「俺はお前が俺を見たのを見たぞ」はどういう認知で生まれた名言なのか~関連付けと決めつけ思考で陥る孤立~

「集団ストーカー」という言葉を聞いたことがあるだろうか。

主に統合失調症を患う方が主張されることの多い現象である。

※統合失調症自体は薬物療法によって症状を安定させられる精神疾患であり
 治療ガイドラインも策定されているので
 ご家族の陽性症状でお困りの方はぜひ精神科にご相談を
 https://www.jsnp-org.jp/csrinfo/03_2.html

さて、こういった「集団ストーカー」や「俺はお前が俺を見たのを見たぞ」という言葉は
主に二つの認知によって発生していると私は考えている。

①身の回りに起こる出来事を自分と強く関連付ける「関連付け思考」
②他者に言語的な確認を取らず、自分の認識の範囲内だけで即判断する「決めつけ思考」

(※あくまでも研修中に統合失調症の患者さんと接した上で感じた仮説であり、論文でも専門医としての見解でもないのでご注意ください)


①身の回りに起こる出来事を自分と強く関連付ける「関連付け思考」

ASDの人は必ず人称をつけて、「自分の発言に対して、周囲の人が、自分に対して、ある雰囲気で何かを伝えようとした」という風に受け取るように私には見える。
主体が行う「行為」として捉えることが多い。誰が誰に対してということを抜きに出来ない。第一感は「行為」としてみるのではないだろうか?

『事実として認識するADHD・行為として受け取るASD』意味不明な人々
http://dryanbaru.xyz/?p=107

わかりやすく言えば「周囲の人が自分の方に一瞬向いた」という現象を認識した場合などに
「自分に向けられた何らかのメッセージである」と感じてしまう認知によるものである。

この「感じる」傾向が強いと
「たまたま外を歩いている人」はもちろん
「自分の目や耳で感じる範囲にいる人間すべて」が「自分に対する何らかの意図を持って行動している」と感じるようになる。

なので、aiueo700氏の
「俺はお前が俺を見たのを見たぞ」という明言は
「俺はお前が(悪意の意図をもって)俺を見ていたのを見たぞ」という指摘(あるいは反論)なのである。

5:15あたりを観ていただくとわかりやすいが、岩間好一氏は
「“自分を”狙って」「“自分を”轢こうと突っ込もうとしてきた」とお怒りなのである。

徹頭徹尾「世界の中心は自分」という世界観での言動が繰り返され、
「自分の目や耳で感じる出来事はすべて自分と関連している」と真剣に考えておられる様子がとてもわかりやすいケースであると思う。

ASDにとっては「もともと世界の中心は自分」であり、
逆に「自分が世界の中心から外れていることなどありえない」という基本的な暗黙の前提のようなものが終始確固として存在するからだろう。

だから私は、「ADHDは状況(空気)が分からない」のに対して、「ASDは状況(空気)を分かろうという気が無い」と考えている。
なぜならば自分なりにすでに自分が世界の中心であるという形での「分かった」像があるからであり、
「自分が多数派とズレているかもしれない」というような不安になるようなイメージを持つ必要は第一義的には存在しないからだ。

『ジャイアンのKYとASのKY』意味不明な人々
http://dryanbaru.xyz/?p=248

当然のことながら意図の立証というのは人間の脳が神経同士で繋がっていない以上は不可能であるので
基本的には注意を逸らす・話題を変える・物理的に距離を取るなどで関わりを避けるようにし、
ご家族の陽性症状でお困りの方はぜひ精神科にご相談を。


②他者に言語的な確認を取らず、自分の認識の範囲内だけで即判断する「決めつけ思考」

だが、実は①だけでは行動化(自覚できていない衝動・欲求・感情・葛藤が、言葉としてではなく行動として表れること。
自傷行為、自殺企図、暴力行為などが含まれる
)には帰結しない。
(あくまで「自分個人がどう感じたか」という感じ方の問題だからである)

行動化に至るにはむしろもうひとつの
・他者に言語的な確認を取らず
・自分の認識の範囲内だけで即判断する
・決めつけ思考
が原動力となっている。

ASもADHDのACも、断定が早すぎる。
断定するまえに、「相手がどんな意味で言っているか?」について正確に確認する作業が必要で、これは相互理解に前向きな態度といえる。

一般的に説明すれば、「あなたの言っていることの意味は私が見るとこういう意味に受け取れるのだけれど、その受け取り方でいいですか?」と毎回確認しなければならないほど違いは大きい

『相互理解のために何を「はっきり言う」か』意味不明な人々
http://dryanbaru.xyz/?p=458

統合失調症は重度であるほど幻聴を訴える患者さんも多く
認知機能障害で判断する脳の機能も低下してくるため
(※なので御本人の認識としては常に「~されたから」という受動的な行動となる
薬物療法なしに症状を安定させることが難しいのだが

一番大きな問題はやはり
Ⓐ他者との間で言語的な合意が取れておらず
Ⓑ(本人の脳の中では)非言語的な理解が成立している、と思い込めてしまうことにある。
(それがたとえ敵対や対立の関係性であっても)

