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青い煙

昨日の今日だというのにまたこの日記を更新しようとしている。
気分の波が激しいのはいつものことだけど24歳になっても未だに凪いでいる自分のイメージは残念ながら湧かない。

学生の時、卒業制作が辛かったのは間違い無かったけど、あのキラキラした青春の日々が実は存在しませんでした。みたいなことにならないように「卒制ログ日記」を始めた。(それも制作の超後半だったけど)
惰性で始めたのにも関わらず、意外と読まれていることを知って、なまじ適当に書くことができなくなりつつあったここ最近。

「楓は思い出を綺麗に捉えるし、それを言語化するのが上手いよね」
「ドラマを見た気分なる」
「綺麗なお話って感じがする」
….
知らず知らずのうちに表層を取り繕うのだけが上手くなった気がして、口先だけになりそうな気がして。文章に起こすときは必ず自分の言葉になっているかばかり気にするようになった。

春先から初夏にかけて、日本人の自殺率は急激に上がる。
昨年の春は初めて人身事故にも立ち会ったし、知り合いが亡くなったと聞かされることもあった。春はどことなく死に近いんだろうか。
夏が過ぎ、会社の事業が一つ無くなると知らされ、そこから先はあんまり覚えていない。気がついたら持病は悪化し、うつ病を患った。
ちょっとやそっとのことで驚かなくなり、また私の言葉は借り物になってきた。

端的に言えば虚無に向かっている私。感情を必要最低限に絞った状態なのに、表層の私は全然そんなことはない。借りた言葉が多いせいで簡単に傷付かなくなった。

文豪は短命である。と何かで思った節がある。著名な人ほど長く生きられず、病死や自死が多い。最期のその瞬間まで鮮烈な彼らは幸せだったんだろうか。去年の今頃、線路に飛び出した人のことを思い出しながら最寄り路線に揺られている。打って変わって画家は長命な人が多い。私の好きなモネもそうだ。同じ表現する人なのにどうしてこうも違うんだろうか。まあ、どちらの有名人たちも碌でもない逸話ばっかり後世に残してくれているが。

会社にMacbookProの16インチを返却して、今この駄文を書いているのは新しく買ったMacbookの14インチだ。一回り小さくなって、ここからまた始まるんだなを思い起こして書き殴っている。いや、漠然と将来に不安しかないのだから「春は死が近い」などと宣っているのかもしれないが。残念ながら借りた言葉はまだまだ手持ちが尽きることはなさそうだから最悪の選択を取る必要はなさそうだ。実際に最近出会った人から初見で「根アカでしょ」と言い当てられたくらいだから、本当に自分で自分のことが信用ならない。


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