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ギミックの不協和音――『竜とそばかすの姫』に感じた違和感を言語化

 こんにちは、渡柏きなこです。先日、細田守監督のアニメ映画作品『竜とそばかすの姫』を見てきました。世間的には賛否両論ある模様ですね。面白かった、感動した、という人と、違和感を覚えたという人。それぞれいると思います。そして私は違和感を覚えた側の人。では、何に違和感を覚えたのか? それを自分なりに分析していきたいと思います。感想も含めて。

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 先に結論だけ言ってしまうとこうなります。この映画は音楽も映像も素敵。キャラクターも面白い、雰囲気も良い。ネット上での誹謗中傷の描写も、現実で起こり得る範囲に感じられるので、不快ではあるが違和感はない。では、何に違和感を持ったのか? それは『正体探しがストーリーの大きな軸であるところ』と『設定が使いきれていない』という点です。素人が何を言ってるんだって感じですが、どうかご容赦ください汗。そこに留意するとすごく遠回しな言い方になっちゃうんです。

美麗な音楽・綺麗な画

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 さて、違和感を覚えたと先ほど言いましたが、私はこの映画全然楽しめなかったわけじゃありません。まずは『音楽』の要素。これが素晴らしい。大変力強い美しい楽曲の数々が登場し、耳が幸せ〜な感じでした。絵づくりも大変詳細で色が美しく、映像芸術作品としてはとっても素敵な作品だったと思います。また、キャラクター性も好きなやつが多くて、主人公・すずのリアルな息遣いや友人・ヒロちゃんのげらげら笑う感じが楽しい&かわいいですし、カミシン・ルカちゃんのやりとりとかお腹抱えて笑いました。合掌マダム五人衆も実際にいそうな感じがしてとてもよかったです。舞台となった高知県の描写も素敵な雰囲気でしたね。大きな橋、水のきらめく川、廃校の色褪せた出入り口……終盤の『誰かを助けるために女子高生がひとり夜行バスに乗って東京へ行く』という展開や、『バーチャルの世界でひとりだけ、少女がリアルの姿を晒して、誰かのために歌をうたう』という構図も燃えました。おそらく本映画が好きな人はこの辺りに感動したのではないかと思います。私も感動したかった……笑汗。

ネットについての描写はそこまで違和感がない

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 私のフォローしている人や友人の感想に、たびたび『描写が極端である』という発言が出てきます。つまり、ベルや竜へのネットの反応の描き方や、学校でのすずの扱われ方が極端だということじゃないかと思っています。確かに、批判の言葉が強すぎたり、かと思えば賞賛の声も歯が浮くような内容だったりして、あまり耳触りのよくない言葉が飛び交いますよね。川の増水で子供を助けた、すずの母親にも賞賛ではなく批判の声が殺到したような描写がされています。カラオケですずが周囲から無理くり歌わされそうになるシーンも「こんなこと実際にある!?」みたいないやーな言葉を同級生が浴びせました。ですが、これは私はあまり違和感なく見ていられました。これは『こういう表現だ』と思ったからです。細田監督に、この描写を通して伝えたいことがあるのだろうと。

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 ネットで何か創作物などを投稿したことがある人は感じた経験があると思います。たくさん褒めてくれる方がいても、たった一人の否定的な感想ばかりが目についてしまって、続きを投稿するのが怖くなるとか。本当は肯定的な意見も否定的な意見も半分くらいずつ存在しているのに、否定ばかりされているような気分になるとか。すずちゃんはそういうタイプの子で、批判的な言葉の方が頭に入ってきやすい性格なのだ、というのももちろんあるかもですが、これは結構誰でも共通するのではないでしょうか? 「ああ、こういう風に感じることあるよね」と思いながら見られたので、私は違和感ありませんでした。

