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揺れる親切心。

 弱きを助けるーーたとえば、横断歩道を渡りきれないお婆さん。手を差し伸べるのは当たり前の行為だと常々思っているのに、いざ自分がその場に立つと金縛り。余計なお世話かもしれないし、お節介な手助けは「あたしゃまだまだひとりで渡れるもん」の自尊心を傷つけてしまわないとも限らない。約束のアポに遅れるわけにはいかないといったこちらサイドの事情が二の足を踏ませることもあるだろうし、急がなければ地元スーパーで夕食の買い出しが間に合わなくなるといった切実な局面に差し掛かっているかもしれない。すべてが身のない空想で、湧き出る入道雲のようであることはわかってる。それでもあれこれ多種多様な思惑が去来して、結果、動けずに終わることになる。
 
 それに、自分じゃなくても誰かが手を差し伸べてくれるだろうし。
 だって、人の往来が途絶えない街ナカの交差点。その中のひとりくらいは声高らかに手を上げて助けてあげるはず。老婆に手を差し出してあげるはず。
 世の中、世間で言われているほど世知辛くはないはずだ。でしょ? だから誰か老婆を助けてやってちょうだいな。
 なのに、劇的な善行はいっこうに起こらない。起こる気配すらない。みんなほかの誰かに期待しちゃって、譲り合い。他力に頼って、自分の腰を上げやしない。結局、救いの手は1本も出てこない。

 これが都会というものなのさ。
 
 都会では人の良心が暗渠となる。情は流れているのに水の道の上に蓋をして、気にはとめるけど他人任せの知らん顔でやり過ごす。
 
 歩行者用信号が、カラータイマー点滅で警鐘を鳴らし始めた。ぴこぴこ警告音まで発して焦らせて「急げ、急げ」と急かしてる。
 こいつはまずい事態になってきた。
 急げ! いや急いで転んで怪我しちゃ骨折り損でバカを見る。急ぐな。いや、急がずに急げ。でも、無理はしちゃいけないよ。それでも足腰の許す範囲で、なる早を心がけてくださいな。
 手を貸さないくせに、心の奥で燻る良心は、我が心の動きをこれも正義の一環だと主張する。行動に移せずいるのに、いい事をした気になろうとしている。

 あ、もうだめ、間に合わない。あーあ、赤になっちゃった。
 
 こんな場面で気付かされることがある。
 青に変わった信号で、老婆が渡り切るまで優しく見守るドライバー。それを見て、どうして先に親切を発動しなかったんだろうってことに。
 親切は、感じた場面が発揮どき。躊躇いは、悪気がなくても後悔の素。後味悪しの素である。

 わかっちゃいるんだけど、我が心はなかなか別の意味で暗渠になりませぬ。暗渠は板を渡して川の上を人を安全に通すけど、我が心、思い立ったが行動だ! の認識が未だ板につくことなく、安全に老婆を渡せないのでございます。

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