだ。夫人が微笑む。

「何を言っているの?貴方のお父様は死んでいないわ。」
「……え?」

 彼女の言葉の意味が分からなかったのか、少女は眉を寄せた。何を馬鹿なことを、とばかりに彼女の表情が疑問に染まる。彼女が問い返すより先に、夫人が口を開いた。

「貴方のお父様はもう、死んだあの人ではない。」

 優しい声で告げられたその言葉に、少女は息を呑んだ。目の前にいるのが初めて会った者であるかのように、彼女は数歩、己の母親から離れる。

 束の間の沈黙を、三つ目の足音が破った。ドアが開いて、少女が一人部屋に現れる。物語の始まりに、中央に座っていた少女。先ほど自ら主人公と名乗った彼女はその時の襤褸とは異なり、愛らしいドレスに身を包んでいた。先にいた娘よりも少し歳下に見える。

「こんにちは。貴方がカラーね。」

 優しげに声をかけた夫人に、はじめから部屋にいた少女――彼女は今入ってきた「主人公」から見れば、姉、と呼ぶべきか――は片眉を上げた。カラー、と呼ばれた娘は微笑んで頷く。

「これから私が貴方の母になるわ。」

 その言葉に先ほどの夫人の発言を思い出したのか、姉が思い切り顔を顰める。何か言おうと彼女は口を開いたが、結局何も言わずにただ息を吐いた。カラーにはカラーの母親がいるはずだ、と思ったのかもしれない。姉に死んだ父親がいるように。呼び名の使い方は本人が決めれば良い、と夫人へ苦言を呈することは、きっと姉には難しい。

「こんにちは、お母様。」

 カラーはお手本のような笑顔で微笑んだ。誰も彼女のことを嫌いにならないだろう、と思うに十分な笑み。

「それからこの子が私の娘よ。貴方の姉ね。」

 母と名乗りながら、夫人は姉を「この子が私の娘だ」と紹介する。確かな線引き。嫌な顔一つせずに、カラーは姉にも微笑んだ。

「こんにちは、お姉様。」

 姉はこたえない。いや、どうこたえるべきか悩んでいるのかもしれない。夫人は素知らぬ顔で頬に手を当てた。

「あら、この子ったら長旅に疲れてしまったのかしら。ねぇ、何か飲み物を頂ける?休めばきっと話も弾むわ。」
「分かりました、お母様。すぐにお持ちしますね。」

 評判通りと言うべきか、カラーは行儀の良い返事をして部屋を出ていく。夫人が鼻を鳴らした。

「噂通り、気の利く娘のようね。しかしまぁ、品のないこと。」

 使用人は元から仕事をしていなかったのかしら、と夫人が笑う。つい先日まで数多の使用人に囲まれて暮らしてきた娘だというのに、いっそ不思議なほど従順だ、と。黙り込んでいた娘が馬鹿馬鹿しいと呟いて椅子を引いた。

「お茶を入れるのに慣れているくらい、自分のことを自分でするんだったら自然なことでしょう。来客のおもてなしのできる『よく出来た娘さん』じゃない。」
「……お前は少し彼女のしおらしさを見習ったらどうだい?口答えの多い子だね。」
「嫌なことを嫌って言って何が悪いのかしら。」
「お黙り。私は正しいことをしているのよ。」
「貴方にとっては正しいことなのかもね。」
「文句があるのかい?言いたいことがあるなら、はっきりおっしゃい!」

 夫人の声に、部屋の空気が張りつめる。気だるげに顔を上げた姉は、もうさして母親の気分を気にしていないようだった。少し上げた口角は、ともすれば夫人を馬鹿にしているようにも見える。その姿は始めに見た姿に近い。

「お母様、私は貴方にとっての何かしら?」
「大切な娘に決まっているでしょう。」

 その答えに姉は笑みを深めた。呆れたように首を傾ける。

「じゃあ貴方にとって娘っていうのは、アクセサリーか何かなのね。」

 ガン、と鈍い音が響く。揺れたテーブルに手を置いていた姉は、驚いたように身を引いた。テーブルに手を叩きつけたまま夫人が口を開く。

「物乞いをしたくないなら私に従いなさい。」

 低く、小さな声。今までのどれよりも大きく響いたそれに、姉は返事をせずに瞬いた。座ったままの彼女に近づいて、夫人がその肩に手を置く。

「私に残ったのは貴方だけなの、分かる?貴方には幸せになって欲しいと思うのは当然じゃない。私のために貴方をよく見せたいと思っているわけじゃないの、貴方のためなのよ?」

