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その日から離れた男が覚えていること


 長い時間がたつと人は疲れるようにできている。それが楽しい、わくわくするような時間であっても同じで、愛する人々であろうが四六時中一緒にいればうんざりするものだ。仕事なら言うまでもなく当然のことで、男は長い時間を今日も耐えて、家に着いた。
 荷物を居間に放り投げ、コンビニで買ってきたコーヒーを飲みながら煙草を一本吸って、玄関に置いてあったグローブと軟式ボールを持って外に出た。男の家の裏には廃校舎があった。昨年までは朝起きる時間になると小学生の挨拶をする声が目覚まし代わりだった。今は携帯の電子音を頼りに起きる毎日。子供が好きなわけではなかったが、少年少女の声というのはエネルギーに満ち溢れていて、力強く清々しくて気分よく起きることができた。

 男は、再びポケットから煙草を取りだすと火を点けて一服した。歳をおうごとに一度に吸い込める気体の量が減少している。肺が膨らみ切れずしぼんでいく。かといって煙草をやめる気にもなれなかった。やめる理由もなかった。

 まだ外は明るく日没までは時間がありそうな空。ひと気もなく風の音だけが聞こえる。煙草のフィルターを軽く噛みながら歩いていく。

 男の家から廃校舎までは五十メートルもなかった。家に面した道幅五メートルほどの通学路を挟んで隣家が一軒あったが、男は一度挨拶したきりだった。家主は五十歳ぐらいで小太りの中年。おそらく板金か整備関連の仕事をしているのだろう、二十二時頃帰ってきては重低音を響かせて、80年代のグランジロックやニューウエーブ、テクノ、シティーポップ、歌謡曲、演歌、およそ考えうる音の数々、をばたつかせて、蛾のような奴だと思った。数日おきに軽自動車やトラック、ワンボックスなど様々な種類の車を隣の空き地に次々と止めていた。車の数は一台増えたかと思うと、三台増え、次の日には二台減り、一週間ぐらいするとまた増えるといった具合で、その中年がいつ、どのタイミングで車を移動させているのかまるっきりわからなかった。妻も子供いる様子だったが、話し声一つ聞こえず、毎夜鳴り響く蛾の羽ばたきだけ生きているようだった。

 男は煙草をふかしながら校門をぬけグラウンドには入らず右へ曲がる。小さな校舎、以前は図書室か家庭科室か理科室か、様々な種類の岩石標本が窓際に並べられている前の砂利道を通り過ぎ突き当りを左へ向かった。そこにはコンクリート敷きの、雨除けになりそうな大きな庇のある空間があった。廃校舎の向こうには土手があり一本の国道が走っている。その場所だと国道からも、通学路からも、視界が遮られていて、広々として、車の排気音程度しか聞こえてこない場所だ。

 男は吸い終えた煙草を投げ捨てると壁へ向かってボールを投げた。タン、と響く音。続けて投げる。タン、タン、タン。
 男の投げたボールは壁にあたり、宇宙の物理法則にしたがい跳ね返ってくる。
グローブを広げ、しっかりとボールをつかむ。重力を感じる。

 一人でキャッチボールを始めて三か月ぐらい立つ。野球の経験はない。プロ野球のチームも選手も碌に知らない。団体競技は嫌いだった。ひとつのチームに熱狂し陶酔する人々の顔は原始的で、人が戦争となればいかなる理由をも正当化する姿をそこに見ていた。格闘技のほうが直接的で潔く、相撲は様式のなかで凛とした美しさがある。野球やサッカーは文化的な集合意識、野蛮な人の本性を隠すものにしか見えていなかった。

