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読み返し。思い返し。

 書棚に仕舞っておいた本を読み返すことがある。人はよく成長した自分を誇示するように、本を読み返すと「今ではあの時と違ったことを感じ取れる」と口にする。
 すごいな。
 そう言ってあげる。成長したことへの賛美だと相手は受け取る。真意は違うのだけれども、自己満足に浸った相手の気分をあえて害する必要はない。だからそのままにしておく。自分の主張を押しつけたってロクなことにはならないことをよく知っているから。

 感心したのは、相手が鼻を高くしたところではない。彼の感受性がどれだけ育まれたかなんてことを、第三者が確かめられるわけがない。昔といってもいつ読んだのかさえわからないのだから、ギャップの大きさは測りようがない。もっとも測ろうにも成長の質量を定義する単位はまだ発見されていないのだから、表しようさえない。それ以上に、他人の成長には関心がない。

 何かに役立てられるわけではないのだけれど、いちおう、いつ読んだのかは訊いてみた。答えは曖昧で、だいぶ昔に読んだとのこと。なるほど、よく覚えていないわけね。ならばそれは、絵に描いた空論みたいなもの。足場の定まらない緩くぬかるむ土台に砂の城を建てても、努力に反して全容はなおさらかすんでいってしまう。通常ならば。
 なのに彼ときたら。

 すごいな、と言ったのは、読後感じたものの新旧を比較できるくらいに覚えていると豪語した口ぶりに対して。記憶力が本物なら、感服に値する。初読で得た感想や感触など、これまでは輪郭線の消えた記憶の宙にぷかり漂う綿菓子みたいな『思い込みクラウド』だと思っていたのに。
 個人差ってものが関係しているのかな?

 その点僕は、いちど読んだ本の内容など、ほとんど忘れている。二巡目に入った読書ではたまに既視感に襲われることがあって、死んだ立場から生きていたうちの自分を見つめているような錯覚を起こすけれども、エンタテイメントで暴走列車がカーブで外側に振られ吹っ飛びそうになっても直線で正気を取り戻すみたいにして、しばらくすると生きているうちの肉体に魂が戻っていく。
 よく言えば一粒で二度味わえるお買い得な頭脳の飼い主であり、よく言わなければ効率のよろしくない時代錯誤のコンピュータ使いといえるだろうか。

 ただ、二粒で一度も味わっていないキャラメルみたいな現実に直面すると、沈む。まだ読んでいないのに、うちの書棚には単行本と文庫本に同じタイトルのものがいくつかある。

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