見出し画像

その時間の流れに飛び込むために

昼下がりのコーヒーショップ。
一人客が多く、テーブルごとに思い思いの時間が流れている。

人に流れている時間というのは、ひとりひとり違うんじゃないか。
飛ぶように流れていたり、ぽっかり穴が空いたように消えていったり、大河の淀みのようであったり。

どれが良いとか悪いとかではなく、それぞれ異なった時間を生きていながら、流れのタイミングが合って気持ちがガッチリとはまり込んだり、あるいはすれ違ったりする不思議。
波長が合う、合わないも、そのあたりからくるのだろうか。

隣のテーブルの老夫婦は、同じサイズのマグカップでコーヒーを飲んでいる。ランチ後のデザートなのか、白いお皿が1枚。
ひとつのスコーンかケーキを分け合ったか、それともどちらかが甘いものを食べたがり、もう一人は「ぼく(わたし)はいらない」と言ったのか、私が席についたときにはお皿は空になっていた。

時々、奥さんが口を開き、ダンナさんが低い声で短く答える。そしてまた、二人の間に静かな時間が流れる。そこだけ風のない小春日和のよう。
沈黙の気まずさも、静寂を嫌って埋めるおしゃべりもない。

ひとりが視線を窓の外にやると、導かれるみたいにもうひとりも視線を動かす。
奥さんが口を開き、曇り空の下に干してきた洗濯物を気にしている。
行くか、とダンナさんがトレーを持ち上げ、立ち上がった。奥さんが帽子をかぶる。
眠っていた猫が伸びをして、のっそり歩き出すみたいに、二人の時間が動き出した。

自分たちの時間の流れを生きている二人。

時間を捻出しようとせかせかしたり、効率よく動くために時間を支配する術を身につけるのは、しっくりこない。
でも流れに身を委ねる生き方、私にはまだできそうにない。

家では他のことに気を取られてしまうので、落ち着いて本を読む時間を確保するために、コーヒー1杯分のお金を払い、私はここで過ごす。
そこには心をほどくために、頬をなでる風くらいの力で、時間が流れている。その流れに飛び込むために。

空いた隣のテーブルに次の二人組。
コーラスサークル帰りらしい女性客。
陽気に、歌うように、リズムよく時間が流れ始めた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?