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ダメなものはダメだからこそ自分には縁遠いはずだし差別だってきっとそう(だったはずなのに)――『差別はたいてい悪意のない人がする』書評(ケイン樹里安)

ケイン樹里安(けいん・じゅりあん)社会学者、大阪市立大学都市文化研究センター研究員。専門は社会学/文化研究。「ハーフ」や外国にもルーツをもつ人々の日常と日本社会のレイシズム、都市文化よさこい踊りの身体実践について研究。WEBメディア HAFU TALK(ハーフトーク)共同代表。著作に『ふれる社会学』(共編著,北樹出版,2019)など。


ダメなものはダメだからこそ自分には縁遠いはずだし差別だってきっとそう。
いや、そうだったはずなのに。実際にはそんなことはまるでなくて、いつだって自分は誰か差別してしまいかねない。なぜなら、ここが「当たり前に差別しあう仕組みがある社会」だからだ。しんどいことや楽しいことに懸命に生きているだけで、誰でも差別してしまう可能性をもってしまうなんて、考えてみれば、ひどい話だ。しかも、それは仕組みとしてこの社会に深々と埋め込まれているから、個人がどれだけ清く・正しく・美しく・優しく・懸命に・素敵に・善良に生きていようが、そうでなかろうが、いとも簡単に人は差別されてしまうし、差別させられてしまうのである。
この厄介な社会を「差別しなくてすむ社会」に変えていくための手がかりに満ちているのが、本書『差別はたいてい悪意のない人がする』(キム・ジヘ著)である。元々のタイトルは「善良な差別主義者」だという。善良という言葉が原題に使われていたと知ったときにハッとしたことがある。
本書の存在をまだ知らなかった頃から、自分も差別の問題を語るとき、微力ながら、マジョリティの特権と共に議論をするように心がけてきた。手短に要約すると、差別や社会問題について考えることは、差別や社会問題を「知らず・傷つかず・気にせずにすむ特権」をもったマジョリティのありかたについて考えることである、といった感じである。 

このような指摘をすると、(本書の言葉を借りていえば)「マジョリティ差別論」的な応答がなされることが非常に多かった。たとえば「善良なはずの多くの人々を悪魔化している」「マジョリティ差別だ」といったように。
こうした否定的なリアクションは、自分の文章や論理の拙さに起因していると思っていたのだが(もちろんそれも否めないのだが)、マジョリティの特権性を指摘するほかの書き手たちにも、同様のリアクションが暴風雨のように押し寄せるのをたびたび目撃しているうちに、「もしかして、特権を『発見』されてしまったマジョリティが動揺しているからこそのリアクションなのではないか」と気づかされていった。
たとえば、人種差別主義によるマイノリティの被害を否認し、矮小化し、後景化しながら、「しんどい」と声をあげた人々の口を塞ごうとする「否認するレイシズム」のように、否認という形態をとることがある。さらに、ロビン・ディアンジェロが『ホワイト・フラジリティ』(明石書店)で見出したような、差別を指摘された「白人」の「心の脆さ」が露呈する際のリアクション――早口の抗弁・沈黙・話題からの逃避・泣く――と似通っていることもあった。


マジョリティだってそれなりの苦しみを抱えているはずだ」といった、手の込んだリアクションもある。だが、こうした批判点は多くの場合、マジョリティ特権を指摘する多くの書き手たちが、すでに元々の文章で言及済みの論点であることも多い。
だが、読めないのだ。というよりも、読み飛ばさざるをえないのだ。書いてあることをわざわざ読み飛ばしてまでも、手放せないものこそが「自分を含むマジョリティはたいてい善良である」という信念、いや、思い込みなのである。むしろ、「マジョリティは善良であるはずだと思い込んでいたい欲望」と言ってもいいかもしれない。
もちろん、これはある意味で、素朴な欲望だ。誰だって善良でないと思われるよりは善良だと言われたいし、そうありたい。差別主義者だなんて、まっぴらごめんというわけだ。差別主義者に憧れる人は多くはないだろう。だからこそ、突然「マジョリティの特権をしれっと使っていませんか?」と指摘されたときに、怒りをもって反応してしまうのだろう。

そして、このマジョリティの特権的な立ち位置からたびたび発せられる「怒り」の根源にある「善良さ」を解剖する手つきこそが、本書の最大の魅力なのである。
特に、「善良」な人々の「逆差別」のロジックを「マジョリティ差別論」として整理した上で、具体的なケースから「傾いた公正さ」の問題として捉え返す、あざやかな議論の運びにすっかり魅了されてしまった。
それだけではなく、構造的差別、間接差別、インターセクショナリティ(交差性)といった、「なんとなく知っているようで実は腑に落ちていない、差別を考えるうえで重要な言葉」をわかりやすい具体例から解説してくれるのも、本書のストロング・ポイントだと思う。
差別を語るときに「わかりやすい話」にしてしまうと大体「失敗」することが多いのだが、本書はその「失敗」こそを取り扱うべきケースとして的確に示し、どう考えたらよいのかを教えてくれる、というより、一緒になって考えようと誘ってくれる稀有な本だ。

「わかりやい入門書」はしばしば、「売れ線を狙って物事を単純化している」という批判を呼ぶことが多い。実際、そうした入門書はごまんとある。だが、「売れ線を狙って物事を単純化している」と批判する人々が提示する、「専門家のみを読者に想定した、素晴らしく難解で複雑な議論」が、困難に直面したマイノリティにとってはなはだ使い勝手の悪いものであることも、残念ながら少なくはない。だからこそ、本書のような的確さと使い勝手の良さを両立させた本が求められているのだ。
差別の構造を把握するための視点を的確に提示しながら、「善良」でありたい人々……いや、「もう差別をしたくない」と思っている人々にとって使い勝手の良い、きちんとした本。こんな本がこれから次々に登場し、人々の参照点や批判点になりながら、少しずつ「差別をせずにすむ社会」に向かって互いに協働しながら前進するような、そんな近未来に期待したい。

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