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ハートランドの遙かなる日々  第23話 父と子と聖霊と

臨時診療

 修道院への帰り道、クヌフウタが大事そうに抱えていたボウルを、ペルシタが「持ちます」と言って受け取って、医療鞄と一緒に脇に抱えた。ペルシタはクヌフウタの付き人であり、かつ医療の助手であり、修道生活を共にする相棒でもあった。
「あのお母さん、しっかりお医者さんへ行くかしら?」
 アフラはさっきのリリアの態度に疑問を覚えて言った。クヌフウタは真っ直ぐ前を見て歩きつつ言った。
「たぶん行かないでしょうね。と言うよりも行けないのです。ホスピタル騎士団に所属する医師は貴族しか診ないことも多いですから。庶民が診てもらううには貴族から紹介してもらうお金がさらに必要です」
「そんな。じゃあトビーの怪我がしっかり治らないんじゃあ?」
「そうですね。このまま放ってはおけませんね。本来お金の事は手を出せないのですが、一つ考えがあります」
 クヌフウタは修道院の前の広場まで歩いて来て、立ち止まった。
 見渡せば、杖を突いて歩いている人や、咳き込んでいる人がいた。
「ペルシタさん。これから教会の前を借りて診療をしましょう。医者に困っている人は他にもいるでしょう。寄付も募れることですし」
 ペルシタはそれで全て判ったというように、「はい」と頷き、大きな声で言った。
「臨時診療を致しまーす! 病や怪我の方はいらっしゃいませんか?」
 ペルシタは持っていた木のボウルの底を叩き、乾いた音を響かせながら声を上げ続けた。
 その声は言い慣れているようで、物怖じも無く、良く通った。
「病や怪我にいい薬がありまーす! そこの方如何ですか?」
 周囲の人は何が始まったかと思い、それを遠巻きにして見ていたが、ペルシタのその格好が汚いせいもあってなかなか寄って来なかった。
 礼拝堂からは何の騒ぎかと、修道女が出て来て言った。
「あなた達、修道院の前で一体何を始める気ですか?」
 クヌフウタがそれに答えて言った。
「私、医療の心得がありまして、無料診療をさせていただきたいと存じます。お邪魔でしょうか?」
「それは結構な事です」
「軒先をお貸し頂いてもよろしいでしょうか? それに、少々ご寄付を募らせて頂いても?」
「はい。フランチェスコの方ですもの。ご協力致しましょう。ここでは通行の邪魔になりますから、向こうの建物の玄関先を使って下さい」
 そう言って修道女は集まっている人々に言った。
「フランチェスコ派の方がいらっしゃっています! 皆さん、無料の診療だそうですからどうぞー!」
 見知った修道女がそう言うと、遠巻きにして見ていた人々が集まり出した。
「女性のフランチェスコは初めて見た」
「私、どうも膝が痛くてね」
「いやあ、風邪が治らないんだ」
「皆さんこんにちは。基本的には無料ですが、お気持ちだけご寄付をお願い致します。では、向こうへ参りましょうか」
 クヌフウタはそう言って向かいの建物の玄関先を陣取り、診察を始めた。
 するとすぐに噂が広まって、人々が集まり、いつの間にか行列が出来上がった。
「すごい……」
 それを見ていたシュッペル家の兄弟達は、その人の集まりの早さに呆気に取られたまま立ち尽くしていた。
「診療の方はこちらに並んで下さーい! あなた達! 見てるなら、集落の方々にも伝えて来てくれないかしら?」
 ペルシタにそう言われ、エルハルトが頷いた。
「そうですね。行こう!」
 エルハルトに連れられ、アルノルトとマリウスは集落の方へ歩いて行くが、アフラは何か逡巡して言った。
「先に行ってて」
 エルハルトは手を上げた。
「判った」
 アフラがクヌフウタの近くへ行き、小さな声で話しかけた。
「ゴメンなさい。先生の講義が聞けなくなってしまって……」
「実は講義は微かに聞こえていたのよ。煙突で繋がっていたから。それに私はこの短い時間しか診療が出来ないと気が付きました。こちらの方が大事な事だと、そう気付かせてくれたのはあなたです。むしろ感謝します」
「私も何かお手伝い出来ますか?」
「あなたこそ講義に行って来た方がいいのではなくて?」
「私も隣の窓から聞いていたんです。それに、ここの方が大事な気がして来ました」
「では、一つお願いしたい事があります。木のボウルを持って、寄付を募って貰えますか? 私達はお金に関わる事は禁じられているのです」
「承知ですとも」
 アフラは足下に置いてあったボウルを抱え、クヌフウタの隣で診療を終えた人に寄付を呼び掛けた。少額ではあるが寄付が溜まっていった。
 集落へ出て行ったエルハルトとアルノルト、そしてマリウスは、通りを歩き回って診療が始まった事を大声で伝えて歩いた。
 アルノルトが少し路地を曲がると、庭先に座って日向ぼっこをしている老婆がいた。
「今、教会で無料診療中でーす!」
 そう聞いて老婆は家から出て来て、乳母車を押しつつ、かなり辿々しい足取りで歩き出した。そしてすぐ道の途中で疲れて立ち止まってしまった。思わずアルノルトは手を貸した。
「どこかお悪いんですか?」
「あたしゃ心の臓が悪くてね。もう持病さ」
「それは大変ですね。でも、そんな重病治せるかな?」
「病人が不安になる事を言うもんじゃないよ」
「すいません……」
 老婆は少し歩き出すが、しばらく歩くと息も苦しそうに休憩をしてしまった。
「大丈夫かい? じゃあ、これに乗れる?」
 アルノルトは老婆を乳母車に乗せ、その車を押して通りを歩いた。そしてだんだん早足になって、道がいいとほぼ駆け足になった。そこから道はほぼ真っ直ぐ、着くまではあっと言う間だった。老婆には別の意味で心臓に悪かったかもしれない。
 修道院の広場まで行ってみると、かなりの行列が出来ていた。
「お婆さん、少し待つけど、ここに並んで待って下さいね」
「ああ、ありがとよ」
 老婆を列まで案内すると、アルノルトは行列の先へと歩いて行った。診察の様子を覗いてみると、その端にはアフラがいて、ボウルを持って立っている。アルノルトはアフラに言った。
「アフラはそこでぼーっとボウル持って何してるんだ?」
「ひどい! これでも寄付を募るっていう大事なお仕事なの!」
「そうか。じゃあ……」
 アルノルトはポケットから少し余ったコインを出して、ボウルに入れた。
「あんまり無いんじゃ格好が付かないし」
「ありがとう! なんだかとてもいい人!」
「お世辞はいいから。まあ他の人にはその調子で頑張れ」
「うん。あ、終わりました? こちらへご寄付をお願いします」
 診療が終わった人がアフラの所へ来て、ほんの少しだが寄付金を入れてくれた。
「え? これだけ? お薬もいただいてたのに?」
「しっかりしてるなー嬢ちゃん。仕方ない」
 その人は寄付金を足して入れてくれた。アフラは会心の笑みで言った。
「ありがとうございまーす」
「同じ症状の方」とクヌフウタが聞きつつ一遍に薬草を処方するような方法もあって、診療はかなりペースが早い。薬もどこでも採れて風邪や炎症の万能薬とも言えるカレンデュラの花を渡すだけの事もしばしばだ。それでも多くの場合、薬草の見本をしっかり見せてくれるので、その人はその形を覚えて次は自分で採って来る事が出来た。トエス修道院の修道女はそれがとても勉強になるので、ずっと隣に付き添って見ていた。そうした見物人が幾人も周囲にいて、アルノルトもいつしかそこに加わっていた。
 しばらくすると心臓病の老婆に順番が回って来た。
 クヌフウタは手首の脈を取り、「あまり良くないようですね」と呟いた。
「最近一度胸が痛くなって、倒れてねえ」
「そうですか! それはいけませんね。手足が冷たいでしょう」
「ええ、そうね。冷たいわ」
 クヌフウタはその手を擦りつつ、ペルシタに足のマッサージを頼んだ。
 ペルシタは老婆の靴を脱がせて冷たい足をマッサージした。
「ありがとう。ああ、気持ちがいいね。ここの所調子が悪くてねえ。治るかねえ」
「いいお薬がありますよ。一手間かかりますが」
 クヌフウタは薬草の標本を入れた瓶から見本を取り出した。
「このホーソンが薬になります。この辺りならたくさん生えてるでしょう?」
 クヌフウタはセイヨウサンザシの赤い実を老婆に渡した。
「ああ、これなら庭の生け垣に生えてるよ」
「この実をこのまま一つ食べてもいいのですが、効き目はもう少しです。家にワインと蜂蜜はありますか?」
「ああ、もちろん」
「薬の作り方は、この実を少しつぶしてワインと蜂蜜に一週間漬け込んで、飲む前に一度火を通すんです。それを毎日グラスに半分くらい飲んで下さい。それを続ける事で効果が出て来ます」
「ワインは好きだし、それなら続けられそうだ。飲み過ぎちゃうかねえ」
 クヌフウタは加えて瓶からパセリを取り出した。
「このパセリもあると尚いいです。細かく切って加えて下さい。ホーソンは今の時期はまだ実が生りませんから、花や葉を漬け込んでもいいんです。乾燥させて、お茶にして飲んでもいいですね」