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 確かに不快ではありました。ネット上での極端な言葉の応酬って、そもそも見ていてあまり楽しいものじゃないですよね笑汗。特に川での増水事故については現実にもときたま起こる事例ですし、リアリティのある事柄に関して表現上の話とはいえ否定的な強い言葉をぶつけるのは、見ていて辛くなる人もいるんじゃないかと思います。ただ、それはまだ監督がコントロールできている部分で、戦争の悲惨さを伝える映画と同じように、現代のネット言説の悲惨さを伝えるつもりなのだと思って見られました。だから私はここまではまだ納得なんです。違和感を感じたのはもっと別のところでして……汗。期待した内容じゃなかったらすみません。

『正体探し』がストーリーの軸でいいのか問題

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 ではまずひとつめ。実はこちらはサブ的な方でまだ許せる範囲なのですが、「ネット系の物語で『正体探し』がストーリーの軸なのはいただけない」という問題があります。SNS全盛時代、匿名性がウリのSNSにおいて『相手の正体』を問いかけたり暴いたりするのはアンチマナーな行為だと思います。素晴らしい歌をうたうアーティストや面白い人物を見て『どんな人だろう』と想像してしまう気持ちはわかります。でもそれは勝手に暴いちゃいけません。その人が投稿した写真や身体の特徴などを用いて調べたりカマをかけて探ってみたりするのはどう考えてもお行儀が悪い。Facebookのような顔出しが前提のSNSならともかく、『U』はもう一人の自分になれる、やり直せるのがウリのSNSな様子ですから、正体探しが物語のメインになってしまうのはどうにも違和感があります。

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 主人公・すずちゃんだって正体を明かして歌うことにあれだけ抵抗感があったのです。なぜ自分が竜の正体を探すのはアリなのでしょう? 竜の正体探しを始めたヒロちゃんに「やめとこうよ」とか「こういうのよくないよ」とか言って静止するシーンとかがあればまだヒロちゃんの暴走で話がまとまるのですが、進んで協力していたのには強烈な違和感がありました。あのシーンがなければ話の筋が通らない、というのはよくわかりますが、そもそもそういう物語でよかったのか? という問題は残ります。現代のストーリーとしては少しモヤモヤする設定だったのではないでしょうか? まあですが、先ほども言ったようにこちらはまだわからなくはないです。

ギミック=設定が使い切れていない

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 さて、では本題。この映画は音楽も絵も素敵。キャラクターも面白い、雰囲気も良い。ネット上の誹謗中傷の描写も現実で起こり得る範囲で、不快ではあるが違和感はない。正体探しが話の軸なのもギリギリ頷ける。では、何が違和感だったのか? それは『設定が使いきれていない』という点。つまり『せっかくの面白そうな数々の設定の、面白い部分が引き出しきれていないと感じた』ということです。具体的に見ていきましょう。

 大きいところから行きますが、まずこの作品、『テーマ』は何でしょうか? 『歌の力』? それとも『殴るにしろ助けるにしろ素顔でやれ!』というネット匿名性への批判? それとも『親子の絆』や『感性の継承』でしょうか? あるいは『青春』や『恋愛』? どれでもあるような気もしますし、どれでもないような気がします。

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『歌の力』だとするならラスト前、東京で『竜』たちを助けたすずは『歌をうたうべき』だった。彼女はUの世界的な歌姫・ベルなのですから、あの場で大声で歌うことで、周辺住民の注目を集めたり、あの暴力親を圧倒することができたはずです。なのに実際はどうだったか? 何故か『目力』で圧倒する。じっと見られただけで暴力親はなんか知らないうちに圧倒され、怯えて逃げていく。それで解決するんだったらこんなに問題がこじれる前に解決できていたんじゃないでしょうか? 直前のシーン、『竜』の本体である黒い服の少年が『助けたい助けたい助けたい、うんざりなんだよ! 出てけ!』というセリフには迫力がありました。そう簡単に解決できる問題じゃないんだ。俺たちはもう精一杯やったんだ。そういう背景が言葉に滲んでいたのです。だからこそ、こんな簡単に解決してしまっては、台無しです。周囲の大人や一般人には解決できなかった。でも世界的歌姫・ベルなら! そのリアルの姿であり、いまやアンベイルされることでベルとイコールで結ばれた『すず』だからこそ、助けられる! そういう展開に何故しなかった……泣。天才的な歌唱力を持つというすずの設定。しかし物語の当初、トラウマのせいでリアルでは歌えないという設定。そこを活かす最高のチャンスだったのに!笑泣

