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36時間かかった出産の記憶を書き留める。

昨年2022年7月に娘を出産した時のことの記憶がほぼ薄れつつあるので、忘れないうちに事実と自分の感情を書き留めておこうと思う。

夜23:00ぐらいに4分に1回の陣痛が来ていたため、産院に電話し、急遽向かうことへ。入院準備は万端だったのでそのまま産院へ夫の運転で向かう。
当直の助産師さんに機械をつけられ、入院となる。
ある程度の痛みは覚悟しており、段々と陣痛が強くなるも、子宮口は開かず。全く開かず。
全く開かないまま朝を迎え、4分に1回の陣痛のまま朝を迎え、かなり疲弊していた。
夫も付き添ってくれてはいたが、私の痛みを分け与えることができずただただ睡魔に負けていた。あんたは痛みなくただただ寝れるやんけ、と私は正直イライラしていた。背中はさすってくれていたけども。
全く開かない子宮口と陣痛の痛みで4分に1回の波が終わると気を失うというかなり辛い時間がただただ過ぎて行き、肛門のあたりも痛いことから夫に一旦帰って仮眠をとってもらいつつ、テニスボールを持ってきてほしいと依頼。
買ってきたのはアンパンマンの顔のソフトボールぐらいの大きさのもの。
全く意味をなさない。ここでかなりキレそうになったが、幸いテニスボールは産院で借りることができた。
仮眠からなかなか帰ってこないことも私をイライラさせた。
一人はやはり心細かった。そして家でぐーぐー寝てる姿を想像しただけで爆発しそうにイライラした。
産院で24時間以上経過するも、子宮口は開かず。
産院に2泊。このまままた夜を迎え、眠れず、4分に1回の強烈な痛みを耐え続けることは精神的にも体力的にもかなり限界だった。
歩いたり、シャワーをするも、子宮口はなかなか開かなかった。

あとで知ることになるが、ある程度時間が経過すれば子宮口内にバルーン(?)を入れたり、促進剤などを使うなどの対処法があり、母体への負担を軽減できるものがあったそうで、私は全く知らず、またたまに見にくる医師も助産師からもそのような案内もないままもう30時間が過ぎていた。

体力的にも限界を迎えつつ夜が明けて行き、私は疲弊し、朝方に助産師さんを呼び、限界の旨を伝えるも、じゃぁまぁ2時間後ぐらいに分娩台移動しましょうか、ちょっとは子宮口開いてきているから、とのこと。
ここからまた2時間待つという絶望と、辛さで涙が止まらなかった。

そうこうしているうちに陣痛の痛みもだんだん強くなり、やっとの思いで分娩台へ。

出産前は、お股を切りたくないなぁ、など思っていたが、そんな悠長なことは言ってられないぐらいの痛みだった。とはいえ分娩台に乗って40分ほどで無事に生まれ、我が子に会えた、という思いよりも、やっと終わった…という安堵の方が大きかった。

安堵したものの、やはり30時間を超える出産は体力的に辛く、ここから1ヶ月ほどほぼ床に臥していた話はまた書きたい。

あと1つ。
私はバースプラン(出産前に希望の出産を産院に伝える。立ち合いがいい、母子同室か別室かなどなど)に、夫の立ち合いを書いたが、私の頭の方に立っていてほしい、お股は見えないようにしてほしい、という旨を書いたのだが、夫が「僕は全然大丈夫ですよ、出産のビデオとかも見たことあるし(学校の授業であったらしい)、血とかも全然平気です〜」など言いながら私の頭の上ではなく横、腰あたりにいたことにもかなり腹が立っていたがそれどころではない痛みがあったのでその時は何も言わなかった。
今思い出しても震えるほど腹がたつ。お前が、血が大丈夫とかはマジでどうでもいい。私の尊厳のことでお股周りに来るなと言ってんねん。
このイライラを最近伝え、夫はびっくりしていた。でも私はこの件に関しては一生許さないし2子を出産する場合は、頭の上にいなければ許さないと改めて言いたい。

あと1つ。
私が個人的に感じたので違うかもしれないが、私が選んだ産院は、「お産は自然のもの」+当直の医師をあまり起こすことなく、起こすとしたら朝方ぐらいで調整、みたいな院だったように感じた。悪い院ではなく環境の整った個人院だったが、お産は自然のもの、については、私はお産は医療にべったり頼るものだったなと思っている。次出産する場合は必ず無痛分娩を選ぶ。そして私は法律などイマイチわからないが、ギリギリまで助産師さんが対応し、生まれる20分前ぐらいにふら〜っと現れて赤ちゃんを取り上げ、お腹を否が応でも押さえつけ、お股を縫ってドロンするのが産科医師の通常運転なのだと身を持って知った。きっとそういうものなんだろう。

思いつくままに出産するまでを書いた。
出産時は「赤ちゃんに会えた!」という母子的感情よりも、自分の体が悲鳴をあげていることに対する苦しみを感じていた。
出産は早い方がいい、と周りが言う意味もこの時よくわかった。


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