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【二輪の景色-10】『禅とオートバイ修理技術』行程を楽しむ。

『禅とオートバイ修理技術』(ロバート・M・パーシグ著)上下巻を手元に揃え、読んだ。
 いつもなら読中感を書くのだが、読み終えてしまった。途中で感想を述べるには、あまりにも無責任なような、そんな内容の書籍だったからだ。

 そもそも読中感を書こうと決めたのには訳がある。読中感にはネタバレがない。感想文を書いている本人がゴールに辿り着いていないのだから、最終目的地の景色は見えていない、だから描きようがない。その本を読もうとしている読者予備軍に無用な落胆は禁物だし、その本を知らない未読者に対し、興味をもってもらえれば読欲喚起するくらいの役にはたちそうでもある。行き先を知らされていないミステリアス・トレインに乗ったなら、目的地を知らされたいとは思わないものでしょう? だから。
 それに、読中感は似ているのだ。目的地に着くことをゴールとするのではなく、行程を楽しむバイクの旅に。

 読中感は、少し先行したものの、後から追い上げてくるランナーを待って、仲間を気遣いながらゴールを目指すようなもの。読後感を読んで、これってなんだかなあと思い続けてきた身なもので、そんなふうに考えるにいたったという次第。

 読中感の対象書籍は、個人的な嗜好で取捨選択後、という濾過を通過したもの限定。取り上げるにも満たない作品(あくまでも個人的エゴ)はさっさと書棚の下の倉庫に放り込んでしまうことになっており。
 読中感と謳うからには、取り上げるのに価値のある(あくまでも独断による)作品でも、読み終えてしまえばお蔵入りさせなければならない。
 だけど『禅とオートバイ修理技術』に関しては、実は何度も読中感に着手し、書き残しては読み進め、腹が決まらずアップをためらった初めての作品。冒頭で述べたように、中途半端な読中感は(そもそも読書途中に感想を書くなんてこと自体が中途半端ではあるけれど)あまりに不完全すぎて(通常は不完全ながらもちんまり帳尻を合わせる)、納得できなかった訳でして。
「そろそろアップしようかな」「いやまだ早い」の問答を繰り返していたら、あれ? とばかりに読み終えちゃって。
 読み終えたらもはや読中感にはならない。だからいちどは読中感対象外書籍として戦力外通告を発したのだけれど、読み終えて振り返れば取り上げないのはもったいないと後ろ髪を引かれたものだから思いとどまり。それだけ大きな存在感を残していった作品だから、まさかの反則、読中感に徹するはずの信条をあざとく欺き誤魔化して、読み終える前の道の途中に戻ったのだと自分自身に暗示をかけての読中感仕立て、題して『虚偽の読中感』なれど、従来どおりネタバレなしなのでご安心を。

 読み始め初期は、書籍のタイトルと内容が違うことに戸惑いつつ、禅的なものは何ひとつないし、役に立つオートバイ修理技術の享受もないなどとぶつくさ心で文句をこぼすも、だからといってタイトルは嘘だと言ってしまえばそれまでだったのだが、そこからがおもしろかった。ページをめくる速度が少しずつ上がっていく。

 昨今日本でもバイク乗りが増えているらしいけど、ほとんどのライダーがなぜオートバイに魅力を感じるのか言葉では表し難いと核心ではなく状況▼▼▼▼▼▼▼▼を口にするのに、本書は多くのバイク乗りの言いたいけど語り得ない▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼もどかしさを一掃して納得の道筋を提示してくる。大切なものは昔から見えないものと相場は決まっていたが、それと同じで形のない魅力は一筋縄ではその本性を現さない。本書はそんな答えの出しにくい難題を一刀両断でぶった斬り、核心を白日の下に晒す手練手管に長けていた。
「そうそう、なぜオートバイに乗るのか、そのとおりだったよ」と、いつもなら心にしまっておく呟きが、つい口元からこぼれ出た。

