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【二輪の景色-9】グッチで行こう。

 バイクを降りた元ライダーがいる。「子供の手が経済的に離れたらまたね」と、置いてきた思い出を振り返りながら彼は言った。背中は寂しそうだった。仕事の波には乗れていても、社会のサーファーも海のサーファーと同じように、一度にふたつの波には乗れないという諦観、あるいは乗らないという決意の顕れだ。
 だから、めいっぱい見せつけてやる。置いてきた夢に最大級の輝きを注ぐために。今、バイクに乗れることの喜びを語り尽くしてやる。悔しさの歯軋りで顎が砕け散ってしまうくらいに。羨ましさと憧れを日々募らせておくことだね。来たるべきその日にとびっきりの笑顔で戻ってくるために。

 バイクに乗り始めた女子がいる。障子の隙間から垣間見えたような誘惑の手招きに惑わされ、青いバイクを買った。「青いバイク?」。そう、青いバイクでなければダメだったの、と彼女は繰り返した。気筒数やパワーなんてどうでもよかった。法的に高速道路に乗ることができて、濃紺でもなくターコイズブルーでもない、青いバイクを彼女は探していた。
 彼女は青いヤマハの単気筒軽二輪を選んだ。法的に高速道路は走れても、性能的に高速道路はちと苦しい。その現実を彼女はまだ知らない。いつかそいつで高速道路を走ってみるといい。ライダーは経験を通して次のバイクを模索する。

 個人的にもいろんな迷い道があった。4気筒の大型車、中排気量4気筒、原二に原付き。国産からは想像もできないデカさのアメリカ製にも乗った。超大型Vツインは何種類か乗って、1979年型1340ccのどっかん鼓動に取り憑かれた。あの憑依、きっと一生心から離れない。次期改良型ではダメだった。世界の覇権を競う戦闘機とバイクはまるで違う。敵に勝たなくてはならない使命など、最初から持ち合わせていないのだ。新しい時代の最新の性能を備えたバイクだったのに、物足りなくって、好きになれなかった。

 Z1との2メイクレースで負けを知らなかったドイツ製も乗り継いだ。シャフトドライブの左右に揺られる感触が、横置きツインの鼓動とはまた違う愉楽を引き出した。それにも増して印象を濃くしたのが、その走行フィーリングだった。タイヤが地に張り付く感覚は、同じメーカーの4輪車とその真髄をいつにしており、心底感心させられた。まるで転倒する気がしなかった。あたかもジャイロで支えられているような接地感を、よくもまああの古い設計で引き出したものだと唸らされた。現存する化石の、最新テクノロジーを凌駕するようなポテンシャルに酔えたことは、これまでの人生の中で(もう短いとは言えなくなってきた)貴重な経験だった。

 イタリアンレッドのバイクを経て、今、アメリカ製スポーツバイクと、イタリア製大型カブを乗り分けている。もう1台あるが、今はあの自粛騒ぎのせいで長い休眠からまだ目覚めておらず、また別の機会に、ということで。

 アメリカ製スポーツバイクは、ツーリングマシンに比べるとスポーティで、スーパースポーツとやり合えば簡単に負ける。いいとこどりと言えば聞こえはいいが、中途半端と言われると面白くない。体力、腕前、反射神経と相談した結果、これ以上は望まないほうが無難なので、現状でベストの選択と言えると思う。空冷で90馬力ちょっとを発揮するとはいえ、水冷の3桁馬力の怪物に簡単に置いていかれる。それでいいのだ。フルスロットルの加速に貧血を起こすほどの速さはもういらない。

 一方イタリア製は、イタリア製のくせにどん臭い。かつて乗り継いだドイツ製の水平対向とどっこいどっこい、いや、それに輪をかけたほどのどん臭さだ。路面に張り付く感覚はなく、アメリカ製並みの粗野な荒くれ具合に似た野蛮さを誇張して、出来の悪い子ほど愛おしく思う性分のせいで(しかも場違いなドヤ顔を浮かべて見せる)、いいところは少ししかないのに、今や可愛くてしかたがない。同じイタリア製イタリアンレッドのサラブレッドとおんなじブレーキを奢っているのに、名ばかりの性能しか与えられておらず、よく止まってはくれない。高速からぎゅっとリアを踏み込めば、簡単にタイヤが止まって路面にゴムをこすりつける。イタリアンレッドのあちらさんは、ブレーキは小回りの飛行を得意とする猛禽類そのもので、高速道路でカッ飛んでいてもブレーキ一握りで蝶が花にとまるように車体が止まる。それに比べてこちらさんときたら。停止線を越えてはるか先を行っている。ブレーキの力加減は難しいし、早く止めるには性能が足りない。心地のよい制動感は残らない。残せるのは、後方に描くブレーキ痕だけだ。

 ふだんは、これ以上の能力は望まないでねと我が道を口ずさむようにドドドと連呼するイタリア製を駆る。気楽だからだ。イタリアって国は、なんかこう、もっと情熱的ではなかったか? 乗るたびにそんな疑問を誘発させられるけれども、スーパーカブのように気負いがないのだ。ギアはカブと同じようにガシャコンと入るし、アクセルのつきもゆるやかで穏やかで、テンポが一つぶん遅れてやってくる。低性能の安心機能だ。多少の路面の荒れはサスペンションがついているので吸収してくれるものの、変わりゆく路面の状況をハンドルに伝えてくれるようなコミュニケーションはとってくれない。人を急かさないバイクなのだ。定規を当てたような小気味よいコーナリングも得意ではない。もともとスポーツしていないから仕方ない。

 どうして君はそうも……。
 いや、責めるなんてことは、このバイクに対して野暮。問いかけても、都合の悪い話になると、とたんに口を閉ざす老人のように、饒舌な排気音で不服を訴えてくるだけだ。イタリアは情熱の国。口説くのは得意でも、責められるのは苦手なお国柄なのだ、きっと。
 かつてはレースで活躍していた俊足も、今や流れる時代の速さに着いていけず、その歩みをレース場からはずし、無理をしない歩調で進んでいる。
 ユーミンがかつて「生き急ぐ」ことはないとメッセージを送ってくれたように、君は排気音で走り急ぐことはないと語りかけてくる。音量は大きいけれど、語りかける口調は穏やかだ。そして何より、そこそこのペースで走ってくれるとことがよい。

 それでいいのだ。それがいいのだ。


【バイクフリークでなければわからないだろうけど、縦置きVツインのぶるぶる感は思いのほか楽しいものなのさ。】


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