恥晒しヒストリア

私が生まれた時……母親は私があまりに勢いよく乳首を吸うもんだからその吸引力に…あ、遡りすぎた。生誕から病気になるまでのドキュメンタリーではない…。ので、転落していった中学生時代から。


私は中学受験生だった。全然勉強しなかった。結果、滑り止めだった自称進学校に入学した。

トラブルは、早々に始まった。あちらこちらで陰口の言い合い、次に誰が虐められるか分からないという緊張感。私が入学式で友達になった九ノ瀬(仮名)は、最初クラスのヒエラルキーで、上の方にいた。ところが、裏切りに告ぐ裏切りにより(サスペンス表現はやめて!闇松兄さん)彼女は虐めの対象になった。そして私も。


九ノ瀬が長く休んでいる間教室で一人で弁当を食べていると笑われ、集中砲火。食堂に行っても「一人なの?(笑)」と言われる始末なので、飲食禁止の自習室に滑り込んでさっと済ませた。

トイレ飯だけは、無理。今でも食べ物は絶対トイレに持ち込みたくないから、食品売り場のトイレから、スタバのカップを片手に出て来たマダムには心底驚いた。仰け反った。


結局居場所のない者同士、私達は一応友達だった。ただし私と彼女は互いに優劣を付けたがるところがあった。つまり、互いに対抗意識が強かった。向こうはテスト返却があれば奪ってくるし、私も私で、彼女に、自分以外に話す人がいることに劣等感を感じ、しつこく質問したりもした。

私と彼女がお揃いのマフラーをしていると、「レズかよ」「キッモ」
ロッカーに入れたリコーダーの口の部分が外を向いていれば「きしょい」これは私限定。


ある時吹っ切れた我々は、言われた悪口をメモしたり、「あ、今うちらの悪口言ってたよ」と報告し合ったりもした。
新学年が近付くと、九ノ瀬と私の話題はクラス替え一色に。当時の我々の流行語は「one」で、「ぼっち」の意。意味が分からない。
「あ〜〜クラス替えで”one”になったらどうしよう」
「”one”になったらおしまいだよね」


そして、私は”one”になった。


中2になってから、九ノ瀬は割と上手くやっているようだったが、頻繁に私の元へやって来た。

徐々に九ノ瀬は病んでいく。リストカットの跡を見せてくる、小さなおにぎりが食べられない、と隠せる範囲の細い傷跡は常に存在し、私の知る限りでは殆ど何も口にしなかった。

異変を察した教師から、私は不名誉にも世話係になるようお達しが出た。



”お付き”として、拒食になった九ノ瀬と、保健室に行ったところ養護教諭に「あなたは悩みがなさそうでいいわね〜」とさらりと言われた。いや、当たりが強いの私の方なんだけど…。年齢的にもばっちり厨二病だったので(「目立たない花は夜に咲く」とか「皆虹の下にいるのでしょうね」とかなんとかいうポエムを夜な夜な書いていた)即座にライフルを乱射する妄想をした

な や み が な い ?



クラスでは一人だし笑われるし、シカトされてるし、一人で教室移動するのは恥ずかしいと見なされていたからわざわざ「一緒に行ってもいい?」「一緒に(教室まで)帰ってもいい?」と毎回お伺いを立て9割り5分シカトな微妙な返事を頂き、黙って後ろを着いて行くしかなかったし。畳み掛けるように国語の成績が下がったと嫌味を言われ、そして私はまだ九ノ瀬の世話人。他に友達作ったのにどうして。


その後、私は自分が取るべき方法をメモ書きにして、悩んだ結果クラスで気持ち悪がられているグループに何とかして入れてもらうことになった。つまりカースト最底辺。クラスメイトから気持ち悪がられているとはいえ、このグループの人達は優しく、拒絶しないでくれたし、話もオタク趣味から城巡りまで、幅広くて面白かった。ただし私達は、机の周りで話していると「集ってんじゃねぇよ!」と言われるような、存在だったけど。腹が立ち、物凄い形相を一瞬だけ、発言主の男子に向けた。相手は一瞬固まった後見間違いだと思ったのかまた群れの中で楽しそうにお喋りしていた。これは戯れの一環に過ぎないが、小学生の頃は睨みで男子を椅子から落としたことがある。