「それはお金が掛からなくて嬉しいねえ。でも、お医者さんは商売あがったりだねえ。倒れた時は薬を出しただけでもホスピタル騎士団に一財産持って行かれたもんだが。本当にお金を取らないのかい?」
「ええ。薬草は自然の中に神様が用意しておいてくれたものです。儲けるためのものではありません。それにホーソンは聖なる木です。春の女神の木とも言われてメイポールに飾られますし、イエスが十字架に掛けられた時、頭に被っていた茨がこの木だと言われています。その時付いたイエスの血のために赤くなり、心臓を護ってくれるという伝説もあるのだそうです」
「有難いねえ。有難いこと」
 ペルシタがマッサージを終えて靴を元通りにすると、老婆はしきりに「有難い有難い」と言いながら、ゆっくりと歩き出し、アフラの出したボウルに貨幣がたくさん入った皮袋を袋ごと入れて歩いて行った。
「えっ? こんなに? ありがとう!」
 アフラは思わずお礼を言った。
 それを見ていたアルノルトは、老婆の手を取り、帰りの道も乳母車に乗せて送って行った。
 老婆の家に着き、庭の生け垣を見ると、少ないが所々に白い花が咲いている。
「これだね、お薬は。もう咲き終わりだが、毎年可愛い花を咲かせてくれるよ」
 老婆は花の付いた枝を折って、乳母車に乗せて行った。
「一つ貰ってもいいかい?」
「ああ、いいよ。お礼にいくらでも持って行くといい」
 アルノルトは植木から花の付いた枝を一本だけ折った。
「誰にあげるんだい?」
「それはもちろん、クヌフウタさんだよ」
「そりゃあいい。じゃあこれも持って行って」
 老婆は自分が乳母車に取り置いた花をアルノルトに手渡した。
「でもこれは……」
「まだ裏にもあるし、いくらでも咲いて来るわ。お役に立たせておくれ」
「ありがとう。じゃあ、クヌフウタさんに届けます。お大事に」
 アルノルトはホーソンの花束を抱えて、そこを立ち去った。
 アルノルトが路地から通りに戻って歩いていると、後からエルハルトとマリウスが追って来た。
「何処行ってた。探したぞ。そんな花なんか持って!」
「女の子みたいに花なんか持ってー!」
 マリウスは前にそう言われたのを言い返したようだ。
「少し体の悪いお婆さんがいてね。送ってたんだ。今戻って来て、これ貰った」
「そうか。花なんて貰ってもなあ」
「ただの花じゃないよ。これ、心臓の薬になるんだって」
「へえー。高く売れそうだ」
 アルノルトはクヌフウタの口調を真似て言った。
「薬草は誰かが儲けるためにあるんじゃなく、自然の中に神が用意しておいてくれたものなんです……って」
「誰だそれ?」
「クヌフウタさんがそう言ってたよ。これはクヌフウタさんにあげるんだ」
「クヌフウタさんに? オレに渡させてくれ……」
「あれ? 兄さん、クヌフウタさんに渡してどうするつもり? 怪しいなあ」
「いいから!」
 エルハルトはアルノルトから、少し強引に花を受け取った。
「痛っ」
 花をしっかりと抱え込んだ手にトゲが深く刺さって、エルハルトは花を落としてしまった。
「茨の一種だから気を付けてね」
「先に言ってくれ……」
 そう言いながらエルハルトは今度は慎重に花を拾った。マリウスとアルノルトもそれを手伝った。
 そして、修道院前の広場に戻って来ると、その頃には患者の列も少なくなっていた。
 その人々の診療も見ている間に終わり、クヌフウタは大きく息を吐く。
「お疲れ様です。これをどうぞ」
 エルハルトはそう言って、クヌフウタに持っていた花を渡した。
「まあ!」
 クヌフウタが薬草を見る時にはいつも異様に目が輝いた。エルハルトはそれが見たかったのだ。そしてその輝く笑顔はエルハルトにも向けられる。
「これは! ホーソンの花ね」
 しかし、花の名を聞いていなかったエルハルトは慌ててアルノルトを見た。
 すかさず、アルノルトは言った。
「はい。さっきのお婆さんの所で貰って来たんです。役立たせて下さいって」
「まあ! 有難いこと」
 クヌフウタはそう言って、標本の瓶の中に一つの花を入れた。他は棘を折りつつ布にくるんで持った。
 そしてクヌフウタは立ち上がって、「さあ! 行きましょうか」と言った。
「どちらへ?」とペルシタは首を傾げた。
「さっきの家です。名前は何といったかしら? リリアさん!」
 そんなクヌフウタにアフラは全て判ったというように「トビーの家ですね!」と頷き合って、木のボウルを手に抱えたまま歩いて行った。
 アルノルトは迷った。
「僕らはどうすれば……」
「待ってよう。さっきみたいにお母さんを驚かしちゃいけない」
 そう言うエルハルトに、アルノルトは頷いたが、その隣をマリウスはトコトコと歩いてアフラを追って行った。
「マリウスは聞いてないし。まあいいか……」
 
 トビーの家に行ったのはアフラとマリウス、そしてクヌフウタとペルシタの四人だった。ドアをノックする音で出て来たのはエルズだった。
「こんにちは。お母さんはいますか?」
「うん。おかあさーん」
 呼ばれて出て来たリリアは、今度はあまり驚かなくて済んだが、それでも少し驚いていた。
「あなた達! どうしてまた?」
 クヌフウタは小さく礼を取って言った。
「借りたボウルを返しに来ました」
「ああ。そうでしたね」
 クヌフウタが振り向きつつ道を空けると、そこへアフラが進み出て、木のボウルを差し出した。そこにはさっき寄付して貰ったお金が入っている。
「まあ! こんなに寄付が集まったんですね! 少しはお役に立てましたかしら?」
 驚くリリアにクヌフウタが言った。
「私達はお金に触れる事を禁じられています。ですのでこのままどうぞお受け取り下さい」
「まさか! 修道女の方からそれをいただくわけには!」
「手を触れないまま貴女のこのボウルに集まったので、私からという事でも御座いません。寄付はこの子が呼び掛けたものです」
 アフラはニッコリ笑って、さらに進んで言った。
「このままどうぞ」
「そんなにしていただくわけには……あなた方の方でお使いになって」
 そう行ってリリアは受け取ろうとしない。アフラは方向を変え、ボウルをエルズに渡した。
「これでトビーの怪我を治してあげて。私達からのお願いです」
「うん」とエルズは頷いた。
「なんて有難いこと……でも……」
 リリアは溢れる涙をこらえつつ膝を折り、その場に座り込んだ。そしてアフラを見て言った。
「でも……私もベギン会ですから、ベギン会に多くを預けさせていただく事になりますが、いいですか?」
「ベギン会って何ですか?」
 リリアが言った。
「ベギン会というのは、結婚した人でも修道的な生活が出来るような集まりの事です。夫が十字軍に行ったり、先立たれたりした人の為にあったんですが、今ではこの辺りの人は普通に入って、糸紡ぎなどの手仕事をする生活互助組合になっています。手仕事の利益もそうですが、戴いた金品は分け合う決まりになっているの」
「トビーがお医者様にちゃんと行けるなら、それでも大丈夫です。これで足りるかも私には判りませんし」
「ありがとう。ベギン会に話をして、医者には必ず連れて行きます。誠にありがとうございます」
 リリアは深々と礼を言った。クヌフウタにもそう礼を言ってから、リリアは聞いた。
「すっかり遅くなりましたが、どちらの方でしょうか?」
「私はボヘミアの聖アネシュカ修道院から来ました、クヌフウタです。こちらは同じくペルシタさんです」
「ウーリのアフラ・シュッペルです。こっちは弟のマリウス」
「マリウスです」
「ウーリの? じゃあサビーネさんをご存知?」
「ええ。私のお婆ちゃんです」
「まあ奇遇だわ。サビーネさんのお孫さんだなんて!」
「お婆ちゃんを知ってるんですか!」
「ええ。ベギン会ではよくお世話になって。宜しく言っておいて下さいね」
 サビーネは夫に先立たれているので、ベギン会に入っていてもおかしくない。しかし、サビーネの顔の広さには驚かざるを得なかった。


父と子と聖霊と

 家から外へ出ると、空はもう茜色が掛かって、畑に囲まれた背の低い家々を仄赤く照らし出していた。
 そんな風景を見ながらクヌフウタが言った。
「すっかり日が傾いてしまいましたね」
 アフラが言った。
「特別講義はもう終わってるでしょうか?」
「とっくに終わってるでしょうね。皆さんをお待たせしていないか心配です」
「ユッテさんやエリーゼ様を待たせていたら大変!」
 急に気が焦りだし、一同は戻る足を速めた。今ばかりは美しい夕日が赤くなって行くのも口惜しい気がした。そして駆け込むように修道院の門を潜った。礼拝堂の入り口前にはエルハルトとアルノルトが待っていた。
「ああ、戻ったかアフラ」
「アル兄さん」
「エリーゼ様達はもう礼拝堂に移動したよ」
 そして一同は一緒に礼拝堂に入って行った。
 礼拝堂の中では、壇の下にいるエックハルトを修道女達とエリーザベトが囲み、礼拝後の語らいが続いていた。ユッテとイサベラ、そしてルーディックは少し後の方で専ら私語に勤しんでいるようだった。
