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加賀水引

水引は、長野県「飯田水引」愛媛県「伊予水引」石川県「加賀水引」福岡県「博多水引」京都府「京水引」などが有名です。
水引ゆかりの地を旅する事が私の夢です。


銀座の金沢


まだ訪れたことのない石川県ですが都内のキラリトギンザにある銀座の金沢にお邪魔して、加賀水引を堪能して来ました。


「加賀水引2021春展」vol.5
〜津田水引折型の雅な水引細工と折型の展示会〜
今回は加賀水引の歴史も学ぶことが出来て収穫の多い一日となりました。

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加賀水引の創始者は「津田左右吉」という金沢で生まれた趣味人でした。
物を心を込めて包み渡す600年以上の歴史を持つ日本の由緒正しき礼法の1つである小笠原流の水引折型を学び結納業を始めたそうです。

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折型

古文書には鎌倉時代に折型の原型が誕生し室町時代の三代将軍足利義満が武家独自の礼法としてこれを明確に制定したそうです。指南役の伊勢家には主に内の礼法(殿中の礼法)小笠原家には主に外の礼法(主に弓馬法)を任せ大名旗本などに限って家伝(口頭伝承)と共に雛形を使い秘伝伝承したという歴史があります。その後時代は流れ江戸時代には庶民にも普及し大正時代初めまでは一般教養の必須項目として学校で習われていたが戦後敗戦と共に教科書から消えました。

無茶苦茶流

小笠原流の折型のきわめて難しい手仕事に挑み続けた先に津田左右吉が見出した発想が加賀水引の源。ふっくらとしたまま折り目をつけず、それを立体的な水引で結ぶという逆転の発想。雅やかで細やかで麗しくて愛らしい芸術は加賀百万石と言われる土地にまさしく当てはまったと感じます。

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津田左右吉の編み出した技を「その流儀は何ですか?」と訊ねられた時「無茶苦茶流と申し候」と楽しそうに語ったそうです。
また左右吉は「十日坊」というあだ名があったそうです。どうやら茶人であり書画をたしなむ趣味人は仕事や旅で飛び歩き月に10日ほどしか家に居なかったからだとか。

津田水引

津田左右吉が創案した加賀水引は水引折型の基本「包む」「結ぶ」「書く」を「立体的な和紙の折型」「高度な立体水引結び」「美しい書」が交わったものと位置付けています。

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左右吉の長男も父譲りで絵を描くことが得意だったそうで左右吉が考案した立体的な水引細工をデザイン画に残したそうです。

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長男は若くして結核で亡くなってしまい2代目は長女の津田梅が継ぎ全国へと広まって行きました。現在では4代目の津田宏・さゆみご夫妻と5代目の津田六佑氏が独自の伝統を継承されています。今回銀座の金沢で展示会に在廊されていた5代目の六佑氏からご自身の名前が5代目になるのに六佑というのは、「若くして亡くなった左右吉の長男がデザイン画を後世に残した功績を考えると自分は6代目ともいえるのでは・・」と仰っておられました。なるほど、、そうかもしれませんね。

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角樽飾り

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酒屋でもあるfeuilleは展示されていた角樽のすばらしさに目を奪われました。この角樽は柳樽と言い、結納品には欠かせないものです。今は酒肴料として現金を包む場合が多くなっていますが、本来は柳の木でできた酒樽で「家内喜多留」(ヤナギタル)と漢字を当てて1升(イッショウ)のお酒が入っていたそうです。(一生家の中に喜びが多く留まる)という意味が込められています。
また開店祝いや会社設立のお祝いの場合はお酒の量が半升(ハンショウ)入れるそうです。(商売繁盛)の意味に当たります。
この角樽飾り、津田水引さんではおしなべて1日1つは注文が入るとか。弊社のある東京では驚きの需要です。さすが金沢ですね。金沢で酒屋を営む水引のお仲間さんによると、酒販組合で水引細工が発注できるそうです。これもまた東京では驚きでした。

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時代の流れと共に水引細工の需要も変化しています。
贈る相手を想い気持ちを込めて包む文化を忘れず絶やすことなく今の時代に合わせて後世に伝えていきたいと思いながらfeuilleは水引を結んでいきます。





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