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 アンベイル、に関しても思うところがあります。どう考えてもプライバシーの侵害ですよねあれ?汗 あんな危険な武器みたいなものをどうしてジャスティンは個人所有して好きに使えちゃうんでしょうか? 企業の後ろ盾があってもダメだと思うのですが……。というか、あれはそもそも誰が作った装置なのでしょう。システム側からもたらされたのだとすればジャスティンのような人物に持たせたのはシステム側の不備ですし、企業が持たせたなら企業の不備です。そもそも別の目的があって作られた装置でジャスティンがそれを勝手に使っている、とかならまだ筋は通るかもですが、その辺は何も説明がありません。

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 というか『U』というあの擬似空間のコンセプトは『現実ではやりなおせない。でもここでならもう一度やり直せる』ということではないのか? 何故体をスキャンして『As』に反映させる必要が? それでは身体的特徴がコンプレックスの人はやりなおせないではないか。顔がコンプレックスの人はやり直せないではないか。(と思っていたらウミウシみたいなデザインのAsが出てきたりするし、途中で『Asは本人の特性を反映する』みたいな話も出てきて、それじゃ結局才能勝負であってやり直せているとは言い難いし、体をスキャンする設定と矛盾するじゃないかと思ったり……)多分、『ベルの目の前で体にあざが増えていく苦しそうな竜の姿』が描きたかったのと、ベルの顔にそばかすをつけて『そばかすの姫』にしたかったというふたつの理由からなのでしょうが、その設定が持つ他の部分の波及効果はあまり描かれず、画面外に追いやられてしまった印象です。

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 と、このような感じで、盛り上げ所で使えそうな設定や何らかの背景がありそうな設定が他にもたくさんあるのですが、『竜とそばかすの姫』ではそのほとんどが使われなかったり深められなかったりしていて、おかげで期待が外されたり、伏線だと思ってたものが回収されなかったり、あげく物語のつじつまが会わなくなったり、テーマがわからなくなったりしてしまっているのです。

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 また、おまけとして言っておくと、最後の『竜』を救う一連の流れについては『カミシン』に関しても思うことがありました。一言でいえば「カヌー使わないの!?」ということです。全国大会に出場するほどの腕前を持ち、河原であんなでっかいカヌーを担いで歩いていくような力持ちのカミシン。役に立つのが『このビル見たことある!』ってだけなのはどうなんでしょうか……? 絶対カヌー使うと思ってたのに……。すずがトラウマを負ったのが川関係の出来事なのですから、絶対活躍すると思ってたのですが、そういう風にもなりませんでしたね。このキャラクターがいる必要は物語にあったのでしょうか……?汗 いいキャラではあったんですが……

結論:サマーウォーズが見たい

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 長々と批判的なことを書いてきてしまって心苦しいのですが、結論としては『サマーウォーズが見たい』という気持ちになりました。細田守監督の作品って、『おおかみこどもの雨と雪』も『バケモノの子』も似たような読み味で、テーマに一貫性がないとか設定が使いきれてないとかが私のメインの感想なんですけれど、『サマーウォーズ』は手放しに良かった。大変素晴らしい映画でした。アレは『田舎の大家族がネットを通じて世界の危機に立ち向かう』という軸で、一貫性が取れていたんです。対比もあって小気味良い。『大家族』というテーマだったことでもしかしたら設定が投げっぱなしになることにそこまで違和感がなくなった、というのもあるのかも知れませんが、あれは文句なく名作でした。まだ見ていないという方、『竜とそばかすの姫』が微妙だったという方、ぜひ『サマーウォーズ』を見て、細田監督の手腕に舌を巻いてください。アレが作れた監督さんです。私は次回作も期待しています。

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