「やあ、遅かったね」
「やっと戻ったわね」
 ルーディックとユッテが小声でそう言って迎えてくれた。
「大変お待たせ致しました」
 クヌフウタは一礼をして中へ入った。アフラ達もそれに習って小さく礼をした。するとエリーザベトが席を空けて少し奥の方へ座り直した。
 その空いた席をエックハルトが勧めつつ言った。
「お待ちしていましたよ。あなたは……」
「クヌフウタと申します」
「クヌフウタさん。どうぞこちらへ。窓から落ちた少年の怪我は如何でしたか?」
 クヌフウタとペルシタは示された席に座った。
 アフラはユッテの隣の席に座り、エルハルトとアルノルトは後方の席に座った。マリウスは迷ったあげくアルノルトの後ろに座った。
「怪我をしたトビーという子は足の打撲と手の骨折をしていました。手の指はいつも動く所なので、完治するまでは大変かもしれません」
 クヌフウタはそう言って心配そうな顔をする。
「そうですか。それは心配ですね」
「私のせいです」と、そこにいた修道女の一人が悲痛な顔をして言った。それはさっき表にいた修道女だ。
「その子が外から窓を引っ掻いてたので、窓を開けたら、驚いて窓から落ちたんです。後ほど謝罪に伺います……」
 他の修道女は「先に懺悔かしら」と慰めにもならない事を言った。
 エックハルトはさらに言った。
「その後あなたは村人の診療をしていたとか」
「ええ。少しの間でしたが、この前で診療をさせていただきました。周辺は高額な医者しかいないようでしたので。そこの方に場所を貸して貰い、呼び掛けていただいて、大変助かりました」
「いえ…‥」
 泣きそうだった修道女は少し笑顔を取り戻した。
「その若さで医療の心得があると?」
「はい。私のいます聖アネシュカ修道院は、無料の施療院を開いています。私はそこで毎日診療のお手伝いをして過ごしましたので、自然に身についたのです」
「素晴らしい。私は神の教説を述べる事は出来ても、実際に病める人を治し、命を助けるような事は出来ません。この間にそれらの事をしていたとは、敬服に値します」
「いえ、そんな。出来る事をしたまでです」
 トエス修道院のさっきの修道女が言った。
「薬草に身近なものが多くてとても興味深かったです。私達もそうした事が出来るといいのですが……」
 クヌフウタはその修道女に言った。
「学ぶ気持ちがおありでしたらお教えします。ただ、総合的に見た診療が出来るまでにはどうしても時間が掛かりますので、三年は見ていただかないといけませんが」
「三年…‥ですか」
 修道女は三年と聞いて、苦い顔をして周囲を見回した。
「ただ、多くは風邪や切り傷ですので、その処置くらいはすぐ出来るようになるのではないでしょうか」
「是非、教えて下さい!」
「ええ。喜んで。それなら三日もあれば……」
「し、しばらく外出許可を戴きます……」
 こうして修道女一人のしばらくの弟子入りが決まった。その修道女はローラと言った。
 アフラが手を上げて言った。
「先生。質問があります」
 エックハルトはアフラへ手を向けた。
「君もさっき戻って来た所だね。どうぞ」
 しかし、アフラは何故か言葉が続かない。
「私ぃ、あのー、私ですねー?」
「うん? 何なりとも」
 ユッテが小声で横から急かして言った。
「どうしたの。アフラ?」
 アフラは顔を赤くして言った。
「私、処女なんですが、『女』である処女になれますか?」
 ユッテが堪えきれないように口を抑えて笑うと、さっきの講義を知っている修道女達からも笑い声が漏れた。講義を聴いてない人には何の事なのかさっぱり判らなかった。エックハルトは目を見張って言った。
「君は講義をどこで聞いてたんだろうか。聞いてない方もいらっしゃるので改めて話をしましょう」
 エックハルトは壇に立って話した。
「今日ここで私は処女性について話をしました。処女性とは、外から来る形象にも、内から来る知性にも、それら全てが未だ存在する以前であるかのように、とらわれないという事です。それは単に処女という事とはかなり隔たりがあります。喩え言葉ですからね」
「喩えでしたか……エヘ」
 アフラは照れ隠しに頭を掻いた。周囲には笑いが漏れた。
 エックハルトは思考するように言った。
「私の言葉にはその実、譬え言葉が多いのです。処女性をさらに喩えるならば、それは時の届かない部屋の鏡のよう……もっと言うならばそこにある窓が初めて開くその時、その一瞬が永遠になるようなことです。先程は神と処女の庭とも喩えました」
 アフラがそれを思い浮かべて言った。
「窓を開ければ、そこにはお庭があるんですね……」
「そうです。見渡す限りの庭です。そこに見えるのは魂の本来の形象です。それは内からも、外からも、神自身であるものの他は何一つ造られる事の無いような形象——神のイデアなのです。誰も触れ得ないそれは、神のはじめの言葉にも等しい。その言葉もまた、未だ時間にも肉体にも触れない精神の中に述べられないまま留まってあるのです。この真の処女性を宿すならば、精神が神のはじめの言葉と等しいものとなり、心に神を迎える準備が出来るのです」
 クヌフウタが溜息を漏らして言った。
「見渡す限りが初めて……。そして触れ得ない神のはじめの言葉……。それが真の処女性というものなんですね」
「その通りです。聖母マリアは永遠の処女と言われますが、底にある意味は、この処女性を宿すという事を表しています。そしてイエスもまた、子として真の処女性を心に持ちました。真の処女性にある人は最高の真理を妨げるものが無く、多くの賜物を生みます。この賜物を実らせるためには、大いに人は世間に触れて役目を果たして行かなければなりません。踏みにじられることも多くあるでしょう。そういう時も心は常にこの処女性へ立ち戻ればいいのです。それが『女』であり、『処女』であるという事なのです。先程の質問に答えるなら、不断にそう務めるならば、いつか君にもなれることでしょう」
 エックハルトの言葉に、アフラはしばらく言葉が出なかった。心をどこか遠くへ連れて行かれたまま、まだ帰って来れず、窓から何か幻影を見ているようだった。ユッテはそれを心配げに見て「アフラ」と呼んだ。
「あ、ユッテさんありがとう」
 そしてアフラはもう一度軽く目を閉じてから、エックハルトに言った。
「……そのお部屋は、魂のお城ですか?」
「む? それも喩え言葉ではあるが……」
 エックハルトは目を見開いて大きく頷いた。
「それは等しい! 魂の城の入り口と呼ぶに相応しい」
「喩えとしても、素敵ですね!」
 アフラは両手の指先で目頭を拭きながら微笑み、「ねー」とユッテとイサベラと頷き合った。
 そして、クヌフウタはエックハルトに言った。
「素晴らしい喩えです。この機会に私も先生にご質問をしたいのですが、宜しいですか?」
「勿論です。何なりとお答えしましょう」
「先日、三位一体というお話をされていました。しかしそれはローマ聖庁でされている意味とは大きく違うように感じました。それは異端に触れる心配もあります。その解釈の違いをお伺いしたいのです」
「非常に鋭い指摘ですね。それは私の教説の強みでもあり、また弱点でもあります。順にお話しましょう」
 エックハルトは壇上の黒板まで行って、『父』、『子』、『聖霊』と書いた。
「ローマ聖庁の教理によると、イエスは父であり、子であり、また聖霊であるという、このお馴染みの骨子が三位一体です。聖霊は解釈が分かれるのでここでは置いて、父であり、子であるという事を考えましょう。父であり子でもある、これはこのままでは矛盾があるようには感じませんでしたか?」
 そう聞かれてクヌフウタは苦笑いで首を捻った。ローマ法王の教理に異を唱えれば、異端を告発され、火刑にもなり得る、そんな怖い時代だった。
 エリーザベトがそれを見て言った。
「父と子がそのまま真逆の意味だと捉えるならば矛盾もありますが、違う解釈もありそうですね」
「その通り」
 エックハルトは黒板に『神性』と『人間性』と書いた。
「父と子とは、神性と人間性です。その二つの性質は全く違うものに見えます。しかしそれでいて、産むもの産まれるものの関係で、本来分かち難いものです。子であるイエスは自らの中、先程の処女性の内で神性と人間性を一つに結び付けました。そしてそれを達成した事で彼は完全な人間であると同時に、すべての神であるという事に到達しました。聖霊はその間で誕生を助けるものです。そう解するなら、三位一体は一なる神格となり、何ら矛盾はありません」
 これにエリーザベトが讃辞を送った。
「エクセレント! そう考えれば、むしろ先輩——いえ、先生の解釈こそが三位一体の教理をより完成されたものにしていると言えます」
 クヌフウタは雲が晴れたように目を輝かせて言った。
「とても心に落ちます。心の霧が晴れていくようです」
 その教説の種が体に宿り、今やもう芽吹き始めている、クヌフウタはそんな気がした。それはそこにいた修道女達も同じ想いだった。