 昔授業で習った記憶を頼りに、覚束ない手足をじたばたさせているうちに何とか動きが馴染んできて、気付くとここでボールを投げるようになっていた。ボールとグローブは少年少女がいなくなったグラウンドで見つけた。誰のものかは分らない。ちょっと拝借したつもりが、いまは自宅に持って帰っていた。誰も使うものはいないだろうから問題ないと思って。
 男はボールを投げ続ける。一度投げると、一度バウンドして帰ってくる。数メートルという短い時間のあいだに地震や突風でも起きない限り軌道が大きくずれることはないだろう。この繰り返しだ。狭い空間に音が響いてわずかに体や耳が震える。変化球もなければ興奮もない。退屈で仕方ない。ただ、家でテレビをみたりゲームをしたり携帯で延々と映画や動画を見続けることに比べたら幾分ましだった。まし、な程度のことを積み重ね生活する。賢いとは言い難いが命を使っている気がした。どうであれ、見張るものがいないなかで起こす行動のひとつとしては、悪くないと思っていた。

 次の日、男の仕事は万事順調だった。放っておけばミイラか、即身仏か、少なくとも一般的な生活を送ることが難しくなるであろうこの男にとって、仕事は生きるうえでの知恵であり、必要悪だった。長い時間に耐えるかわりに自分を預けられる。
 それから家に帰り再び廃校舎に向かった。洗濯、入浴、食事、歯を磨き、眠る。これらに加わった一人キャッチボールは日課だ。人間らしい生活のためにわざわざ面倒なことを増やす。俺は立派な男だ。そう思った。
 タン、タン、タン、いつもと変わらない音。目的や意思とは関係なく、継続することで意識が細部に向かい、結果として現れた上位への恣意性。狙った場所へボールを投げるには肩や指の筋肉をコントロールする必要がある。男は壁の継ぎ目にボールが当たってから跳ね返るように狙いを定めるようになっていった。タン、タン、タン、そのうちリズムを刻み始める。タン、タン、タン。同じ場所へ、同じような軌道をとって、ボールが返ってくることを願って投げる。タン、タン、タン。男は無心になった。額の辺りがむずがゆくなり目の焦点は壁を突き抜けていた。

「おじさん」
急に声を掛けられて男はボールを取り損ねた。グローブの先にボールが当たり、勢いが抑制され足元に落ちる。何度かバウンドを繰りかえし静止した場所には小さな靴が並んでいた。泥だらけで、とても小さな靴だ。
 帽子を被った少年がボールを拾い上げる。手にボールを持ったまま少年は男の左手をジッと見つめていた。
「それ、どうしたの」
「あぁ、これは拾ったんだ。ここのグラウンドで。」
「それ、僕のお父さんのグローブだよ。ここでキャッチボールした後忘れたんだ。すぐに取りに戻ったけどどこにもなかった。おじさん盗んだんでしょ」
「そうか、ごめんな。俺はてっきり落とし物だと思って、家に持って帰ったんだ。誰か取りに来たら返そうと思って。」
「そういうの泥棒っていうんだよ」
 少年は真っ直ぐ男の目を見つめている。
「あぁ、そうだよな。悪かった。」
 男はグローブを外し少年に差し出す。少年は持っていたボールから手を放し両手で引っ張るようにグローブを掴むと「お父さんに言うから」とひとこと漏らし、土手の上に止めてあった自転車までかけていった。土手の上まで続く階段は子供には高いらしく、片足ずつしっかり地面を蹴って、飛ぶように昇って行った。

 西の空が赤く染まっていた。男は転がったままのボールを拾い上げ、ぐるっと回し、名前が書いてないか確認してから、しばらく考えたあと、ボールを草むらに放り投げた。

 家に帰ろうと廃校舎の門を出ると流線形の白いセダンがアップライトで目の前を通りすぎ急ブレーキも束の間バックで空き地にスルリと停車した。音楽は聞こえなかった。車から降りた中年はこちらに一瞥をくれると、無言で自宅の玄関へ向かい、無言でドアを開け、閉めた。
 そこから見えた自宅の電気は付いたままで、取り込み忘れた洗濯物を照らしていた。男は洗濯物を両手に抱えると片手でドアを開け、片足でドアを閉めた。
 その日、男の家からは遅くまでテレビの音が聞こえていた。ときおり、笑い声と猫の声と虫の音が、静かな夜に漏れていた。

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