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6年前の今日、私は離婚した

9月25日

それは私の誕生日である。

2011年9月25日、大安吉日の日に私は16才歳上の旦那と結婚した。

2011.9.25


26才と42才の歳の差カップルなだけあり、披露宴には新婦側の席には若い女の子、新郎側の席にはおじさんばかりという奇妙な光景だった。

(旦那の友人)「若い奥さん貰って羨ましいな。」
(旦那)「いやぁ、いつか捨てられそうでハラハラですよ。ははは。」

彼は5年に離婚届けと書き置きを残して妻が消える事をまだ知らない。



2016年8月

私はCAに転職をして一年半、こつこつと貯金した資金が十分になった8月に、計画していた事を行動に移した。
第二の人生をスタートする為に、新しい街を探すのだ。
「住みたい」物件はすぐに見付かったが、金銭的に「住める」物件かどうかは別の話だった。
東京の新築マンションの家賃は驚くほど高い。
家賃は給料の1/3に抑えると良いとは聞くが、管理費込みで給料の1/2以上の家賃は果たして払えるのか。
そもそも審査が通るのか。
様々な心配を他所に、審査は通り9月1日からの入居が決まった。


9月5日

旦那には「今日は実家に泊まります」と短いメールを送り、新居となる部屋に来た。
旦那と住んでいたマンションには、離婚届けと一通の手紙を残して来た。

家が決まればすぐに住めると思い込んでいた未熟者の私は、電気やガスがまだ通らない事を知らなかった。
東京電力と東京ガスに自分から連絡を入れてから数日かかるようだ。

暗闇で水のシャワーを浴び、ろうそくを灯して家具のない床で寝る。

23時頃、旦那が帰宅したのだろう。
「手紙、読みました。」と始まる長いメールが送られて来た。
後日、きちんと話す日を作って欲しいと旦那に頼まれたので、記入済みの離婚届けを受け取る事を条件に日程を決めた。
結婚して丸5年、ついに離婚する日が来た。

2011.9.5



9月13日

旧居と新居を行ったり来たりしながらも、元々ひと月に10日しか東京にいないので、有り難い事に旦那と顔を合わせる機会が殆どない。
私が彼に説明する離婚の原因のひとつに、このすれ違い生活をメインとした。
二つ目に、仕事が忙し過ぎて家の事が出来ない事への憤り。
三つ目に、彼と結婚した理由が愛情ではなく情であった事への告白だった。

けれど、本音は三つ目がメインであり、もっと言ってしまうと何年も前から愛情だけでなく情すら無かったのだ。

そんな本音を全て隠し、情に訴え、離婚届けを受け取った。

彼は悲しそうな顔をしていたが、

「おとうふがそうしたいなら、俺に引き止める権利はないよ。バツイチの俺と結婚してくれただけで感謝しやくちゃね。〇〇(前の奥さん)が亡くなった後に、絶望していた俺を支えてくれてありがとう。」

と言って、居心地が悪いからか、深夜のファミレスへコーヒーを飲みに行った。
私を呼び捨てにする彼の呼び方が嫌いだった。

私は彼が前の奥さんの遺書を今でも大事にしている事を知っている。
彼女が自ら命を経ってから10年、私は役目を果たせただろうか。



9月25日

私は31才になった。
5年前の9月25日は世界一幸せな花嫁だったが、この日は離婚届けを握りしめるバツイチ手前女だ。
しかもこの日は日曜日、区役所はお休みだ。
離婚届けを受け取ってからすぐに提出できなかったのは、引き続きフライトが忙しかったのもあるが、区役所に行くのが憂鬱だったのかもしれない。
明日こそはと心に決めた。



9月26日

その日は秋晴れの気持ち良い月曜日だった。
バスを乗り継いで区役所へ行った。
5年前の婚姻届は時間外受付だったので、離婚届けを提出するフロアは初めて訪れるフロアだった。
担当の男性は書類の不備がないかを確認し「今後は取り消しが出来なくなりますが、受理して宜しいですか?」と念押しして来た。
お気遣いは嬉しいが、早く処理して欲しいと思ってしまった自分に驚いた。
そこから5分で離婚届けは無事に受理されて、晴れて私はバツイチとなった。

区役所の最上階にある食堂でハンバーグとビールを注文し、住み慣れた街を眺めながら今日から始まる第二の人生に乾杯をした。
5年住んだこの街に未練はないが愛着はあった。
安い居酒屋と親しみやすい人々。


毎年誕生日を迎えると、結婚式と離婚を思い出す。
良いか悪いかは別として、言葉通り私は毎年生まれ変わった気分となって新たな一年をスタートする。

それは今年も同じで、偶然にも今日も秋晴れが気持ちの良い月曜日だ。

今日から37才の私は、また生まれ変わって生きて行く。

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