 エルハルトとアルノルトもエックハルトのその教説を初めて聞いて、その奥深い広がりに感じ入った。アルノルトはアフラが言っていた、三位一体はこれかと思い至った。
「これは教理の傍証ともなるでしょう。真理に根ざしたものですから、矛盾は無くなる上、生命の通ったものになるのです。そこでもう一歩進みましょう。イエスの人間性は、今までも、これからもただ一人のもので、他の人と全く異なるものでしょうか? どう思いますか? では王女様?」
 エックハルトは小声でアフラと話していたユッテに聞いた。ユッテは慌てて言う。
「私にとってイエス様は、もう神! と言う感じですから」
「むう。神であるとは言え、人として生まれたからには人々と共に生き、人間性もあります。もしイエスが隣に来て、対話出来たとしたら、どうですか?」
「そうですね。父のように頼れそうです」
「父とはいい喩えです。イエスの人間性を表すなら一番は父です。イエスが父であり、同時に人の子としては子である、それは今父である人が、昔は誰かの子であった事にも似ています。神である父が子を産むという時、それは普遍的に与えられた自然の仕組みの中でその子を産みます。生を生む同じ仕組み、同じ性質は父から子に、そしてさらにその子へと受け継がれ、今も絶えず永遠的にすべての人は生み継がれ、生を与えられて来ました。ここから私は言うのです。父である主はイエスばかりではなく、私もまた子として、そしてまた同時に父として産んでいるいるのだと。それによって私は父である神の性質を継ぎ、存在を継ぎ、父もまた私自身にそれを継がせる事で誕生するのです。そして、皆さんも同じく子であり、やがて父、母ともなります。父と子が一体というその性質はこの今も永続しています。という事は、どういう事だと思いますか?」
 エックハルトはクヌフウタを見て微笑んだ。
 クヌフウタには不思議な感慨が体を衝いて走っていた。その答えはようやく言葉になった。
「三位一体は、私達にも同じ……」
「その通りです! 父と子がここに一つである事は、イエスと他の人の間でも違いはありません。すべて人はイエスを心に宿し、イエスと人間性を共有する事が出来ます」
 イエスを心に宿す、そう聞いて、自身も強くそう思った瞬間、クヌフウタの精神は純白の光に包まれた気がした。イエスの存在をすぐ近くに感じた。エックハルトの言葉は続いたが、あまり聞こえなくなって行った。
「イエスは比ぶべくもないお手本となります。誰でも彼の到達したものを実現し、達成し得ます。むしろイエスはそれを望んだからこそ、教えを述べた事でしょう。そう信じて私もこれを述べ伝えるのです」
 クヌフウタを包む純白の光はまるで天から降る祝福のようだった。心がイエスと結ばれた気がして、神との結婚とはこう言う気持ちを言うのかと思った。
 その瞬間、それは訪れた。礼拝堂の天井の高みから、微かな輝きが一つ二つと羽根のように舞い、それは聖霊の到来のようにクヌフウタの胸を震わせた。そして途方もない感動は涙となって溢れた。
 その時、仮初めの天使である私は見ることが出来た。無数の天使達が祝福をしてこの場に訪れたのを。
 何かを感じてか、エックハルトが厳かに言った。
「聖霊が来られた……」
 泣き崩れるように顔を伏せ、クヌフウタはただ頷いた。修道女達は響めいて、思わず十字を切って祈る者が続出した。ペルシタはクヌフウタにハンカチを渡して、その背を優しく擦っていた。
「どうしたんでしょう?」
 後の方にいたアフラ達には椅子の陰で何が起こっているか判らず、ただクヌフウタが泣いているとしか見えなかった。
 エックハルトはそんなクヌフウタの近くへ来て言った。
「これこそは神の誕生です。あなたは多くを捨て、多くを神に捧げて来ました。だからこそ今、届いた」
「はい、でも、今は涙が……止まりません……」
 少し堪えてそう言うと、さらにクヌフウタは声を上げて泣いた。

泣き虫な聖女

 エックハルトの講談はひとまず終了し、修道女達は解散となった。
 エーテンバッハから来た修道女達も別れの挨拶をして馬車に乗り込み、チューリヒへと出発した。
 それを見送って手を振るエリーザベトとアフラ達だったが、すぐに礼拝堂へと戻った。見ればクヌフウタは未だ礼拝堂の隅に座り込んでいる。
 クヌフウタの様子は、ずっとおかしいままだった。少しの間泣き止んでも、また思い出すのか、少しすればまた泣くように顔を伏せてしまう。
「クヌフウタさん、行きますよ? 大丈夫ですか?」
 エリーザベトが肩に触れて聞くと、少し立ち上がり、また泣き出して蹲ってしまう始末だ。
 エックハルトがそこへやって来て言った。
「エリーザベト。もうすぐ日も沈むだろう。修道院に宿泊棟があるから、今日はここに残るといい。こうなっては私もこのままこの方を放っておけないし、伝えておかなければならない事がある」
「そうですね。でも、こんな大所帯ですし、高貴な方もいますので……」
 困っているエリーザベトにルーディックが言った。
「この後は近くのキーブルク城に寄って、日が沈みそうだからそこで泊めて貰おうと思うんだ。あちらも大所帯では困ることだろうし、組を二つに分ければいい。残る人と、キーブルク城へ行く人とに。僕はハルトマンに話があるから行くとして、ユッテ王女、イサベラ姫はこちらで決定だろう。年少組はみんな連れて行くとしよう」
「では残るのは、クヌフウタさんとお連れさん、そして私?」
「エリーザベトは残って見てあげて。積もる話もあるでしょう?」
「あなた……」
 エリーザベトは喜んでいいのか、皮肉なのかと複雑な顔をした。
「俺も残りますよ」
 そう言ったのはエルハルトだった。
「馬車が必要でしょう? クヌフウタさん達が乗る馬車は、俺の馬車ですから」
 アルノルトが言った。
「じゃあ僕も残り?」
「アルノルトはご友人だ。ここに残る理由もない。行って来るといい。もちろんアフラとマリウスも一緒だな」
 アフラはしかし、手を挙げて言った。
「私も残る!」
「え? 残ってどうするんだ?」
「明日もトビーのお見舞いに行くわ?」
「しょうがないな……」
 マリウスはどっちに行こうかとキョロキョロしたが、時間切れの言葉がルーディックから発された。
「じゃあ、それで決定だね。アルノルトは僕の馬車に乗って。弟さんもね。エリーザベトはクヌフウタさん達と残って、明日エルハルトさんの馬車でキーブルク城へ合流するという事でいいね」
「ええ! あなたがそう仰るのなら……」
 エリーザベトはいつになく強く頷いた。
「では、エルハルトさん。我が愛妻をよろしくお願いしますね」
 そう言ってルーディックはアルノルト、そしてマリウスと馬車に乗り込み、ユッテはイサベラと一緒に馬車に乗り込んだ。ユッテの従者一行もそれに併せて馬車に乗る。そして馬車はキーブルク城へと発した。
「愛妻……」
 馬車を見送りながら、エリーザベトはその言葉に少し顔を赤くしていた。


 修道女ローラの案内で、クヌフウタはペルシタとエリーザベトに支えられつつ隣の建物の客間へと入った。そして向かい合う長椅子に座った。宿泊する部屋は別にあるが、男女が完全に別れ、ベッドが並ぶだけの共同部屋になるらしい。男性であるエルハルトとエックハルトも客間では一緒にいることが出来た。
 日も落ちてくると、この日は少し冷え始めた。ローラに許可を取り、エルハルトは暖炉に火を点けようと一人奮闘し、小さな火を起こして口で風を送っていた。アフラはその傍に大人しく座り、エックハルトの方を盗み見ていた。
 エックハルトとエリーザベトは暖炉の前に来て立ち話を始めていた。
「何とも若々しい婿だがしっかりしている。あのエリーザベトが掌で上手く転がされてるようだったじゃないか」
「嫌ですわ。当主ですから思いのままにと言ってると、本当に思ったままをするようになって来たようで」
「当主としてはいい傾向じゃないか? もう少し私の講義にも興味を持って貰えると最高だが……あの年頃は仕方なかろう」
「難しい年頃ですものね。見てる間にも成長していきますもの。いい学びの場を与えて育ててあげませんとね」
「それはでも、楽しみだろう」
 エリーザベトは言葉にはせず、しかし目で頷いた。
「そうか……」
 エックハルトは新妻の恥じらいを見た気がし、思わず笑わざるを得ない。
 クヌフウタが少し落ち着いたのを見計らって、エックハルトはクヌフウタとペルシタのいる長椅子へとやって来て言った。
「もう落ち着きましたか?」
「はい……」
 しかし、クヌフウタはまだ涙声だ。
「これから、大事なことを言います。しっかりと心を落ち着けてから言いましょう」
「はい……すいません……」
 そう言うとクヌフウタはまた泣き出した。エックハルトはそんなクヌフウタに言った。
「泣き虫になってはいけません。あなたは神に祝福されたのです。さあ、これよりは顔を上げて、その涙さえ、踏み越えて行かなければ」