そしてこのⒶⒷを見て思い当たった方もおられるかもしれないが、
実がこのパターンは俗に言われる「共感(同感)」と同じ機序(プロセス)なのである。


③「情動的共感」と「認知的共感」

共感性は2つに分けて理解されます。情動的共感性と、認知的共感性です。
情動的共感性とは、相手の情動や感情を自分の情動や感情として写し取ることです。
悲しんでいる相手の傍らにいたときに、自分まで悲しくなるといった現象を指します。
対して認知的共感とは、相手の情動や感情を自分のものとして写し取ることなく「相手は悲しんでいるのだ」と理解するプロセスを指します。

https://jwu-psychology.jp/column/post-7.html

統合失調症やASD(アスペルガー症候群・自閉症スペクトラム)の方はよく「共感性がない」というように評されるが
実際はむしろ逆に「情動的共感性」が非常に強い傾向があり、
「自分が共感したことを唯一の解として、それ以外の想定ができない(認知的共感性が低い)」過程で行動化が発生するのである。

もしかするとこれを読まれている中には庇護したい・されたいと思っている特別な相手が悲しんでいると
自分の責任だと責められているような気持になったりする人もいるかもしれないし、
ASDの夫が妻に的外れなアドバイスをしてしまうことも
「自分独りの視点でしか考えることができていない(自分とは異なる相手の事情を聴くという想定が無い)」ために発生している。

これらもまた「情動的共感性が高く・認知的共感性が低い」
(自分の事として感じやすい一方で・自分とは異なる他者への想像力観点が無い)ために起こる行為であると説明できる。

大月悠祐子『ど根性ガエルの娘 7巻』より
おそらく内モードでのこの姿を愛着関係の外に隠さず出されたのは御夫婦ともに本当に頑張られたのだろうなあ…と思います

ASの人は(あくまで表面的な行動から推定するだけであるが)
「そもそも自分に理解できない、想像も出来ないことが存在すること自体を感じていない」という風に見える。

自分に見えること、自分の意味付けだけで世界は完結しており、その意味では自分に理解できないことは存在しない。
しかしその態度の直接の帰結は、「価値観や世界の受け止め方が根本的に違う相手を想像してみよう、歩み寄ってみよう」という努力をしない。出来ないということになる。

私は「対話」は、「自分のもともとの考え方を一部壊して変化させる」、「相手を理解しようと努力することで自分の理解の範囲を広げる」ことだと考える。
自分の考え方が変わらないということは、自分は不安にはならないだろうが、相手には一歩も近付いていないことを意味する。

『「理解不可能なことがあること」を理解できるか』意味不明な人々
http://dryanbaru.xyz/?p=523


④情動的共感は悪者なのか

では仮に統合失調症やASD、境界性パーソナリティー障害やアダルトチルドレンに強い傾向として
情動的共感の高さがあるとしてそれは悪者なのか?という問いが出てくるかもしれない。

なので一応綴ってはおくが「程度問題である」というのが私個人の意見だ。
たとえば多数派(定型発達)も含めてすべての人間がすべての出来事に対して言語的に確認を取っていては煩雑になるし
実際に悪意や敵対などがあった場合はわざわざそれを表面化させてしまうトラブルにも繋がりかねない。

なので情動的共感が身内同士に敵対関係はないという妄想を共有する方向で機能している場合には
昆虫の巣や群れと同じで、情動的共感がある方が効率が物事が速く進むケースが多いと考えられるだろう。

さらに一方で自分のように
「認知的共感が高い一方で情動的共感が無いADHD(サイコパス)」の場合は
「親しさ」や「関係性」を感じられない認知障害が発生するため、
社会やコミュニティーの形成には不都合な部分が大きくなると思われる。

MBTI性格診断で言えば情動的共感が強い(感じやすい)ASDや統合失調症の方はS型(“感”覚タイプ)が多く、
 認知的共感が高い(観ている)のはN型(直“観”タイプ)が多いと経験上観察している)

ADHDは「他者との関係を意識しない限り単独」、「あなたもこの”場”に加わっていると説明されなければ周囲に人がいても自分には関係ない」という、
基本的に「ひとりが当たり前」なのだ。

物理的空間的に会話するような近い距離に複数の人がいたとして、その複数の人同士が話をしていて、
途中で自分に話を振られると、「急に言われてもわからない」、時には「私は話に入っていなかったはずじゃないの?」ということになる。

つまり、「あなたも話に加わっているのよ」と説明されない限り、その「場」に参加していることにならないのだ。

これは対人関係の全ての場合に当てはまる。「場の雰囲気」とか「状況」は、人から言葉で説明されるか、
または自分で努力して客観的物理的な状況分析をしてそこから導き出された仮説という形で「想定」しない限り自覚されることは無い。

これは「始めから非常に近い距離で他者が感じられ前提されているASの人や、
直観的に場の中での重要性などの「位置関係」を感じ取って行動を決定する多数派と根本的に異なる人間関係の認知であり、
ここからADHDの「理解不能」な言動が生じている

『ADHDの認知③ 他者の不在』
http://dryanbaru.xyz/?p=558

ただ、どちらにせよ(仮に悪者だったとしても)
情動的/認知的共感の脳の働きそれ自体を変えることは現時点の医学では不可能なので
「自分にはこういう傾向がある」と認識し、他者との間で確認を取り折り合いをつけていくのが現実的ではないかと思う。

※重ねて申し上げますが、あくまでも研修中に統合失調症の患者さんと接した上で感じた仮説であり
 学術論文でも専門医としての見解でもないのでご注意ください。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?