 姉の顔が歪んだ。姉の肩に置かれた夫人の指先が白く力んでいる。姉のドレスが、その中でぐしゃりと形を乱しているのが見えた。肩の痣は、人に見えなかろう。

「良い?あの子には、冷たくあたるのよ。」
「……分かったわ、お母様。」

 姉の目に納得は見えなかった。それでも掴まれた肩をちらりと見てから、姉はハッキリと頷く。

 戻ってきたカラーの足音に、夫人が手を離した。

「外面を取り繕うのはこんな時でも上手いのね。」

 小さな声は夫人に届いたのか。夫人は姉のほうをちらとも見もしなかった。

「紅茶はお好きでしたか?」
「ええ。」

 見事な仮面だ。カラーと仲良くするなと姉に言ったが、彼女自身はどうするつもりなのだろう。今のところ夫人は、カラーの前で「良い継母」の顔をしている、ように見えた。

 席は二つ。姉が座っていなかった方の椅子に、夫人は当たり前のように腰かけた。カラーは何も言わずにその横に立って、ティーポットから紅茶を注いで二人に差し出す。渡されたカップに手を付けずに、夫人はカラーを見上げた。

「ああそうだわ。ねぇカラー、貴方、家事は出来て?」

 突然の質問に、カラーは少し戸惑いを見せた。それでもすぐに頷いて、肯定の返事をする。

「は、はい。人並みには。」
「なら良かった!私の子も私も全く出来なくて。今日の夕食は貴方にお願いするわね。」
「それは……」

 カラーは何かを言いかけて、少し目を泳がせる。束の間躊躇ったあと、彼女はおずおずと言葉を続けた。

「あの、数日前から使用人たちが居なくなってしまったのは……」
「あぁ、それね。私やお母様の家具を買うためにみんな解雇しちゃったんだって。」

 姉が彼女の方を見ずにこたえた。カラーは彼女のほうを見て、困惑したまま聞き返した。

「全員、ですか。」
「そう。何も今日突然いなくなったわけじゃないでしょ。誰も戻ってこないわよ。」

 異常に静まり返った屋敷。行き届いていない手入れ。

 それが一時的なものではないと、カラーも薄々分かっていたのだろう、驚いたというよりは落胆した表情で、カラーはそうですか、と呟いた。

「聞いてないの?お父様、って随分と貴方を軽く見ているのね。」

 お父様、という言葉に嫌に力が入っているのはわざとか。ようやくカラーの方を見て、姉は鼻で笑った。

「掃除や洗濯、料理なんかも、お前くらいお育ちが良きゃあ一人でも出来るでしょ……人並みにはさ。」
「お前、言葉が悪いよ!」

 諫めているような言葉とは裏腹に、夫人は笑っている。

「使用人がいないのはそういうことなの。貴方一人で家事は出来る?」
「えっと……」
「出来ないの?」

 表情は変わらず。しかし明らかに下がった夫人の声の温度に、カラーは束の間言葉を失った。姉は何も言わない。ただ、目の前のティーカップを睨むだけだ。カラーは諦めたように頷いた。

「いえ、その……はい、出来ます、お母様。」
「あとねぇカラー。貴方のお部屋、今日からは私の娘が使わせて貰うから。」
「部屋を?でもお母様、空き部屋ならたくさんありますわ。私の部屋でなくとも……」
「あら、貴方が使っている部屋が一番広いのよ?それに、どこの空き部屋も貴方には広すぎるでしょう?」