「はい……でも、涙が……止まらないのです……」
 クヌフウタは顔を上げ、懸命に涙を堪えてそう言った。しかし、後から後から涙が零れて来る。こんな美しい涙は見たことがないような、そんな涙の粒だった。
「泣きたいのなら、泣かせてあげるといい」
 暖炉に火を灯し終え、そう言ったのはエルハルトだった。
「誰よりも……辛い事を乗り越えて来た人なんです。本国のボヘミアから、親類の遺した修道院を後継するための重責を担って、ローマまで向かっているそうです。フランチェスコ派は私有財産が認められませんから、医療に必要な物の他には何も持たず、本当に運命を神に託すようにしてここまで来たんです……実際に旅をすれば、その苦労が判る……」
「エルハルトさん……」
 そう聞いて、クヌフウタは顔を伏せて涙を落とした。いつしか、ここに理解者がいた。その事が嬉しくて、今違う色の涙を流した。そして、みっともなく声を上げて泣いた。
「ふえええぇ……ありがとう……」
 ずっと一緒にここまで来たペルシタも、隣で少し貰い泣きしている。
 少し手を広げたような格好をエルハルトに向けて、エックハルトは言った。
「……落ち着くまでは、いつまでも待つつもりだ」
 余計に泣かせたような格好になったエルハルトは、少し苦笑いを返した。
 クヌフウタは程なくして心を落ち着け、涙を手で拭って言った。
「もう、落ち着きました……」
「お話しても大丈夫ですか?」
「泣くだけ泣いてすっきりしました。もう、大丈夫です」
 クヌフウタはエックハルトと、そしてエルハルトに頷いた。
 エックハルトは長椅子に座るクヌフウタの前で恭しく跪くように座って言った。
「あなたはずっと神に己を委ねられて来られたようだ。それによって離在を成し得たのです。今日起こった事は、世にも大切な、至宝のようなことです。胸にしまって、一生大事にして下さい」
「はい!」
「しかし、今日を限りに忘れるのです」
「え……」
 失望を滲ませるクヌフウタに、エックハルトは苦渋に満ちたような顔をしている。それは教説を取る者として、大きな矛盾だった。しかし、異端の摘発の厳しいこの時代、その理由も自ずから判った。エックハルトは言葉を続けた。
「忘れられるものではないかもしれませんが、有った事も無いが如くにする、これは処女性に立ち戻るという事でもあります。それに、私は異端審問の厳しさを良く知っています。時に私も審問に関わり、この目で見て来ましたから。決して公言してはいけませんよ。いいですね」
「はい……」
「皆さんも、秘密厳守でお願いします」
 異端と断じられればたちまち極刑に処される事もある。エリーザベト達は心配そうに頷いた。修道女ローラもまだ戸口にいて頷いていた。エルハルトには何が秘密なのかが判らなかったが、一応頷いておいた。
 エックハルトは少し笑顔を見せて言った。
「しかし、まだ今日の内ならば、大いに語るも良しとましょう。あの時、何が見えましたか?」
 クヌフウタはまだ目に涙を溜めながら言った。
「キリストの心を宿す——そう強く思った時に、光が……心が洗われるような白い光でいっぱいになって……」
「精神の光を見た……」
「はい……そして、体から木々が芽を吹くように、至福感でいっぱいになって……ああ、なんと言えばいいのでしょう……」
「自然と自分の体が同じように感じられたと……」
「はい! まるで、世界の生まれた時がそこにあるようで……」
「時の始まる『今』を見た……」
「そうです! 先生はすべてをご存知なのですね?」
「それは神の全き姿が心中に見えたのです。私の教説は全てそこへ導くためのものです。その導く先を知らないはずがありません。ですが、あなたはほんの少し私の話を聞いただけでそこへ届いた。驚嘆に値します。しかし、まだ準備は不十分です。この不安定な状態では、自身のみか、周囲を巻き込んで破滅へと導いてしまう事さえあり得る」
 クヌフウタは姿勢を正し、エックハルトに向き直った。
「教えて下さい。どうすればいいのでしょう……」
「すべてのものが神自身である、その賜物を見たでしょう。しかしそれはひとときで、すぐに消えてしまうでしょう。それは高峰の頂上へ出て地平を俯瞰したようなもの。これよりは山を降り、この賜物がいかなる場所でも現前にあるよう練達して行かなければなりません。一切の行いを通して一切に神を見るかのように、自身の内面を省みる事を習慣とするのです。一つは環境や他者による外的要因を心に留める場所があってはいけません。それはまず、苦難をも苦としないということです。もう一つは内面の要因です。心の高揚や、このような涙もそうです。多様な心の動きや嗜好に心を奪われないようにすることです。自分を我心に捕らわれぬよう絶えず戒心を持ち、常に処女性に立ち戻ることを習慣として自分を導くようにしなければなりません」
「難しい事に思えます」
「そうですね。このためには毎日の懺悔礼が有益です。した事はあるでしょう?」
「それはもう。嫌というほど……」
「これは懺悔室でなくて良いのです。毎日身に覚えが無くとも神を相手に懺悔をするのです。良心に照らせば反省する点は出て来ますから、それが無くなるまで観想を繰り返すことです」
「判りました」
「気を付けたいのはそれが悔恨や後悔であっては心に苦しい想いだけで終わってしまうという事です。神に一つ懺悔をし、心から改心が出来れば、理性に徳が加わり、その修正がなされ、神は思う以上を許され、大いに進むことが出来ます。ただ、これらは戒めるという消極的なものです。前に進むには、心思を神に向かわせる、大いなる熱誠が必要です」
「大いなる熱誠……」
 その言葉はクヌフウタの心に沁み渡った。
「例えば、自身の仕事をする時の熱心さ、忠実さです。聖体拝領をする時、神に祈り、自身の心を神に問う時、形だけで熱心さに劣る事がまま見られますが、それでは何の意義もありません。しかし、それに勝る熱誠を以てすれば? それは意義深く、このような聖霊や天使の祝福に触れる事も出来る」
「ご存知なんですね。あれは、やはり聖霊だったのですね?」
「言葉だけなら聖霊と言っても言葉遊び。おとぎ話と同じです。神と魂は密接に結びついています。聖霊や天使群においてもそれは同じ。聖霊が触れる時、神も魂に触れるのです。言葉は表面的な作り物です。言葉では本質とはまだ遠く隔たりがある。どう語るとしても誤解を生じます。心に聖霊という本質を持たない限りは」
 エックハルトは胸に手を置いた。それに答えるようにクヌフウタも胸に手を置いた。
「まだ……残っています。まだ触れているように、ここに……」
 エックハルトは微笑して目で頷いた。
「神も触れています。神に触れることで神自身が自分自身となり、自分自身の心や体、感覚さえすべてが神のものとなって行き、神と知覚を共にすることが出来ます。知り得ぬ事が感得できるようになるのです。魂とは元来そのように出来ている」
「今ならば……先生の仰る事がこの心で判ります。言葉だけでは本質には遥かに遠く、届きませんね……」
 そう言ってクヌフウタはまた少し涙ぐんだ。
「私の教説は神学にも哲学にもなっていないという人がいます。しかし、それも言葉の字義的な表面だけを見る為です。最も本質的な事を話しているのです。イエス・キリストに学ぶ者ならば、イエスのその内奥の真実こそが中心課題なのであり、それを説いているのですから。離在によって心が自由になれば言葉は無限に溢れますが、あなたもその分を堅持し、本質から離れないことです。自分の分を果たしつつ、イエスと同じ本質に沿うならば、異端のそしりからも逃れられるでしょう。修道女にもビンゲンのヒルデガルドやマクデブルクのメヒティルトのような、神からのビジョンを本にした先人もいることですし、神のビジョンを見ることについては世間に理解を得やすくなっています。神による幻視を視たのだと言う程に留めるのです」
 クヌフウタは真っ直ぐな目をエックハルトに向けて頷いた。
「はい……判りました。ヒルデガルドは私達にとりましても教科書となる方です。全て仰る通りに致します」
「私の言葉は道案内に過ぎません。あとは、自分の目で見て、自分の足で立ち、自分の歩みで踏み超えて行くのです」
「全て宝物のようなお言葉です。一生、大事にします。先生のお話を聞けば、このようになることはきっと良く有ることなのでしょうね」
「いいえ。その場で離在に達することは悲しい程にありませんでした。講義中に泣く方なら時々はいるんですがね」
 アフラが手を挙げて言った。
「それは私のことですね?」
 エックハルトは目を大きく丸くしてアフラを見た。
「君か! よくここまで来てくれたものですね」
「ウーリに一度戻ってから、また来ました」
「ウーリから? それはまた遠くから遙々聞きに来てくれたんですね」
「往復です。父さんに無理矢理連れ帰られ……また来たんです。ここへ来るのが少し遅れて、教会に入れなかったんですぅ」
