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【小説】宇宙うさぎ20

 目が覚めると、カンガルーと私だけがそこに存在していた。誰からも邪魔されない、柔らかなゆりかご。母の胎内だ。何故だかそう思った。

 思う存分寝っ転がって、ぐっすり眠りたい――。

 そんな衝動を何とか振り払い、私はカンガルーを見据えた。カンガルーもこちらを見ていた。ふいに小さなため息。カンガルーが話しかけてきた。

「あんたカンガルーは好きか嫌いか」

 カンガルーを? 好き嫌いで考えたことなどなかった。ただびょんびょん跳ねる動物としか思っていない。

「いや、嫌いじゃないけど。急になんだよ」

「馬鹿な答え方してないではっきり言えよ」

「いや、本当に考えたこともなかった」

「じゃあ、今考えて決めろ」

「今……」

 今、好き嫌いをはっきりさせることなどできるだろうか。

「いや、何を基準に好き嫌いっていうのか分からないよ」

「そんな答えでお前、自分の望みが叶うと思うか」

 私に曖昧な返事をされてカンガルーは苛立っているようだった。何が悪い。私の正直な思いだ。カンガルーは何をそんなに怒っているんだ。

「こっちの望みとカンガルーの好き嫌いに何の関係があるんだよ」

「大いにある」

 カンガルーは断言した。

「曖昧で意見を出さないのはずるい。ずるいやつは神様が見てる。神様はそんな奴の願いを受け止めない」

「いや、そうだとして、何でカンガルーの好き嫌いを言わなきゃいけないんだ。カンガルーじゃなくても……」

 カンガルー、カンガルー。何回カンガルーって言わせるんだ。カンガルーってやつはしつこい。

「嫌いだ」

「そうか。私も箱庭を荒らすお前たちが嫌いだ」

「荒らす?」

「好き勝手居座って、好き勝手食い散らかして、お前たちはここの園の幸せを壊す」

「何を……。助けに来たのに」

「どう助けるつもりだったんだ」

「いや、なんていうか、カンガルーがみんなを連れて歩いてるから、辛そうだから……やめさせようかと」

「辛そうだと」

「夜の徘徊のあの目は辛そうに見えるよ」

「勝手に決めつけるな。あの夜行は私と園長殿との約束だ。すっこんでろ」

「園長殿との約束ってなんだよ。あんな辛そうな顔して徘徊して、何になるんだよ」

「みんなに幸せを見せてる。この目玉で!」

「それだよ! その目玉が問題なんだよ。それ宇宙うさぎのだろ。普通の目玉に戻れば、変なこと考えなくてすむよ」

「黙れっ。変なことだと? お前はそんなしょっぱい考えを押し付けるためにこの箱庭に入り込んだのか。失せろガキが。お前は、若い人間は、戦争も、飢餓も、火で焼かれる怖さも知らないだろう。世界の、色んな時代も、本当の長い時間も知らないだろう。園長殿が、何度も動物を救おうとしたのに、何度も失敗して、何度も何度も! 腹が空いて辛いことの、その動物の目を、目玉から滲む辛さを見たことがあるのか! 無いだろう! 見たことある生き物ならそんなこと言えない。思わない。じゃあ何を思うかって? なんで私が生きてるんだろう、だ。罪のない彼らが苦しんで、なんで私はのうのうと生きてるんだろう、だ。なんで私が、なんで私がって思うんだ! 助けに来ただと? 笑わせるな」

 カンガルーの叫びを聞いて、私は古書店で購入した元園長のエッセイ本を思い出した。

 ――戦争のために一部の動物は餓死させられた。

エッセイ本を書いた園長殿は何度もその光景を見たんだな……。

 ――新しくできた水辺の動植物園は大成功だった。

 やっと幸せになれると思ったのに。

 ――子どもたちは大喜び。
 ――老若男女が楽しめる動植物園。

 それから何年たってあの地震が起きたのだったっけ……。

 何度も何度も苦しい思いをして、もう疲れてしまったんだな。私は何も被害を被っていない。戦争も、災害も、知ってはいるが経験などない。偶然、幸せに逃げ切った。偶然、何の苦しみもなく生きてきた。贅沢苦だなんて思っても、死ぬほど怖い目に遭遇したことなどなかった。生きてる。安全に。それなりに平和に。他の動物たちは? このカンガルーは? 元園長殿は? 私はいったい何を……?
 ああ、また遠くから声が聞こえるーー。昏い胎内にきらりと光る何かが見えた。

