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吾輩は犬である。名前はない。

 吾輩は犬である。名前は、ない。名前がないのは、あの猫だけとは限らない。
 お供をするキジとサルにも名前はない。「キジ」「サル」と呼ばれるだけだ。名前がなくてもさして困ることはない。「キジ」と呼ばれれば該当者は1羽しかいないし、「サル」と発せられればサルはキキっと応えてみせる。

 もし吾輩に犬の仲間がいたら、こうはいかなかっただろう。
 ひとりしかいなければ「イヌ」と呼ばれて「ワン」と即答できる。だが犬仲間がいれば、主がどちらか片方を呼ぶことだってある。その際どちらが指されたのか理解できず、困惑して互いに顔を見つめ合ってしまうに違いあるまい。この問題は、サル、キジにも同じようにふりかかる。

 どちらが呼ばれたんだ? などというバツが悪い瞬間は、できうる限り避けたいと吾輩は常々思っている。だが、起こりうるアクシデントに対し、事前策を打たなければ気が済まない性格は、誰もが持ち合わせている特性ではない。名づけ親になろうと主が腰を上げない限り、風は吹かない。風が吹かなければ枝は揺れないのだ。名を記す筆を揺らすには、まずは名づけようという能動的決断が必要になる。
 名づけてくれないかな?
 意志を眼力に乗せて目配せするも。
 ……その気配はどこにもない。

 名は世界に星の数ほどある。名前の候補もまた、これから星の数ほど湧いて出ることだろう。
 名前には願いが込められ、個性を託される。個性を宿した子は世界にあふれ、あふれる個性が吾輩を憂鬱にする。吾輩はまだあふれる個性の仲間入りができていない。名づけという事前策を打たれないだけで、吾輩は肩身の狭い思いをする。

 事前の策が打たれないまま、物語が山場を迎えたとしよう。名が与えられていなくとも吾輩は動じず、冷静沈着に現実を受け入れ、使命を果たすつもりでいる。
 名がないことを嘆かず、凶事と受け取らず、吉事と変換する。その力が吾輩には備わっている。
 アクシデントやインシデントは、それまで無知だった愚者が理知を手にできる好機なのだ。これを喜ばずしてなんとする。なぜなら便宜的にでも名前をつけておかなかったことへの後悔が、主を苛むはずだからである。「イヌ、行け!」ではなんともかっこうがつかない。「かかれ! ハチ公」なら、はるかにかっこいい。そうした機微に気づくチャンスなのだ。

 だが、名づけの意味を考えたことさえないだろう主のこと。名をつけるにしても、さしづめ安直に「タロウ」「ジロウ」としそうである。「タロウ」「ジロウ」は古くからの逃げ口上みたいな名前だが、名無しでいるよりはるかにマシか。
 この課題は、吾輩に限ったことではない。キジ、サルにもそう遠くはない将来にふりかかりテツガク的試練だ。

 ことわっておくが、仮に「タロウ」「ジロウ」と名づけられたとて、我ら一行は南極探検に向かっているのではない。鬼ヶ島へ鬼退治に向かう途中だ。

 まさしく鬼門と呼ぶに相応しい鬼ヶ島の角を生やした門が船上から見えた瞬間だった。
 吾輩は褌を締め直して、これから始まる大戦に備えた。今はテツガクに耽っている場合ではない。名前をつけてもらうのは、戦いに勝ってからでいい。

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