「そう言えば今日は満員だったのに、どこから聞いてたんですか?」
「隣の建物の窓から覗いて聞いてました。トビーが礼拝堂の窓を開けてくれたんです。そのせいであんな怪我をしてしまって……神様に懺悔します!」
 修道女ローラが驚いて言った。
「そういう事だったんですね! でもそれは、中から窓を開けた私のせいです。私が懺悔します」
 二人はさっきの話のせいか、懺悔をしたいかのようだ。
 エックハルトは考え込むように言った。
「大元を辿れば、私がそこで講義をしていたせいでもありますね。ここは皆で明日、謝りに行きましょうか」
 アフラは驚いて言った。
「本当ですか! 私、行こうと思ってたんです!」
「先生、なんてお優しい……」
「いえ。良心に従ってした行いで怪我をして、その良い心根が意気消沈する事があってはいけません。少年を励ましてあげましょう」
 クヌフウタも言った。
「私も参ります。心残りもありますし、離れる前に診察をしておきましょう」
 ローラが嬉しそうに言った。
「早速診察が見れそうで良かったです。何でもお手伝いさせて下さい」
「では早速ですが……小さな子の手首の形に合った添え木が欲しいのです」
「それは……ちょっと難しいですね」
「それなら……」
 エルハルトが暖炉から焦げた薪を一本取って来て言った。
「これをナイフで削ればいい」
 そう言ってエルハルトはナイフを出して焦げた場所を少し削ってみた。かなり脆くなっていて、簡単に削ることができる。
「こんなカーブが付けばいいのかな? 見た感じアフラの手で合わせればいけるだろう」
 そう言ってエルハルトはアフラの手に合わせてみた。アフラの白い手に黒い焦げ目が付いた。
「あ、バッチい」
「エルハルトさん!」
 クヌフウタは立ち上がって、それを間近で見て言った。
「布で包みますから、これで完璧です! ですが、出来れば手の先から肘くらい大きい方がいいです」
「そうなると、新しい薪から作るよりないが……ローラさん、道具を貸して貰えますか?」
「それはもう! こちらです」
 ローラは建物の外の薪を割っている場所へ案内してくれ、エルハルトに原木とオノを貸してくれた。エルハルトは早速薪割りの要領で原木を割り、必要な大きさを切り出した。
 隣ではローラとアフラ、そしてクヌフウタが見に来ていた。
「このくらいの長さで大丈夫ですか?」
 エルハルトはアフラの手を借りて、あてがってみた。
「ええ。トビーはアフラさんより少し小さいか同じくらい。手はそう変わらなそうですね」
「あとは出来るだけ手に合わせた形にしていけばいいんですね?」
「ええ。痛くないよう出来るだけ凹凸感が無い方がいいです。お願い出来ますか?」
「任せておいて下さい!」
 エルハルトは胸を叩いた。
「エルハルトさんはとても頼りがいがありますね」
「いや。これくらいはいつもの……」
「兄さん、照れてるー」
 アフラに笑われたので、エルハルトは妹の額を突いてやった。

 それから一同は食堂で夕食を摂り、その後は少しの雑談をしていると、すぐ修道院の消灯時間となり、共同部屋のベッドへ向かった。
 エルハルトは夜遅くなっても客間の暖炉の火の前で木材を削っていた。
 手の形に合わせて木材を少しずつ焦がしては削り、痛くないように丁寧に表面を削った。
 しばらくはアフラも手のモデルをしつつ一緒にいたが、早起きだったアフラはすぐに眠くなって部屋へ眠りに行ってしまい、一人残されたエルハルトはその手のイメージを思い浮かべながら削って行った。
 作業をしながら、エルハルトは今日のエックハルトの話を思い出した。仕事をする時の熱心さ、それを上回る熱誠でという事ならば、今の自分もそうは負けていまいと思った。そう思うとエルハルトの胸には少し暖かい気持ちが灯った。
 クヌフウタとペルシタは夜中にその場を抜け出して、川へ行った。そして暗い中で修道服を脱いで裸になり、水浴びをした。
 暗い場所ならば誰かに見えることもない。川の水は冷たいが、森の息吹と星の息吹が感じられ、自然の中で心身を清められるようで、心から清々しくなれた。


 晴れやかに朝が明けた。窓から差し込んだ光に、エルハルトは目が覚めた。結局ベッドに行く事無く、客間の暖炉前に動かした長椅子で寝てしまっていた。手には精巧に彫り上げた添え木があった。
 そこへ朝の礼拝を終えたローラが入って来た。
「あれ? あなたは! ずっといたんですか?」
 クヌフウタとペルシタ、そしてエリーザベトとアフラも後ろにいるようだ。
「はい……勝手にすいません」
 そこへアフラが駆け込んで来て言った。
「いないと思ったらここにいたのね。出来上がった?」
「ああ。ちょっと手に当ててみろ」
 アフラがその添え木を手に当てると、手の形にしっかりと収まった。内側も、そして外側も、綺麗に表面を整えられている。
「ぴったり! それにばっちくない!」
 クヌフウタ達も入って来て言った。
「おはようございます、エルハルトさん。まさか徹夜されたのかしら?」
 エルハルトは添え木を上げて言った。
「おはよう。これ、遅くまでやってると眠くなって、ついここで寝てしまいましたよ」
「寒くなかったですか?」
「そう言えば少し。まあ暖炉があったので」
「いいものが出来たようですね」
 エルハルトは出来上がった添え木をクヌフウタに渡した。
「熱誠の作です」
 クヌフウタは目に輝きを込めて言った。
「すばらしい! なんて綺麗な形に! 焦げ目もあまりありませんね」
「途中から眠くて、焦がすのにも燃やしてしまいそうになって、削るだけにしました。あとは本人の手に合うといいのですが……」
「これは最高の作です! 熱誠とは本当ですね。私も負けていられませんわ」
「いえいえ、それは勝ち負けはありませんから」
「何となく、あるような気がしますよ?」
「それが判れば少しは世の中の不条理が無くなりそうですね」
 アフラがエルハルトの手を引いた。
「これから皆でトビーの所へ行こうって言ってたの。兄さんも来て。エックハルト先生も来るのよ」
「大勢で行ってまた追い出されそうだ。俺はいいよ」
「えーっ。こんなにいいの作ったのに……」
「これから馬の世話もある。走る前に食わせてあげないとな。まあ作者の名前だけ伝えておいてくれ」
「うん」
 アフラは小さく頷いた。
 そうして一行は玄関前に一度集まり、そこへエックハルトが合流すると、トビーの家へと出発した。
 トビーの家に着くと、また驚かせるといけないと、まずはクヌフウタとペルシタ、そしてローラの三人の修道女だけがドアに立った。
 母親のリリアがドアを開けた。
「昨日のシスターさん! それにローラさんまで!」
 ローラがまず口を開いた。
「まずはお詫びをさせて下さい。息子さんが怪我をしたのは、私が不用意に窓を開けたせいです。それのせいで窓から落ちたのです。誠に申し訳ありません」
「いいえ。あなたは悪くありません。私は見ていましたから。あの時に窓を開けるのは誰でもする事ですもの」
「リリアさん……どうか、息子さんにもお詫びをさせて下さい。それに、今日来ましたのは、こちらのクヌフウタ先生が診察をして下さるそうです」
 クヌフウタは言った。
「また診察に参りました。息子さんの調子はいかがですか?」
「あれからまた、痛みが酷くなったようで……」
「骨折は数日かけてだんだん痛くなるのです。今日もお手当させていただきたいと思います」
「なんとありがたい事でしょう。どうぞお入り下さい」
「正式にお医者さんには診て貰えそうですか?」
 リリアは少し言葉を濁すように言った。
「いただいた寄付の半分はベギン会に寄付する形になりました。正直なところ、それで医療費に足りるかは判りません……」
「やはり……そうですか。今日の処置が上手くいけば、改めて医者へ行かなくて大丈夫かもしれません」
「本当ですか! それは助かります!」
 手を固定したトビーは何も出来ず、すっかり悄げてベッドに寝転がっていた。クヌフウタはそんなトビーを見付けて声を掛けた。
「こんにちは。元気ないわね」
「シスターのお医者さん!」
「また診察に来ました。痛みは大丈夫?」
「痛くて何も出来ない。手も痛いし、足も痛いし、夜も痛くてあまり眠れなかった……」
「それは大変ね。診てみましょう」
 クヌフウタはトビーの手の包帯を解いて、その固定を解いた。
 その間にローラが言った。
「あの時は窓を急に開けてご免なさい。どうか不用意な私を許してね」
「僕は窓を開けようとしてたんだ。だから助かったんだよ。落ちたのは半分わざとだし、思ったより高くて着地に失敗して怪我したのは手違いだ。だからいいんだ。もう許してるよ」
「ありがとう…‥許してくれて」
 包帯を開くと、その手はやはり昨日より腫れ、青く内出血の跡があった。
「内出血があって痛いのね。お薬を塗りましょう」
 クヌフウタはここでもカレンデュラの花を摺り子木で磨り潰し、その黄色い汁を布に浸し、それを手に当てて包帯で巻いた。打ち身、炎症にも効く万能薬で湿布をした形だ。
