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それぞれに少し不幸だけど、幸せに見えなくもないあの人たちが気に掛かって仕方ない。

 秀一の父・建造は、真里亞を妻に取ったが仲違いで袂を分かち、秀一は同級生の健人に思いを寄せ、健人は秀一の気持ちに気づいていたがマイノリティの愛は完全御免で女の子でなければいけなかったし、そんな健人に少なからずの好意を抱いていた1級上の真由美はこれまで幾度となく健人にアタックしたけれども、女にしとやかさを求める健人は真由美の勇猛果敢なアタックにいよいよ恐れをなしていた。
 秀一の父・建造は漁協で管理の仕事をし、恭子が競りに魚を買いに来ることが日々気になって仕方がなかった。
 恭子は漁港近くの鮮魚店を引き継ぎ営んでおり、地元生まれの娘だったがいちど都会に出て帰ってきた時にはややこを抱いていた。ややこの父親は誰も知らない。その件に関して訊かれても、恭子は鮮魚店の娘然としていた。子の件は訊かれても貝になり、好奇の触手が伸びてくるたび、口も身も閉じられるものをいっせいに閉じきった。鮮魚店の娘らしく性格は多少のざらつきはあったがチャキチャキで物怖じせずズケズケで、あの件以外に関しては、般若の一面の如く明か暗かはわからねどその一面をきっちり晒し明け透けだった。
「いいねえ、あのきっぷのよさ」建造はそんな恭子の逞しさと、頑なに閉じられた影に惹かれ、かねてより気になって仕方がなかった。幸い妻とは袂を違っているが、別離の原因がもともとそこにあったことを建造はすっかり忘れていた……というよりも、今ではこれ幸いとばかりに逆手に取ろうとしている節さえ伺える。
 恭子の娘も高校生となり、性格は恭子と瓜二つ。名を真由美といった。

 島民は全部合わせても千余名で、東西南北それぞれに散った集落に分散して住んでいる。隣町の出来事は風の噂で耳にはできたが、その先の集落については知る由もなく興味もなく、だから関心を寄せることもない。代わりに自治区内の出来事については、つまみ食いをした旦那を窮鼠に追い込んだ鬼嫁の一言一句までもが知れ渡る。
 天秤秤の皿の上で揺れている建造と恭子、秀一と健人、そして真由美の絶妙なバランスは、島民の格好の酒の肴になっていた。

 彼ら片想い連鎖の面々は、誰もが幸せを掴んでいない。それぞれに不幸なはずなのだけれど、どこか憎めない心の弛みみたいなものを与えてくれる。応援するにはリスクがあって、傍観していて楽しめる、そんなラブアフェアを集落の人々は日々の楽しみとしていた。

 均衡は保たれていてこそ美しい。誰もが幸せを掴んでいない片想い連鎖のあの人たちの一挙手一投足に、集落の人たちが一喜一憂する、そんな平和な毎日こそが願い続けた平穏なのに、ある日事件が起こった。建造の元妻・真里亞が二つ向こうの集落で男と逢引していたという噂が流れた。
 なんでも二人で赤い夕陽を見ながら海辺で黄昏ていたのだと。手を握り合っていたという噂もある。唇を重ねていたという目撃談もまた聞きで聞いた、という者まで現れた。
「ふん、所詮は噂話だろ。友達の輪じゃあるめいし、なんだい、その『聞いた人の話から聞いたところによると』っていうまどろっこしい話はよ」
 別れたくせに、いな、別れられたくせにいつまでも我が所有物のように妻を見る傲慢が当たり前の島の男である。元妻・真里亞を前にすれば大の男を小さくする小心者も、妻がいなけりゃ、極太胴を細いベルトで締め付ける乙女心、そのベルトをとって弛んだお腹を弾けさす焼豚女の腹みたいにのさばってしまう。

 それでも建造は真里亞の行動を気にせずにはいられない。なぜなら、真里亞の印鑑が押された離婚届が、まだ手元にあったからだ。建造は未練が邪魔をして、未だ押印できずにいる。神棚の下の箪笥にしまった離婚届を取り出して、真里亞の残した筆跡から二人で暮らした日々を知らずのうちに追っていた。

 物語は止まない雨みたい。降り続けば川となり、水は流れて海に出る。海に出れば出たで島の水はどこかに流れていく。海と混ざり合うかもしれないし、遠くで太陽に晒され蒸発して空に戻っていくかもしれない。先の見えないネバーエンディング・ストーリー。
 集落の人々は愛の成就未満に留まったまま幸せを掴みとれていない人たちに、今日も好奇の目を光らせる。

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