 まるで気を使っているかのような言い回し。親切そうな声音で渡される毒を持った言葉の方が、明らかな暴言より余程胸を抉ることがある。

 夫人の表情、声、全てが優しく、その言葉の毒は強い。

「大丈夫よ、カラー。貴方には屋根裏部屋があるわ。」
「そんな、あの部屋は物置で……!」
「今は空っぽなのだから、心配することはないわよ。」

 ころころと笑う夫人は、まるで悪気のないように見えた。ただ薄く開いたその目の奥が、薄ら寒い。

「ああ、そうそう。夕食の前に掃除を済ませて頂戴ね。」
「あの、お母様……」
「なあに?」
「どうして、」

 青い顔で何かを訴えようとしたカラーのその声を、夫人は聞かずに立ち上がる。カラーの声を遮るように叫んだ。

「あら、気が付かなかったわ!貴方この格好でお掃除したら、綺麗な服が汚れちゃうわ!今エプロンを持って来てあげる。」

 微笑んで、夫人は部屋を去っていく。カラーは呆然と閉じたドアを見つめた。

「ねぇ。」

 聞こえた声に、カラーは振り返った。テーブルに座ったまま頬杖をついて、姉がカラーを見つめている。カラーは慌てたように笑みをつくった。

「なんでしょう、お姉様。」
「最初に挨拶無視してごめんなさいね。ちょっと疲れていてさ。改めてよろしく。」
「はい、お姉様。これからよろしくお願いいたします。」

 青い顔のまま微笑んで頷いたカラーに、姉は思い切り眉を寄せた。

「ねぇ、お前使用人に嫌われてでもいたの?それとも旦那様に?」
「は、い?えぇと、それはどういう、」
「なーんの文句も言わない、気味が悪いわ。だからお母様もつけあがるのよ。」

 彼女は立ち上がってカラーに歩み寄る。カラーよりも、彼女はかなり小柄だった。揉み合いになれば姉が負けるだろうに、カラーは姉の剣幕に怯えたように目線を泳がせた。

「……それ、可愛いの、つけているわね。」
「え?」

 目を細めて、姉がニィと笑った。彼女の手がカラーの手首に伸びる。カラーが腕に着けていたバングルを思い切り引いた彼女に、カラーは驚いて抵抗した。

「っ痛い、お姉様やめてください!」
「こんなもの掃除の邪魔でしょ。使用人には装飾品はいらないと思わない?」

 姉はカラーから奪ったバングルを自分の腕にはめる。泣きそうな顔でこちらを見るカラーに片眉を上げてから、姉はカラーの髪飾りに手を伸ばした。髪飾りを引かれて、カラーはバランスを崩して床に腕をつく。

「お姉様、私の装飾品なら全てお渡ししますわ。だからどうか乱暴をしないで……」
「へぇ、まだ怒らないのね。でも正しいわ。そうしているうちは、貴方は絶対的な被害者になれるもの。」

 笑い声を上げて、姉は手に持ったカラーの髪飾りを暖炉に放った。火が入っていない暖炉の燃え残りに、髪飾りが転がる。

「どうぞ、お取りになって?貴方のでしょ?」

 カラーは少し戸惑ってから、立ち上がって暖炉に近づいた。拾おうと身体を暖炉に入れれば、灰と煤が彼女の顔と服に付く。ようやく髪飾りを拾い上げてカラーが身を起こせば、姉が彼女の全身に目線を走らせた。ふ、と堪えかねたとばかりに姉が笑い声を落とす。

「そうやって灰にまみれている方が、よっぽどお似合いじゃない。ねぇ、サンドリヨン?」

 サンドリヨン。灰まみれの娘。

 投げつけられた呼び名に、初めてカラーの目に敵意が宿った。姉がくすくすと笑い声をあげる。

「ずっとそうしてなさいよ、良い子のサンドリヨン。あら何、やっと怒った?折角の名前が気に入らないの?それとも顔が汚れるのがそんなに嫌だったのかしら。」

 姉の笑い声は段々と大きくなった。縮こまるカラー、いや……サンドリヨンと呼ぼう。サンドリヨンを見ながら、彼女はひどく悲しげな目でケラケラと笑い続ける。笑いながらテーブルに残っていた手付かずのティーカップを手に取り、姉はそれをサンドリヨンの頭の上に持ち上げた。その動作はゆっくりとしていたが、サンドリヨンは動かない。