パソコンの授業で、遺影!遺影!遺影!と数少ないカースト下位の友達とWord画面に打ち込むのが癒しだった。


この中学には、妙な掟があり、体育の際のジャージ着用が非許可なのだ。冬でも半袖健康優良児。

当時も思ったことだが、当人にそれ言っちゃう?という母が語るその理由は、「リストカットの跡がないかどうか確認するため」

しかし九ノ瀬のようなプロのリストカッターは時計のベルトで誤魔化したり、リストバンドやシュシュを身に付けていた

いじめとまではいかなくて…いじめみたいなものなの…わたしが悪いの…(真意の伴わない自責論には本気で鳥肌)みたいなひ弱で打算的なことはもう金輪際言わない。あれはいじめです。被害者面万歳!!

とはいえ私もやることはやったし、人並み以上に他人を傷つけたことは否定しない。だから初めは報いなのかもしれないと思っていた。しかし徐々に、向けられる悪意に耐えられず、私は公立中学への転校を考えた。


最初は引っ張ってでも学校に連れて行こうと躍起になっていた母だったが、事情がちらりと見えてからは転校許可を出した。


公立中学は、地元の学校で、小学生時代の知り合いがたくさんいた。だから私は期待し過ぎた。私は私立での体験によりすっかり暗くなり、あまり喋らない根暗人間へと変身を遂げていた。まずそこも自覚しておくべきだった。皆、私が体験してこなかったことを体験にしており、非常に自分が未熟に感じた。皆、私の知らないことを知っており、私は幼すぎた。小学生時代の同級生にどう思われていたかは知りたくない。修学旅行の部屋割りが発端となり、私は孤立していった。そして極め付けにはBBA教師にめちゃくちゃ嫌われた。思い出したくないエピソードの為か、ロックが掛かったように薄ぼんやりとしか思い出せない。誰かパスワード教えて下さい。


中3になり、周りが受験モードになると楽になる。机で所在無げにテキストを捲っていても、受験勉強しているように見えるから。実際はただ捲っていただけ。


休んで良い回数を数え、休めるところまで休んだ。そしてめちゃくちゃ早退した。早退ぼっち。早退とセットになっていたのが、家に帰ってからアーモンドの瓶を抱えて食べること。精神的支柱は、塾にはいた友達。塾では聖☆おにいさんのイエスを落書きしていたところを塾講にバレ、「いや、今日美術で壁画見てさ…はは」と誤魔化した。


そして中3の12月、母がくも膜下出血で倒れた。塾で講師に呼び出され、「ヒェッ…また数学の成績のことだな」と舌打ちしていたら、まさかの。衝撃で頭はスパークリング、現実感があまりに乏しくて、夜まで塾に残って友達と喋っていた。


母のことは恨んでいるけど、色々な意味で、死なないでくれてよかった。この頃の記憶は、本当に曖昧だ。脳の防衛反応とでもいうか…。しかし最も消したい忌々しい記憶はしっかり刻まれている。

母は回復してくると甘いアイスばかり食べたがり、父と私は交代でコンビニに走った。父が間違えた銘柄を買ってくると「これじゃない!!」

中学生の頃は、はっきりと”死にたい”には結びつかなかったけれど、電車のホームで虚無感に苛まれたり、自室のクローゼットに顔を突っ込んで泣いた。塩水と鼻水。

ちなみに、小・中学の同級生のある人物が毎晩夢に出て来て困っています。助けてくれ

過去の自分を認められるのは現在の自分のみ。よく生きてきたと、びっくりだよ。次は高校時代のことを。


#エッセイ #プロフィール

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