「この黄色い花がお薬なの?」
 妹のエルズは近くに来てそれを興味深く見ていた。
「ええ、そうよ。そして、今日はこれね。第二号よ」
 クヌフウタはエルハルトの彫った添え木をペルシタから受け取り、それを掲げて見せた。
「木?」
「おもちゃ?」
「あなたのためにこれを作ってくれた人がいるの。大きさは合うかしら?」
 添え木をトビーの手に当ててみると、ほぼ手の形と合った。
「あ、これぴったりだ」
「素晴らしい! 手の大きさはアフラに合わせたのだけど、合って良かったわ」
「アフラって、あの子?」
「ハイ! トビー! エルズー!」
 扉から見える玄関にアフラが顔を覗かせていた。
 エルズは思わずアフラを迎えに出た。
 後にはエックハルトも来ていた。
 リリアはその姿を仰ぎ、感涙を浮かべていた。
「まあ! エックハルト先生がここにいらっしゃるなんて……なんと有難いことでしょう……」
「私の講義の最中に怪我をしたようですから、少しの責任はあります。是非お見舞いをと……」
「今手当をしてもらっています。どうぞお入り下さい」
 エックハルトとアフラは子供部屋に入って来た。
「トビー元気? 痛くない? あ、どうよその木型?」
 入るなりアフラはトビーに質問を浴びせた。
「まあそれなりだね。この木型作ったのは知り合い?」
「私の兄さんよ。そうだ。そこに名前書いておいていい?」
「名前?」
「作った人の名前は大事でしょう? エルハルトっていうの」
 そう言ってアフラはクヌフウタから木型を受け取り、ナイフで名前を彫った。
「ついでにお前も名前を書いておいてくれよ。シスター先生の名前も」
「え? そんなに?」
「忘れちゃうかもしれないから、それを記念に取っておくよ。いつか大きくなったらお礼をするよ」
「いいわ」
 アフラは、自分の名前と、クヌフウタの名前を書いた。
「シスターのお医者様はクヌフウタさん。そして、こちらにいらっしゃるのが、エックハルト先生。私達の先生なの。書いておく?」
「うん!」
「お見舞いの記念に、それは私が書いてもいいかな?」
 エックハルトがそう言うと、母のリリアの方が喜んだ。
「まあ! エックハルト先生のサインだなんて! 後で価値が付いてしまったらどうしましょう!」
 エックハルトは木型とナイフを受け取って、そこに自身の名前を刻んだ。そしてそれを胸に抱くようにして祈りを込めた。
「天に坐します我らが父よ。早く怪我が治りますよう、神が助けて下さいますように。アーメン」
「ありがとう。なんだか早く治りそうな気がする」
 トビーはそれを受け取り、礼を言った。
 そこに刻まれた名前を手でなぞるが、トビーにはまだ少ししか字が読めなかった。
「字を覚えなきゃ……」
 アフラは思わず笑って言った。
「そこから? 怪我を治す間に勉強すればいいわ」
「そうだね」
 そしてクヌフウタはその木型をトビーの手に当てて、それをしっかりペルシタに持って貰いつつ、包帯で何重にも巻いて固定をした。
「さっきよりキツくて指も動かない……」
 トビーの手はもう親指しか動かせなかった。クヌフウタは微笑を浮かべて言った。
「そうね。二ヶ月間、動かさないって約束したでしょう? 絶対動かさないなら固定がきつくてもあまり関係ないはずよ? こうして固定しても、思い切り動かせば骨がずれて一生変な形になるかもしれないわ」
「わ、わかった!」
 少し脅しを入れたクヌフウタは、次にトビーの足も手当をした。
「膝を打って擦りむいたのね。立って歩けたのよね?」
「うん。立ち上がるのは痛いけど、立ってるだけなら大丈夫だった」
「これは痛い?」
 クヌフウタは足を少し捻ってみた。
「うん? 少しだけだ。イタッ」
 膝を曲げ伸ばしすると痛いようだ。
「こっちの足も傷みが酷くなるようなら病院へ行って診て貰ってね。関節は判りにくい場所なの」
 そう言ってクヌフウタは足にも黄色い花の湿布をし、包帯できつく巻いた。
「よし出来上がり。じゃあトビー。このまま動かさないように頑張ってね」
「動かせないと、頑張れないかも」
「最良のことをするの。今それは動かさないこと。痛くても、かゆくても、これから暑くなって来てもそのままよ。それをこらえて頑張れるのはあなただけなの。出来るかしら?」
「わかった」
 トビーは覚悟を決めたように頷いた。
「二ヶ月したら骨がくっつくから、外していいわ」
「長いなあ」
 トビーは溜め息を吐いて嘆いた。
 エックハルトがそれを見て言った。
「君のおかげでこの子が私の話を聞けたそうだね。それが聞けたことは大きな前進にもなろうし、私の真実を一人分広げてくれたことにもなる。君の功績だ」
「功績?」
「ああ、何よりこの子が勉強になって喜んでいた。そうだね?」
 アフラも身を乗り出して言った。
「そーです! 私、お話を聞くためにウーリから来たの。トビーが窓を開けてくれたおかげで先生のお話が聞けて、後で先生にそれを聞き直せて、聞いてなかったクヌフウタさんにも話が伝わって、その後ですごい感動があったの。みんなトビーが窓を開けてくれたおかげ」
「そうだったんだ。いい先生みたいだね」
「それはもう!」
 クヌフウタは思い出したのか、少し涙を滲ませている。
「あなたのおかげでもあったんですね……ありがとう」
「ありがとうね、トビー」
 思う以上に深く二人から感謝され、トビーは慌てた。
「開けたかいがあって良かったよ。でも実際開けたのは、シスターだった」
 ローラが首を振って言った。
「私は、あなたが窓を開けようとしていたから開けたの。それによって怪我をさせてしまった事では、悔やんでも悔やみきれません。もう二度とは開けないと、そう懺悔したんです。でも、怪我したあなたには、何にもならない……本当にごめんなさい……このお詫びを……何かさせて下さい……」
 ローラからもまた涙ながらの謝罪が待っていた。
 トビーはそんな逃げ場の無い周囲を見回して言った。
「二人で窓を開けたんだ。そういうことにしよう? シスター、僕、この間に字を勉強したいんだ。でもこの通り動けないし、時々教えに来てくれると嬉しいな」
「お安い御用です」
 ローラは涙を拭いつつ頷いた。
 母のリリアは「無理をいいまして、すいません」と礼を言った。
「私も勉強するー」
 エルズもそう言うと、ローラは頷いた。
「じゃあ、みんな一緒に勉強しましょうか」
「やったー。よかったねトビー」
 エルズは兄にハイタッチをしたが、その手は怪我した方の手だった。
「いって!」
 そんなトビーにリリアが言った。
「バカね。どうしてそっちの手出すの?」
「利き手って思わず動いちゃう……」
 クヌフウタは厳しめに言った。
「ハイタッチは禁止! 字を書くのも左手でね」
「はい……」
 トビーは頭を掻いた。が、それも固定した手だった。
「頭を掻くのも左手でね。先が思いやられるわね……」
 クヌフウタはそう言って、腕にさらに布を巻き、包帯を巻き付け、手のあたりを膨らませた。
「これでよしと。クッションになるでしょう。汚れればカバーした上だけ洗ってあげて下さい」
 母親のリリアが言った。
「それは助かります。これで、医者へは行かなくても?」
「痛みが引かないようでしたら骨がくっついていないので、改めて医者へ行く必要が出て来ますけど、このまま痛みが引いてくれば大丈夫でしょう」
「本当に助かりました。大変ありがとうございます。では、こちらはお返ししないと」
 リリアはそう言って、袋を取り出した。寄付で貰ったお金の半分だ。クヌフウタは慌てて首を振った。
「私は戒律もあって金銭は受け取れません。それは既にあなたにお預けしたものですから、今後の経過もありますし、良いことにお使いになって下さい」
「私もこの様な浄財を私的に使うのは畏れ多いです。では、これもベギン会にお預けします」
「それで結構です」
 エックハルトがリリアに訊いた。
「あなたはベギン会の方なんですか?」
「ええ。このあたりの人は教会周辺の紡績小屋で働くので、みんな入ってます。生活の上での協同組合にもなっていますね」
「ベギン会の方が多く講義に来られていたようなので、ちょうどどういう会なのかを知っておきたかったのです。是非一度、会の責任者に会わせては貰えませんか?」
「それはもう大歓迎です! エックハルト先生でしたら、大喜びで会ってくれると思います。昨日の講演の会誌を書いている所だと思いますから」
「では、これからでも?」
「ええ、もちろん!」
 そうしてリリアとエックハルトは会の責任者の家へと向かう事になるが、クヌフウタ達修道女とアフラはエリーザベトを待たせているので、一度修道院へ戻ることにした。


「ただいま帰りました」
 クヌフウタは客間で待っていたエリーザベトとエルハルトに声を掛けた。
「お帰りなさい。治療の方はいかがでしたか?」
「ええ。すべて上手くいきました。添え木もぴったりで、エルハルトさんのお陰です」