 水音が響く。

「顔の灰は綺麗に落ちたわよ、これで満足?」

 サンドリヨンはただ悔しそうに眼を床に落とした。髪から紅茶が垂れ落ちる。

「ちょっと、なんの騒ぎだい?」

 戻ってきた母親の声にこたえずに、姉は手に持った空のティーカップをティーポットの残ったトレーに置いた。近づいてきた母親に聞こえるよう、歪んだ笑顔で囁く。

「お母様に言われた通りにやっているのよ。これで満足?」

 夫人の返事を待たずに、姉は黙ったままのサンドリヨンを振り返る。

「また後でね、サンドリヨン。その汚い床、拭いときなさいよ。」

 そのままトレーを手に持って部屋を出ようとした彼女を、夫人が鋭い声で止める。

「貴方がやることじゃないって分かっているわよね?」

 何を指しているかは明白だ。返事をせずに、姉はただため息をついてトレーをテーブルに戻した。そのまま黙って部屋を出て、ドアを閉める。後ろ手に閉めたドアを、姉はちらりと振り返った。

「私が止めるべきだと思う?でも、どうしろっていうのよ、近頃は名前を呼ばれたことすらないっていうのに。」

 床に向かって呟いて、姉はかぶりを振る。こたえる者はいない。今度はドアを振り返らずに、姉は去っていった。

 部屋に残った夫人は、紅茶で濡れたサンドリヨンの様子に何も言わずに、彼女に朗らかに話しかける。

「さてと、サンドリヨン。」

 その名は少女のものでは無い。姉が言い放った蔑称を当たり前のように口にした夫人に、サンドリヨンはただ顔を上げるだけだ。

「長く住んでいるのだもの、掃除道具の位置くらいはもちろん分かるわよね?」
「……はい。」
「そうそう、エプロンだけじゃなくて、替えの服も用意したの。使用人が残していったものがあったのよ、これで汚れても大丈夫でしょう?ほら、少し大きいかもしれないけれど十分よね。」

 残したと言うよりも、捨てられていたと言うほうが正しいような状態のそれ。夫人は変わらず優しげな笑みを浮かべている。サンドリヨンはただ、静かに夫人を見ていた。

「ここに置いておくから、着替えるのよ。着替え終わったら、お掃除をお願いね……返事は?」
「はい、お母様。」

 頷いたサンドリヨンに微笑んで、夫人は部屋を出る。パタン、と閉じたドアを憎しみの篭った目で睨みつけて、サンドリヨンは吐き出すように呟いた。

「こんなの、ないわ……お母様が死んでから今までの生活だって、誰にも見向きもされてこなかったのに。」

 濡れた髪をかきあげて、サンドリヨンは低く唸った。

「お父様が再婚した途端、お嬢様から使用人以下の扱いにまで落ちるだなんて!有り得ない、絶対に……」

 束の間黙り込んでから、彼女は長く息を吐いて服とトレーを持ち上げる。濡れた手でドアを開ける彼女の顔からは綺麗に怒気が拭い去られ、もう怯えの色しか見えなかった。

第二場面:どこかの村、村人の家

「本当に、なんと礼を言えばいいのか分かりません。」

 今まで聞いていた声とはまた違う声が聞こえる。振り返れば舞台は随分と質素な家に変わっていた。いや、小屋と言ったほうがいいかもしれない。先ほどまで眼前に広がっていた煌びやかさはみじんも残っておらず、ほとんど物がない。壁は剥がれかけていた。

 言葉を発したのは痩せた男性だったようだ。とても嬉しそうに礼を言う彼にこたえたのは、やけに軽やかな声。

「私は日照りを予言しただけ。対策をしたのは貴方たちでしょう?」

 彼の隣に立っていたのは、あの妖しい美しさをもつ、人ではない何かだ。女性のようにも男性のようにも見え、年齢すら瞬く度に変わって見える何か。隣に並ぶ男と比べるとより異質さが目立つ。

「それにお礼を言うのは私の方よ。ここの村の人がいなければ私は今もあの場に閉じ込められていた。」

 微笑むそれに、村人は慌てたように首を横に振った。

「貴方を封じていたものを壊したのは、ほんの偶然です。感謝されることではありませんよ。」
「いいえ。感謝したいことは、私を自由にしてくれたことだけじゃないの。」

 それはふわりとまとった服を揺らして村人の前に立つ。何かを思い出すように目を伏せてから、彼を見た。

「人間は皆、私のようなものを恐れると思っていたの。排されると、敵だと思っていた……受け入れてくれる人がいるなんて思っていなかったわ。偶然とはいえ封印を壊してくれた上に、弱っていたところを助けてくれたんだもの。お礼が出来て、私もとても嬉しいわ。」
「えぇ、本当に助かりました。貴方が日照りのことを教えてくれなければ、私たちも他の村のように飢えに苦しむことになっていたでしょう。」