「何だ?」

 カンガルーが叫ぶ。

 金色の糸のようなそれが天からゆっくり伝ってくる。糸は、細い流れとなって、あたりをつたう滝の流れになった。私の周りが、金色の滝に囲われた。

「何をボケっと突っ立ってやがる! 仕事しろ!」

 満月が宙から降ってきて、顔に飛びついてきた。

「カンガルーごときに丸め込まれやがって」

「満月……」

「なんだあ? めそめそと。てめえもカンガルーもアホか」

「だって満月……」

「だってもクソもねえ! てめえはカンガルーの話聞いて、その話がつまらねえクソッタレな話なら、お前の力で、新しい良い世界を書いて連れてけばいいだろうが! てめえには、俺ら宇宙うさぎの目玉なんぞよりいい能力があんだろうがよ!」

「でも、カンガルーたちの生きた時間は、無かったことにはならないんだよ。あの辛い戦争も災害の記憶も」

「うるせえ! だから何だ。同じ時間をぐるぐる回って、しょうもない時代繰り返して、自爆してるやつらをほっとくのか? 新しいところに行くのに過去は関係ねえよ! アホな時間に執着してるやつらを、その時間から引っぺがしていいとこ連れていってやるのにグダグダ抜かしてんじゃねえ!」

 満月の言う通りだ。でも、私に書けるだろうか。私は何の経験もない、たいしたことない人間で……。

「なんか要らんこと考えてやがるな。おい山田、書け! 書いて救え! お前は物語を書いてみんなを、お前自身も救うんだよ」

「そんな。カンガルーのことなんて書けないよ。他の動物のことも。ちゃんと知らないんだ。みんなの、これまでの生き様を」

「それでもいいんだ。書けない理由にはならない。新しい物語を、幸せに生きる姿を、お前が書いて、みんなを開放してやれ!」

「なんだよ。なんでだよ……」

「宇宙うさぎに目ぇつけられた人間がお前だからだ」

「理不尽だ」

「そうだ。天女様もカンガルーもオケラも園長もみんなみんな理不尽な目にあって生きてきた。理不尽な目に合ってない生き物なんていねえんだよ。だからこそ、みんなの最後に救いがあってもいいだろう。そんでお前はこの先も生きていくんだ。みんなとは別の現実で、みんなよりも長く、長く」

「どういうことだ」

「お前が書けば、みんな物語の中で生きて、最後は眠る」

「物語の中に行かなくても、今ここで、この現実で生きていけばいいじゃないか。俺が書いた物語が現実になるんだろう。一緒にいられるだろう」

「みんなは物語の中に現実がある」

「え」

「みんなは物語の中から出てきたんだ。園長が持っていた宇宙うさぎの目玉のせいで時間の層が混ぜこぜになったんだ。お前の書く物語がみんなの現実になる。お前の力でみんなを現実に。たのむ」

「そんな」

「すまん」

「物語を書いたとして、満月はどうなるんだ」

「俺は宇宙に帰る」

「宇宙に……」

「心はつねにみんなと一緒だ。世界は並行で、いくつもの層が重なって、すべての時間は同じ空間に在る。お前は物語を、並行世界のみんなを書いて、終わらせろ」

 ふと、満月の口が笑った。

「気張れよ。中年」

「まだ青年だ」

「じゃ、青年。投げ出すなよ」

 金色の光がゆっくり裂けていく。石清水が途切れるように、金色が途切れ、その向こうに夜の動植物園が見えてきた。


続く

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