 エルハルトは嬉しそうに言った。
「良かった。お役に立てて何よりですよ」
 後から続いてやって来たアフラが言った。
「名前をしっかり書いておいたからね」
「そうか。作者の特権だな」
「ついでに私も名前書いた。クヌフウタさんとエックハルト先生も」
「ん? 寄せ書きか?」
「記念に取っておいて、大きくなったらお礼してくれるんですって。どういうお礼か楽しみ」
「気の長い話だな」
 エリーザベトがあちこちを見て言った。
「エックハルト先生が見えられませんね?」
 ローラが答えた。
「先生はベギン会の方にお会いになるそうで、残られました」
「そうでしたか。お別れのご挨拶が出来ないのは残念ですが、向こうの方々をお待たせするといけません。そろそろ出発しましょうか」
 馬車の用意は既に調っていた。一行はすぐにエルハルトの幌馬車に乗り込んだ。
 馬車の中は、布団を丁寧に折り畳んで白い布を掛けたベンチが出来ていて、横向きに四人が向かい合ってゆったり座れた。
 ローラはクヌフウタに随いて行く予定だったが、しばらくはトビーの家に通うとのことで残る事になり、広場に見送りに立った。
「もっと色々お話を伺いたかったです。お元気で」
「あなたもお元気で。怪我と風邪の処置については、後でここにお手紙しますわ」
「ありがとうございます!」
 エルハルトは御者台に乗って馬車を発した。一頭立ての馬車なので、登り坂は重量が厳しく、かなりゆっくりな運転だ。
「思う以上に乗り心地がいいですね」
 エリーザベトが感心して言った。
 それにクヌフウタも頷いた。
「そうなんです。木の根のガタガタ道も、心地良いくらいでした」
 エックハルトが振り返った。前方の幌は全開に大きく開けてある。
「馬一頭なのでゆっくり走らせてますからね。正直四頭立ての豪華馬車とはかなりの差があるとは思いますが、寛大にご容赦を」
 エリーザベトは首を振って言った。
「いいえ、乗り心地の面ではこの馬車の方が勝りますわ。速さもこれくらいの方が心安らかに行けていいですね」
「そう言って頂けると助かります」
 クヌフウタはベンチを押して言った。
「この椅子はお布団なんだそうで、ここで宿泊が出来るんだそうですよ。この馬車なら何処までも遠くまで行けそうで、男の人はいいですね。ずっと乗っていても苦ではありませんし」
 アフラも大いに同意して、お尻でベンチを跳ねてみせた。
「おしりが全然痛くないですもんね」
 淑女達はそれにはノーコメントで首を傾げた。しかし目では肯定している。
 ふと、最後方で一人離れて座っていたペルシタが言った。
「私にとっては、風が入るのがいいようです」
 ペルシタは川で水浴びをし、今日は小綺麗にさっぱりとしていたが、服はまだ相変わらずだ。周囲にいる人もそれはありがたい事だった。
 馬車は山道へ入って行き、エルハルトは先の道を指して言った。
「キーブルク城はこの川の上流だと聞きましたが、だんだん細く、悪路になってますね」
 エリーザベトは答えて言った。
「ここは谷川になってますから。でも馬車道はしっかりあるはずです」
「それは良かったです」
 その言葉通り、山谷が深くなっても道は整備されていた。ある分かれ道でエリーザベトに言われて山を登る道を取った。
 エルハルトは御者台を降りて馬車を押しつつ急坂を登ると、丘の上は平らな台地となり、そこから遠くキーブルク城が見えた。
「見えましたね」
 台地の上には森と田園が斑に有り、さらに一つ高い丘に、城壁が巡り、城塔が聳えていた。
「綺麗なお城……」
 幌から顔を出したアフラは、その姿に見とれた。
 エルハルトは御者台に戻って馬を発し、指差して言った。
「丘の上の城は、絵になりますね」
「キーブルク家は旧くは周辺一帯を大きく領にしていた名家ですからね。歴史があります」
「でも、ラッペルスヴィル城の方が大きいようですが?」
「そうなんですか?」
 アフラは興味津々でエリーザベトに訊いた。
「ラッペルスヴィル城は比較的新しいですし、城壁内に町や修道院を入れていますからね」
「そうなんですね! これからそこにも行けるんですね!」
「ええ。我が城にも歓迎しますよ。ここで皆さん揃いますから賑やかになるでしょうね」
「それはもしかして、魂のお城のお話のようですね。ここのお城の風景も、エックハルト先生のお話から出て来たよう……」
 アフラは夢見心地で言った。
 この言葉はエリーザベトに、そしてクヌフウタにも、エックハルトの教説を思い起こさせた。そしてこの風景を見れば、魂の城と表現したそのイメージそのままで、見渡す限りの森と田園はその庭のようにも見え、心の窓が開くような気がした。
 エリーザベトはアフラを羨望の目で見て言った。
「あなたという世界の窓を通してこの風景を見てみたいわ。私達をここへ連れて来てくれたのは、アフラ、あなたかもしれないわね」
「私は、何もしてませんよ?」
「講義があることを私達に教えてくれましたし、何もしないようでも進むこともあります。あなたの感性と強い意志が周囲を引き寄せているのですよ」
 クヌフウタは首を大きく縦に振った。
「私もそう思いますわ。アフラが先生を強く思ったから、私達にも道が開いたと。でなければ、こんな遠いヴィンテルトゥールまではとても来れなかったでしょう」
「驚くべきは、ユッテ王女やイサベラ公女殿下をも巻き込んで連れて来たという事です。クヌフウタさんを含めると、三方の王家に先生の支持者が出来た事になります。ヴィンテルトゥールのベギン会も今やそうですし、私やルーディックを含めればもう一つ加わることになるわ」
「ここから世界が動いていく……そんな予感がしますね」
 アフラは目を丸くして言った。
「えーっ。そんな大それた事になるんですか?」
「それは大きな出来事です。エックハルト先生の教説は、高邁さ、深遠さの上で聖書世界を上下に押し広げています。その影響力は世界の明暗に関わるものです。知られなければ一介の説教師ですが、広く知られれば世界は一つ上の段階へと進むのです。短い間にエックハルト先生はその手掛かりを得たのです」
 クヌフウタが思い返すように言った。
「そうですね。それだけの方に直接ご指導頂けたのは、とても幸運なことでした」
「そしてそれは、クヌフウタさん、あなたもですよ」
「私も?」
「ええ。あなたも本国では精神的支柱となる方です。聖霊の来訪でそれは証明されたと言うべきでしょう。そしてそれは同時に義務でもあります」
「そうですね。そろそろ本国ボヘミアへ戻らなければと思います。それにはローマのアッシジで承認を貰って来なければなりません。アルプスを越えれば言葉も通じませんし、少し躊躇ってしまうのです。薬草園を造ることがここでしか出来ないせいもありますが、ずっとここから離れ難いような想いがしているのです」
「それはきっと、先生に出会うためだったのかも知れませんわ」
「そうですね。それに、皆様にもです。ウーリの方々もですよ。とても良くして頂いて、私はここへ来て、初めて心からの幸せに出会う事が出来ました」
 そう言って、クヌフウタはアフラの髪を撫でた。アフラはクヌフウタを見上げて言った。
「お役に立てて良かったです」
 エルハルトは背中でそれを聞いて、何か少しは役に立てただろうかと思った。
「アルプスの山を目の前に、なかなか越えられない人は、ウーリではよくいるんですよ」
 エルハルトは振り向き、笑ってそう言った。
「そうなんですか?」
「ええ。越えるにはお金や人手、何より旅の食料と宿泊の計画がいりますから。言葉も違うし、他にも危険はいろいろ多いので、躊躇うのは当然です。だから気にすることはありません。お金を持てない分、計画を整えて、薬草をしっかり溜めて、それからでも遅くはありませんし、そうしないと山を越えられずに行き倒れます」
「いい事を言って貰えて、少し安心しました。最近はペルシタさんにもせっつかれるもので」
「私は、早く帰りたいと言っただけです」
 ペルシタはさも当然というように言った。エルハルトは言葉をさらに続けた。
「行くなら道に詳しい人に付いて行くのが一番いい。兵団や商団に加わるという手もあります。兵団は厳つい男ばかりだから少し問題がありそうですが……」
「そうですね。誰か信頼できるいい方がいればいいのですが……」
「俺はまだ詳しくないんですが、ウーリにはいくらでもいますよ? 知人に聞いておきましょうか? 近々行けそうな人を」
「それは大変助かります。お願いしてもいいですか?」
「任せておいて下さい」
 エルハルトは小さく胸を叩いて言った。
 エリーザベトは晴れやかな微笑をクヌフウタに向けて言った。
「こう言う時ウーリの人は頼りになりますわね」
「ええ。エルハルトさんにはもう頼りっぱなしです」
「兄さん、頼れるわあ!」
 エルハルトは帽子を深くかぶり直して照れて赤くなる顔を隠した。


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