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wezzy閉鎖。『つくたべ』編集者インタビューから巻き起こった「百合差別」を思う。

更新終了および閉鎖のお知らせ - wezzy|ウェジー
https://wezz-y.com/archives/95862

 2023.12.04 18:00、ウェブメディア「wezzy」の更新終了および、閉鎖が発表されました。2024年3月31日にサイトを完全閉鎖するとのことです。

現実のレズビアンに目を向けたGL作品を『作りたい女と食べたい女』編集者インタビュー - wezzy|ウェジー
https://wezz-y.com/archives/93488

 以前発表された『作りたい女と食べたい女』(以下、『つくたべ』と省略。)の編集者インタビューの掲載場所が「wezzy」であり、この記事もおそらくは消去されるかと思います。

現実のレズビアンに目を向けたGL作品を『作りたい女と食べたい女』編集者インタビュー - wezzy|ウェジー
https://web.archive.org/web/20220525135901/https://wezz-y.com/archives/93488

Wayback Machine

(2ページ目)現実のレズビアンに目を向けたGL作品を『作りたい女と食べたい女』編集者インタビュー - wezzy|ウェジー
https://web.archive.org/web/20221219142250/https://wezz-y.com/archives/93488/2

Wayback Machine

 一応PDFで保存しておきましたが、関係者によってどこかに転載されるとは考えづらく、『つくたべ』を語る際に使えるソースではなくなってしまうでしょう。

 上記インタビュー記事は、百合ジャンルはBLと比べて議論が進んでなくて後進だの、友情と恋愛に序列をつけたくないだの、ジャンルまるごとケンカを売るわ初めから出来もしないことを過大に宣言するわで、どうして公開したのか疑問しか浮かばない内容でした。

 まあ確かに「二人の関係を描くときには、性愛に頼らない恋愛描写をしよう」と言っていただけあって、第40話は恋愛感情が存在しない性交パンフレットだったように感じましたが。


 さて。おそらくは上記インタビュー記事公開のあたりから、百合というジャンルがいかにダサくて非当事者による女性同性愛者搾取であるか、語られる向きが強くなったように思います。

 もちろん、百合というジャンルに問題点が無いとは言いません。非当事者向けに描かれたエンタメ化されている差別描写など、反省を求められる箇所はいくつもあるでしょう。


ゆざきさかおみ:著
『 作りたい女と食べたい女 4』(2023年6月15日初版発行)
第36話「あんこと部屋探し」より

 しかしながら、そういった観点で言えば『つくたべ』はひどいなんてものではなく、上記引用箇所のように作中において性的マイノリティはひたすら哀れな存在とでしか描かれず、それを助けに入るのも何かしらのマイノリティに限定されるという社会的な閉じ込めっぷりです。


ゆざきさかおみ:著
『 作りたい女と食べたい女 3』(2022年11月15日初版発行)
あとがき より

 それでいて、「アライになろう」と訴えているのもよくわかりません。何せ作中においてマジョリティ性を強調された、セクマイに対するアライという存在が『つくたべ』という漫画には一切登場しません。(※「南雲世奈」も「クエスチョニング」という設定になっている。)これでは非当事者が都合のいいマイノリティを創りあげ、自分の上手く行かないことを遠目で観察しやすい属性に押し付けてエンタメ消費しているのではないかという批判に、反論のしようがないでしょう。


 『つくたべ』の出来に関してはさておき、確かに一時期「ゆるゆり基準にあらずんば百合にあらず」みたいなことがアニメファンの一部で言われていたのは確かです。百合は非当事者が非当事者好みの中高生女子同士をキャッキャさせてるだけみたいな偏見が一部で根強くあるのは、『ゆるゆり』がコンテンツとしてヒットした影響も大きいのではないかと思います。


森島明子:著 『楽園の条件』背表紙・帯付き
2008.1.1初版発行

 昔の百合姫コミックスである『楽園の条件』には、帯に「恋愛は、少女だけの特権じゃない。」と、社会人女性の百合漫画をそう紹介しており、確かに昔の百合漫画は学生の女子同士であるというイメージが強かったように思われます。

 ところが、「百合漫画=高校卒業前のおなご」というのは『つくたべ』が初めて公開された時には既に古い偏見と化しており、あくまで『やがて君になる』級のヒット作が生まれていなかっただけで、社会人百合漫画が描かれること自体はわざわざ目玉にするほどのものではなくなっていました。(ちなみに、『やがて君になる』にも社会人女性同士のカップルは一応登場する。)

 しかし、一部の人たちには百合を古い偏見でけなすことで「わかっている俺」を演出できるという認識なのか、上記の『つくたべ』編集者インタビュー記事公開後特に、いかに百合というジャンルが当事者不在でダメなのかが語られるようになりました。個人的には【『ゆるゆり』が好きなレズビアン女性】をけっこう見てきましたが、それでも『つくたべ』編集者に触発されたかのように、いかに百合が当事者のことを考えてないクソ界隈であるかをはっきりさせずにはいられない人が少なからず生まれてしまったように思います。


 そして、よくわからないのが、この作品も非当事者によるレズビアン消費だの差別的だの叩かれたことです。

 この『喪服のサイズが変わる前に』はレズビアン当事者としてエッセイ漫画を執筆してきた作者による、明らかに回顧まじりと思われる創作作品であり、当事者性が非常に強い漫画です。「百合は異性愛者男の女の子遊び!」と叩かれつつも、真逆ベクトルのこういった漫画まで叩かれるのはよくわかりません。こういったテーマはむしろ当事者がセルフケアのために描きがちなものです。「当事者不在!」と百合叩きしていた人はどこへ行ってしまわれたのでしょうか。

 また、『喪服のサイズが変わる前に』には「またこういう漫画か、もうたくさんだ」というコメントもつけられましたが、百合漫画全体ではこういった漫画を見つけるのは近年だとむしろかなりレアという現状であり、そういう人は未来の漫画を読んでいる2000年代以前の人なのではないでしょうか。

 そういう見方をするのであれば、『つくたべ』なんてひたすら少数の特定人物間で引きこもってばかりですし、「社会がマイノリティを理解することはありません! マイノリティに人並みの幸せはありません!」とでも唱えているかのような漫画です。何故『つくたべ』はポジティブ扱いされるのか、ただ単に百合という差別対象を持ちたいだけではないのか。そういう疑問が浮かんで離れません。


 確かに百合に対して蔑視発言を行ったところで、アメコミのように誰もツッコミません。しかし、見る人間が見たら、やっていることはアメコミへの不当な悪口と大差ないとすぐにわかりますよ…。





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