 バイクは、たしかに本書の主人公が語るように、目的地に辿り着くことを目的とはしていない。単なるコミューターとしての役割を除けば、オートバイは走ること自体を目的とする。そのことが生み出し編み綴る一点もののストーリーに、バイク乗りは心を震わせるものだったのだ。

【うちの息子はタンデムする気満々のようだわね】


 ただし下巻に突入してからは、難しくてよくわからないブロックが、あたかもツーリングで出会う酪農エリアの強烈な異臭の如く現れては消えていくようになる。進退窮まるではないが、その容赦のない究極の思考の理解を促そうとするも解しきれない知識の深淵が、本を旅するライダーを苦しめ、引き返せとナイフを突きつけられたみたいに脅された気分にさせられる。
 ツーリングで出会う突然の雷雨に旅を決行したことを悔やむように、読書のリセットボタンをタップし、新しいゲーム(ほかの読みやすい書籍)に鞍替えしたくなってくる。
 雨風は強く、しかも強烈な向かい風に見舞われている。この先、思いどおりの速度を保つことはますます難しくなっていくだろう。気持ちは折れ、今すぐにでも楽になってしまいたい衝動が多重に重なって襲ってくる。

 だけど、バイクを旅の途中で放り出し、旅を投げ捨ててしまうわけにはいかない。バイクを置いていったら専門の運輸会社に自宅まで届けてもらわなければならなくなるし、それにはびっくりするくらいの請求がもれなくついてくる。公共交通機関で帰宅しなければならなくなるし、電車やバスに乗るには荷物も多く、しかもライダーの身支度は誰がどう見たって敗北者になり下がったみすぼらしさだ。格好もバツも悪すぎる。
 読書はツーリング同様、完走あってナンボの世界。

 問題はもうひとつあった。文庫本上下巻をセットで借りてしまったことだ。別々に借りれば最長4週間の猶予内でこなせばよかったのに、うっかりセットで借りてしまったことで上下巻合わせて2週間で旅を終えなければならなかった。期間内に返さなければ、新しく予約した書籍を図書館は貸し出してくれない。
 合計700ページ超におよぶ旅程に2週間は短かすぎた。だが、読書のバイク旅はすでに始まっている。あとには引けない。歯を食いしばってでも、走り切らねばならない。

 ……。
 物語は、サンフランシスコで強盗に襲われ命を落とした23歳の息子を持つ父親によって、息子と幼少時代にバイク旅をした記録(たぶん)として描かれている。
 回想という形態をとっているものの、本人はある精神疾患に見舞われ、電気療法により過去の記憶をすべて失っている(事実)。手がかりを元に、息子を連れ、過去の自分の軌跡をバイクを走らせながら辿っていく。過去と同じく消えてしまった息子に向き合おうとする父と、かつての父親ではなくなった新たに出現した父親に、記憶を失う前の父親を探す息子。ふたりに目的地はない。バイクのメッキ部分に浮きこびりついてしまった錆は、研磨により元の輝きを取り戻す。ふたりの目的は、過去の記録に張り付いたベールを研磨し、本来の輝きを取り戻すことにあった。

 オートバイは然るべき技術をもって臨めば修復可能である。
 オートバイは旅程で幾度も修理されながら走り続け、道中、平行線を辿りながらぶつかり合う息子と父親の関係修復への道筋と重なってくる。然るべき技術をもってすれば、修復は可能なように思える。たとえ相手がマシンでなくとも、思考の質を磨いていくことでもしかしたら? 
 精神に破綻をきたした主因たる思想思考のカオスをも、然るべき技術をもって挑めば、父親の消えた記憶も修復に向かうのではないかといった期待も滲む。
 調子を狂わせては手を入れ復活していくオートバイは、未来のふたりの期待を込めた象徴だったのか。

 切なさを抱えながら明日に向かうロード・ムービーのようなロード・ノベル。わかりにくいところは適度に流しながらも、つまずくことなく順調に読書のアクセルをひねっていく。

【走りたい道があるかぎり旅は終わらない】

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