 その言葉を聞いて、それは少し表情を曇らせた。

「他の村には悪いことをしたかも知れないけれど。」
「でも、この村だけに教えてくれたからこそ、日照りの前から貧乏だったこの村にゆとりが出来たんです。日照りが起こらなかった場合よりも助かったくらいだ。本当に、貴方のおかげです。」

 罪を感じる必要はない、と村人は頷く。そう、とそれは胸に手を当てた。

「貴方たちに恩返しが出来たなら良かったわ。さて、と。いろいろ落ち着いたみたいだし、私はそろそろお暇しようかしら。」

 それの言葉に村人は眉を下げた。

「留まっていただいて構わないのに。歓迎いたしますよ。」
「いいえ、いつまでも留まっていては皆に悪いから。もう私の力も元に戻ったし、私も上手く生きていくわ。一人に慣れているの。」

 それが軽やかに家のドアを引く。軋んだ音を後ろに聞きながら、それは家から出て数歩進んだ。名残惜し気に家を振り返り、首を振る。

「私に出来ることは未来を変えることだけだもの。」

 呟いて、それは村の外に消えた。

第三場面:どこかの村、畑道

 気づけば景色が少し移ろっていた。人の気配はなく、視界一面を枯れた植物が埋めていた。自然に生えたにしてはやけに規則正しい並びに、ここが畑であることが見て取れる。対照的に道端の雑草が青く茂っているのは、少しは雨が降ったためだろうか。

 人の生活の跡はあるが、どれも時間が経っているように見えた。例えば、手押し車には蜘蛛の巣が張っている。それに人の足跡はどれも薄い。随分と長く畑には人が来ていないのかもしれなかった。

 不意にどこかから、がさりと音がする。音のほうを見れば、枯れ草を振り回しながら、少年が一人とぼとぼと歩いていた。五、六歳ほどだろうか。時折しゃがみこみ、別の枯れ草を拾っては放り捨てている。何をしているのだろうか。

「これは?駄目だな……あ、あれ……も食べられそうにないし。」

 食べ物を探しているらしかったが、あたりにあるのは雑草だけだ。少年は手押し車に両手をかけて、必死に身体を持ち上げた。覗き込んで、中が空であることに落胆の声を上げる。

「ちぇ、空っぽだ。」

 少年はまた数歩進んで、雑草の中にある花を見て足を止めた。

「これ、食べられるかなぁ。」

 少年の呟きに、突然返事が寄越される。

「こんにちは、お坊ちゃん。それは毒があるから食べない方が良いわよ。」

 確かに誰もいなかったはずの場所。立っているのは、あの、人ではない何か。足音もしなかったが、少年は気にする様子もなく元気よく挨拶を返した。

「こんにちは!」
「あら、元気なお返事。」

 それは笑って少年の頭を撫でてから、しゃがんで少年と目線を合わせた。よく見れば少年の頬は少しこけている。

「お坊ちゃん、お名前は?」
「ジョン!貴方はだあれ?」
「私は……そうねぇ、魔法使いよ。」

 それは名乗らずにそうこたえて微笑んだ。ジョンと名乗った少年は特に気にする様子もなく、ふぅんと頷く。それ――名乗りに合わせて魔法使いと呼ぼう――はちょっと首を傾げてから、立ち上がってあたりを見回した。ジョンの他に人の気配はない。

「お坊ちゃんは一人でどうしたの?もしかして迷子?」
「迷子じゃないよ、僕、お家ないの。」

 ジョンは少し俯いてこたえた。すぐに顔を上げて、明るい声で言う。

「あのね、僕のお父さんとお母さんはもういないんだ。僕を置いて、どっか行っちゃってさ。帰ってくるかなって思ったんだけど、逃げ出したんだってお隣のおじちゃんが言っていたから……お出かけってわけじゃないって僕にも分かった。だから、一人なんだ。」
「そう……ここもひどい飢饉だったからね。備えがなければ無理もないわ。」

