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血迷った月、映写機の光


 小さい事を気にしてる。そんで何かを見逃してる。君が何かを言っている。大切な事が聞こえずにいる。小さい事を気にしてる。そんで世界が遠くなる。眼前眼窩の世界でただ君の匂いを探すことと

 ガリバタチキンに野菜味噌、タジン鍋からミートスパ。きんぴら丼、千切りシーチキンキャベツ

 バラスチマスミセ

 缶コーヒーはコーヒーとして認識するにはあまりにも糖分摂取の欲望で心に馳せ参じるので、カフェインと糖分を切り離して考えれない、日陰と日向の間で

 何がなんでも離ればなれにならないために、

 そういえばさ、お家大好き人間のお家には何があるんだろう。

 ああ、年貢の納め時かな。真っ当な生き方…たわけたこと言ってんなぁ。

 愛以外のことを書けなくなったなら、心ってのは鳴り止んでるのかもしれない。そして心の鳴り止んだ人間に訪れるのはおまんことおちんぽの月並みの比較だけ。

 オタクフォーエバー。これは感覚と思考の繋ぎ目が断絶してしまった時の合言葉。ジャンプカットは社会性に欠けるがそこでしか展開できないシンパシーコミュニケーションがある。何か匂いを嗅いで眼前にいつかみた風景が現れるのはジャンプカットぽい思考の初潮だ。その連鎖を他者と感覚を合わせながらキャッチボールしてくのがオタクフォーエバーなコミュニケーションだ。が、そこにはロジックがない。無論そこにはなんらかのロジカルで高度な思考があるとも言えるが、そこにロジックを見出すのは統失の仕事だ。そして統失は嘘を本当にすることが仕事なので結局そこにはロジックではなく感覚があるだけだ。感覚の共鳴や空間のスパークは食い尽くし埋め尽くすより人間はそうゆう生き物だと匙を投げるくらいがいい。繰り返すならば、統失の作るロジックには穴がない。「そんな気がした」時点でもう穴は見えなくなってしまうからだ。「そんな気がする」人間はいつまでも「そんな気がする」わけである。「そんな気がする」は言うまでもなく感覚である。「そんな気がする」は多数決によって負ける。しかし誰ひとりとしてそんな気がするからは逃れられない。そして僕は老いて死んでいく。

 なぁ!なぁ!?なぁ!

 今日という日が淡々と過ぎていく。僕はそれを書き記すことができない。過ぎ去っていく速さの中で僕は僕を捉えられないからだ。僕は僕の矛盾を直視することができない。人格のストックがない。僕が人を呪う時、「呪ってやる」とは思わないだろう。何かを思うストックがない。全ては急に襲い、急に凪いでいく。人格が切り替わったことを把握する人格が無い。第三者視点の人格はきっと撃ち殺されたか、一人称に落っこちた。幸せを求める気持ちに怠惰と名付けた。幸せを振り払う気持ちには焦りがこびりついている。そして僕はそれを繰り返す。こればかりは経験則で学ぶことはできない。時は進むからだ。時を重んじれば詩は散文する。ただ前に進む気持ちは全てを都合よく解釈する。どうでもいいことしか見つけられなくなった心は労働を嗜んだ。主人公が狂っていても作者は狂っていなかった。心のバランスを保っている。それはかっこよくないがかっこよくしたければ狂人になるしかなかった。狂人になるくらいならかっこよくない方がよかった。死ぬべき時に生きていこうと決めた瞬間、狂人はやむ。狂人にしかできない唯一のことは心を飛び越えることだろう。それ以外のことは相対的な差異でしかない。おれが相対性を前に崩れ落ちるのなら、コミュニケーションは目的にならない。相対性を前にまだ立つのならそれは愛でありコミュニケーション、いや、愛やコミュニケーションの根源が寂しさでもなんでもおれには関係ないことなんだ。なぜならギャングスターだからなぁ。は?おれは一般的な24歳だ。そう誇り高き24歳だ。いや、誇りも一般的である。この一般的というのは完全にブラックボックスであり、思い込みなのだが、自分の一般的が一般的であるという疑わない心。それが一般的への第一歩なのだ。そして社会的物差しを疑う心。それが狂人である。狂人しか超人になれぬかもしれぬ。そして寛容は適度な関心と優しさ程度の無関心と何もバラさぬ心でおあがりよ。
相対性を語りたいのはようわな、人と比べて劣ったり悔しかったり優越感に浸ったり腹割って話しても帰ったらなんか恨んだり、辛かったり、でもまた会ったら笑ってしまったり、たのしかったりまあいっかってなったり、勝てないのが嫌やったり、それでもおれは笑う。勝ちたいだけじゃない、相対性の中にある愛を観測したい。やったやられた。被害者も加害者もぶち当たってる互いを本当に克服したければ同じだけの痛みを避けることはできない。それからも逃げるなら、俺の目が男として認識しない。相対性の渦で自分でありたい。

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