そういうわけでウィル・スミスを支持します

世界が僕に追いついてきているな、と思う。
『呪術廻戦』のブームに、アカデミー賞の騒乱。

誇り高き尊厳の守護者ウィル・スミスの側に付く皆さん、ご機嫌よう。
紋切型の思考停止で非難しているバカなお前ら、クソくらえ。絶対仲良くなれないね!


さて、後々のために説明しておくと、2022年のアカデミー賞で、物議をかもす事件が起こった。
差別的なジョークが売りの司会者(クリス・ロック)に、脱毛症の妻を笑われたウィル・スミスが、壇上に歩みでて司会者をひっぱたいたのだ。

あれだけ反差別を声高に叫んできたアメリカ映画界である。
さぞかしこの下劣な司会者が非難轟々なのかと思いきや、むしろスミス叩きで一色らしい。
これには面食らったが、事態はそれでは収まらず、完全に被害者であるはずのスミス夫人まで浮気を揶揄されて、セカンドレイプのような様相まで呈している。

これぞ僕がこれまで20年間主張し続けていた問題の構図そのものだ。

暴力が発生したとき、何故、最初にあらぬ火種を持ち込んだ人間が非難されないのだろう?
ロシアのウクライナ侵攻ですら、抵抗するウクライナを非難する人間(橋下徹)がいるくらいだ。

僕は20年間『呪術廻戦』の吉野順平と同じ主張をしているのだけど、
他人に害を為すために、わざわざ関わりに行く人間こそ、最も醜悪で許されざる存在のはずだ。
どこをどう考えても、不要な争いを最初に始めた人間が悪い。
暴力があろうとなかろうと、一番悪いのは侵略を始めた人間だ。

侵略とはあらゆる形態による個人領域への侵害をいう。
物理的な力の行使であれ、言葉や些細な仕草によるものであれ、慣性的に享受できると当然期待される安寧と平穏を積極的に毀損してかかる行為全般だ。それを始めた人間が一番悪いはずである。
言い逃れの余地なく、疑いようがなく、絶対的に悪いのだ。

それが一体なぜ、暴力にだけ特別の地位を与え、それを行使した人物を殊更にバッシングするのだろう。嫌な王を勝たせ続けるための、働きアリ共による集団ヒステリーにすら見える。

百歩譲ってアメリカだけでいうならば、追い詰め先に手を出させた相手を大々的に叩くやり口は、太平洋戦争の頃からのお家芸だ。もしかすると隠れた国の精神なのかもしれない。
しかし、わが国でも『忠臣蔵』があるし、現代でも、いじめ加害者がバッシングされ始めると、すかさず擁護者が現れて反撃者をもっともらしく非難する。
胸糞悪い奇麗事のムーブは世界的な傾向のようだ。

たとえばコロナ禍では、デマで感染と医療崩壊を広める行為が横行したまま2年になる。
奴ら感染拡大勢力は一向に裁かれることなく、今日も僕のような持病持ちへの人権侵害を、それはそれは熱心に続けている。
法的救済を求めても「現行法では無理」「表現の自由」と相手にされないが、「道連れにする」と書き込んだ僕のtwitterは永久凍結になり、実社会でノーマスクと戦えば警察がくる。


教えてほしい。
ウィル・スミスは、僕は、仕返しで内申書を下げたいじめの被害者は、一体どうすればいいんだい?

公然と侮辱されて黙っていろってのはナシだぜ。
それは不正義で不道徳で倫理に反する問題外の結論で、そんなものがまかり通るのなら暴力だってアリのはずだ。
泣き寝入りしろとは言わない程度の良識はあってくれよ。それは不正義の追認だぜ。
暴力は良くないとの奇麗事を愛する皆様のお精神は、まさかそこまで腐っちゃいないよな。

なら続けて聞くけれども、暴力が絶対的に悪なのならば、それを誘発する行為は当然に悪とされるべきではないだろうか。
しかしだ。
こういう時に批判されるのは、何故だか仕返しをした側。最初の加害者については、あろうことか事実上免責されてしまう。
なぜ、最初の加害者を叩かない?

これまで僕の仕返しを悪く言った連中で、納得のいく答えをくれた奴はいない。ウィル・スミスをバッシングしている連中も、誰一人としてマトモな答えを出せないだろうね。
その理由は簡単で、彼らの採用している前提が誤りだから。

そう、唯一の正しい道は、「周りが司会者を止める」だった。

「まてスミス、おちつけ! おいクリス! お前今のは流石にひどいぞ!」
皆口々にこう言えば良かった。
グーで殴らずビンタにするくらいの節度はあったスミスだ。皆が止めに入れば腕を下したことだろう。

でも会場は失礼なジョークで笑い、そもそもアカデミー自体が、アジア人差別を開き直るような人間を司会者に据えたのだ。会場は完全に加害者の側に付いていた。
ウィル・スミスを非難している連中もそうだ。黙っていれば、加害者クリスは今日も発言にキレがあったと絶賛され、傷ついたスミス夫人の尊厳は社会的に存在しないことになっていたはずだ。

問題は、「うまく加害する人間」を野放しにする社会の構造にある。
ここで沈黙すれば、決して尊厳は戻らないと思ったからこそウィル・スミスは立ち上がったのではないだろうか。黒人差別の中でうまく立ち回り、今の地位を築いてきた矜持もあっただろう。
会見のとおり、「ジョークを言われるのも自分の仕事だが、妻の病気は違うだろ」と。

司会者クリス・ロックは、どうせ許されるとの奢りと甘えでその一線を踏み越えて、言ってはいけない侮辱に出た。
世の中には彼のそういう態度を増長するきらいがあり、それはこれからも同様に続くとみられた。
だから事件が起こった。

この加害社会の構造は、社会による弱者へのハメ殺しである。
部外者を不快にさせない程度の、上手な加害による失礼なパフォーマンス。
どこかで「自分が笑われる側じゃなくて良かった」との安心感を抱え、無邪気に笑う人々。
生半可に抗議したならばさらに笑い、マトモにとりあわず、ならばと有形力の行使に出れば、今度は暴力は悪だと好き勝手に非難する。何故なら自分たちにとってはそれが面白く、加害者の彼は自分たち視点で良い奴だから。
うまく加害するやつのことはだれも止めない。彼は持ち上げられていいめをみながら意気揚々と次の生贄を探しに行く。

結局は、加害上手を無敵で居させるギャラリーという名の無邪気な檻が、ある意味一番の悪なのだ。

彼らはどのツラ下げて暴力を非難しているのだろう。
加害者を持ち上げ、弱者を丸腰で検闘場に囲い続ける彼らのスクラムが、まさか暴力ではないというのだろうか?

コミュニケーションと普通の人間について知りたい。それはそうと温帯低気圧は海上に逸れました。よかったですね。