 だんだんと尻すぼみになったジョンの答えに、魔法使いと名乗ったそれは眉を下げた。まわりを見渡して、荒れた畑を見る。

「仕方のないことなのだけれど。必要なことだったからね。」
「キキン、って何?」

 村の人も言っていた、と少年が首を傾げる。言葉を選ぶように目を泳がせてから、魔法使いは口を開く。

「作物が……食べ物が取れなくて皆が困ることよ。これから大変だね、お坊ちゃん。」
「そうかな?」
「だって、お坊ちゃんはこれからどうするのよ。一人で暮らしていくんでしょう?」

 魔法使いの質問に、ジョンは二、三度瞬く。ええとね、と少し考え込んでから、ジョンは笑顔でこたえた。

「お隣のおじちゃんは食べ物を探して来いって。僕一人ならきっと何とかなるってさ!」

 だからきっと大丈夫だよ、とジョンが頷く。魔法使いの目に、申し訳なさのような色が浮かんだ。

「誰かの家には置いてもらえなかったの?」
「おじちゃんの所には置けないって言っていたよ。」

 そこで言葉を切って、ジョンはちょっと首を傾げた。

「おじちゃん、何で泣いていたんだろうね。」
「……そのおじちゃんもきっと、自分のことで精一杯なのよ。本当は貴方を引き取ってあげたいんでしょうけど。」

 魔法使いは憂いを帯びた顔で目を伏せた。ジョンはよく分からないといった表情でしばし魔法使いを見つめていたが、何か思いついたのか魔法使いの服の裾を引いた。

「魔法使いさんは?どこに行くの?」
「私?そうねぇ。特にあてはないわ。もう前にいた場所では目的も果たしてしまったし。次の居場所を探して歩いているところ。」
「ふぅん……ついてっちゃダメ?」
「ダメ。子どもの身体じゃ移動が多くて疲れちゃうわよ。」
「そっかぁ。」

 苦笑いを浮かべて魔法使いがジョンの誘いを断る。残念そうに少年は眉を寄せたが、すぐに興味がそれたのか目を見開いた。

「ねぇ、魔法使いさんが持っているその棒は何?」

 くい、ともう一度服を引いてジョンが魔法使いの手の中を指さす。手に持ったステッキのようなそれを、魔法使いは少年に見えやすいように持ち上げた。

「ああ、これね。私はね、これがあると魔法が楽に使えるのよ。いわゆる魔法使いの杖ってやつ。」
「魔法?それってなんだって出来るの?」
「えぇ、大体のことはね。」

 魔法使いの言葉に、ジョンは目を輝かせた。

「じゃあさ、僕でも動物になったり、空を飛んだり、そうだ、王子様になれる?」

 彼の言葉が予想外だったのか、魔法使いは目を見開いた。ジョンは期待に満ちた目で魔法使いを見つめる。

「王子様に、なりたいの?」
「うん!」
「どうして?」
「どうしてって……」

 その疑問自体の意図が分からなかったらしく、ジョンは首を傾げた。当たり前じゃないか、とばかりに説明する。

「だってさ、王子様って、美味しい食べ物をたくさん食べられて、たくさんの人が言うことを聞いてくれるんでしょう?僕、聞いたことあるよ。ねぇ、出来る?」

 ジョンの言葉に、魔法使いは苦しげな表情を浮かべた。少しの間の後、魔法使いは再びしゃがんで少年と目線を合わせる。

「出来……る、わよ。少し骨の折れることではあるでしょうけれど。」
「ほんとに?やった!やってみてよ、お願い!」

 無邪気に嬉しげな声をあげて、ジョンが飛び跳ねた。魔法使いは首を横に振る。

「いいえ、だめ。やめておいたほうが良いわ。」
「どうして?」

 ジョンが途端に目を潤ませた。魔法使いは黙って目を伏せる。言葉を選ぶように、魔法使いはぽつぽつと言葉を重ねた。

「だって、魔法でたくさんの人を騙すことになるのよ。例えば王様とかね。本当に王様の息子にはなれないから、王様にお坊ちゃんが自分の息子だって思い込ませなきゃならないわ。過去を変えることは出来ないの。」

