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日本医療企画 林諄社長との邂逅

昨日、日本医療企画社長の林諄さんと「能登の復興」について、お電話で30分ほどお話しした。熱い語らいだった。

林さんは、私と同じ中能登町の生まれだ。中能登町は、七尾市と羽咋市に挟まれた人口16千人の小さな町であり、能登半島の9市町のなかでただ一つの海がない内陸の町だ。平成の大合併で、鳥屋町と鹿島町と鹿西町の3つの町が合併して中能登町になった(林社長は旧鳥屋町、私は旧鹿西町の生まれだ)。

また、『地方消滅』(増田寛也著、中公新書)の中では、日本の896の市町村が消滅可能性都市になっている。能登の9市町も、中能登町を除いた8市町がその中に入っている。

林社長とお会いしたのは[OUEN Japan]を設立してからだから、10年くらい前のことだ。 

福岡県でOUEN塾をスタートした。「何でふるさとの石川県でしないのか」と何人かの人に言われて、月一で石川県に出張するようになった。
そして、私の高校時代の友人たちからの紹介で、自治体(石川県庁や金沢市役所)や企業や大学を回った。北國新聞社本社にも伺った。
たしか、林社長は北國新聞社からご紹介をいただいて、その当時、神田にあった日本医療企画本社をお訪ねしたのが初対面だったと思う。

林社長は同じ中能登町出身というだけではなく、私の高校時代の同期の叔父さんだった。そして、私がよく存じている能登の方々ともビジネスで親しくされていた。まさに、"友だちの友だちは皆友だち"だ。
外国で日本人に会うと、旧知の中だったように親しくなるものだと聞いたことがある。
広い東京で、石川県、それも人口16千人ほどの小さな町である中能登町出身の人に会ったのは初めてだった。田舎の話が通じるとはこうも人と人間同士を近づけるものか。
一瞬にして打ち解けて、それから林社長には[OUEN Japan]の望年会にも信念会にも、私の生前葬&出陣式にもご参加いただいている。

2020年1月号(2019.12.1発行)の月刊誌[致知](致知出版社)に、「邂逅」と題して、日本医療企画の林諄社長のインタビュー記事が載っている。

人生で出会った先人たちの言葉はいまでも心に深く刻まれ、私を導き、励ましてくれています。

経営とはどういうものなのか、その原点を私に教えてくださったのはセコムの創業者である飯田亮さんです。新聞記者だった私に、飯田さんは「経営とは何ですか」と質問されました。取材する側が質問を受けるのですから面喰らいましたが、一瞬考えて「変化対応業でしょうね」と答えました。
飯田さんはニヤッと笑って、こうおっしゃったのです。
「林さん、それは違う。こういう変化の激しい時代にはそれに対応していかなくてはいけないと誰もが思う。だけど、毎日変化に対応ばかりしていたら目が回るよ。変化の激しい時代の経営は対応じゃないんだ。"変化を創り出すこと"だ。そうすれば対応なんかしなくてもいい」
まさに目から鱗が落ちるような言葉でした。いま思うと、飯田さんのひと言は、その後経営者となった私の揺るぎない信念となったような気がします。

プロフィール
林 諄(はやし じゅん)
昭和14年石川県生まれ。神戸商大経営学部卒業後、大手新聞社(産経新聞社)で記者として勤務し、53年に退社。55年、能登企画を設立(57年、日本医療企画に社名変更)、社長に就任。日本医療経営実践協会理事などを歴任。平成27年東久邇宮国際文化褒賞を受賞。

そして、元日の能登半島地震が一層私たちを近づけた。

能登の復興を如何にするべきか。林社長は地域創生は稲盛和夫さんのアメーバ経営から学ぶべきだと仰る。

[アメーバ経営]
アメーバ経営とは、従業員を少数のメンバーに分けて細かな集団に細分化し、集団におけるそれぞれのリーダーが経営者の視点で企業活動を行う経営手法のことです。
企業が細分化され、経営体制がまるでアメーバのように広がる様子から「アメーバ経営」と呼ばれています。
もともとは、京セラやKDDIの創設者である稲盛和夫氏の経営思想を形にした経営手法です。

林社長は私に仰る。
中能登町がそのアメーバのCoreになる。中能登町をアメーバのCoreにする。そして、能登を復興させる。
それは、これからの小林さんのすることだと。期待していると。ご協力すると。

ありがたいことだ。

能登に関する諺を思う。

能登はいらんかいね
能登は優しや 土までも
能登のとと楽 加賀のかか楽

まずは想いだ。
能登への熱い想いが、その想いを成就させる。
そして、誰にも負けない努力をして頑張ろうと思う。

不動院重陽博愛居士
(俗名  小林 博重)

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