 魔法使いの言葉の意味が、いまいち分からなかったのだろう。少年は不満げに頬を膨らませた。

「でも、そうすれば僕はこの先、ずーっと元気に暮らせるよ?そうすれば村の人だって、おじちゃんだって困らないでしょ?」

 魔法使いはただ首を横に振る。

「魔法に頼っちゃだめよ。」
「何で?」
「魔法なんて、幻なの。辻褄が合わなくなるたびに過去を誤魔化していれば、いつか襤褸が出るものよ。」
「でも……」
「駄目なものは駄目。この話はもうおしまい。」

 年端もいかない少年相手に説得は難しいと踏んだのか、魔法使いはただきっぱりと言い切った。ジョンはまだ不満ありげだったが、しぶしぶといった様子で頷いた。

「分かったよ。」

 その様子を見て、少し可哀想になったのだろう。魔法使いはジョンの機嫌を取らんとばかりに声色を明るくして尋ねる。

「他にお坊ちゃんのしたいことはないの?一個なら叶えてあげるわよ。」

 魔法使いの提案に、ジョンが目を輝かせた。ちょっと待って、と言って少年は一生懸命悩み始める。魔法使いは彼が考え終わるのを微笑ましそうに待った。ジョンがぱっと顔を上げて、魔法使いをじっと見た。

「ねぇ、僕に一回で良いからその杖を貸してよ!」
「え?何がしたいの?」
「空を飛んでみたいんだよ。」

 鳥みたいにさ、とジョンが両手をパタパタと動かした。

「あら、私がその魔法をかけてあげるわよ。」

 ジョンは魔法使いの提案に、ふるふると首を横に振る。頬を膨らませて、彼は訴えた。

「自分でやってみたいんだよ。僕にはその杖は使えない?」
「誰にでも使えるけど……だからこそ危ないわよ。」
「すぐ返すから!ねぇお願い。」

 魔法使いは少し躊躇ったようだった。しかし少年に邪気があるようには見えない。逡巡の末、魔法使いは微笑んだ。手に持った杖を、少年の前に差し出す。

「仕方ないわね。空を飛ぶだけよ?」
「うん!」
「じゃあ、どうぞ。」
「ありがとう、魔法使いさん!」

 魔法使いが差し出した杖を、ジョンは嬉しそうに受け取る。杖をクルクルと回して眺め、少年は顔を上げて首を傾げた。

「どうやって使うの?」
「頭の中で、強く願って杖を振ってごらん。」

 ジョンは杖と魔法使いを交互に見た。ひどく嬉しそうに笑ったその顔が、どこか歪んで見えた気がした。彼はギュッと目を瞑る。

「こうかな?」

 ジョンが杖を振った瞬間、魔法使いは目を見開いた。呻きながら、魔法使いは頭を抱えてしゃがみ込む。ジョンが顔を輝かせた。まるで、そう、悪戯が成功したような顔で。

「う、あ……ちょ……と、なに……」
「やったぁ、上手くいった!ごめんね、魔法使いさん。僕、貴方が少しの間動けなくなりますように、ってお願いしたの。」
「駄目、よ、返して、」
「嫌だよ。僕、これでまたご飯が食べられるんだもの!」

 ジョンはキャッキャと実に子どもらしい笑い声をあげた。それから、呻く魔法使いから離れようと走り出す。途中で立ち止まって、魔法使いを振り返った。

「本当にありがとうね、魔法使いさん!この杖、僕ちゃんと大切にするから!さようなら!」

 ジョンは元気よくそう言って、杖を持ったまま走り去った。呻き続ける魔法使いを、その場に残して。

「あ、あぁ……情けなんてかけ、るんじゃなかった、う……飢えて、当然だ、人如きが……私に……!」

 恨めし気な魔法使いの声だけが、誰もいない道に落ちる。もうジョンの背中は見えなくなっていた。

 あたりが暗くなり魔法使いの姿が見えなくなっても、呪詛じみた呻きだけはいつまでも残り続けた。

気に入って頂けたらサポートおねがいします、 野垂れ死にしないですむように生活費に当てます…そしてまた何か書きます……