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10月28日は徳川歴代将軍の日その1(架空記念日ブログ)

おはようございます。
本日は令和5年10月28日(土)です。1837年10月28日は最後の将軍第15代徳川慶喜さんの誕生日です。それを記念しまして今日は徳川家をフィーチャー徳川将軍15人を何をしたんや目線で5人ずつ3回に分けてご紹介したいと思います。



今日の架空記念日は?

徳川歴代将軍①(初代〜五代)

初代徳川家康(1543〜1616)

家康

任期 23歳より39年(1566年(徳川姓を名乗った歳)-1605年)
三河岡崎城で生まれる。幼少期を今川家の人質として過ごすが、桶狭間の戦いで今川義元が討ち死にを機に織田信長と同盟を結んで独立(清州同盟)信長が本能寺で死亡したのち、天正壬午の乱に勝利して甲斐、信濃を手中に、小牧・長久手の戦いの後、秀吉に臣従。 小田原征伐後に関東領に転封、秀吉政権下の5大老筆頭になる。秀吉が亡くなると関ヶ原の戦いで勝利し征夷大将軍を拝命。1603年に江戸幕府を開く。1614年に大阪の陣(夏・冬)で豊臣家を滅亡させ日本全土を統一する。(享年73歳)

二代徳川秀忠(1579〜1632)

秀忠

任期 26歳より18年(1605年-1623年)
遠江浜松城で生まれる。小田原征伐で人質として上洛、織田信雄の娘、秀吉の養女小姫と結婚。元服すると豊臣姓を与えられる。秀吉と信雄が仲違いすると小姫と離縁。秀次事件の後、淀殿の妹達子と結婚、羽柴姓を与えられる。関ヶ原の戦いは真田昌幸の足止めで遅参。徳川幕府が開かれると、右近衛大将に任命される。1605年に征夷大将軍になって家康との二元政治になる。豊臣家滅亡後、武家諸法度、禁中並公家諸法度を制定。牛方馬方騒動およつ御寮人間事件の名裁きにキリシタン大規模処刑、家光に家督を譲って、大正大臣になる。(享年53歳)

三代徳川家光(1604〜1651)

家光

任期 19歳より27年(1623年-1651年)
江戸城西の丸に生まれる。弟国松(松平忠長)と世継ぎ争いが起こるも家康の一言で家光が世継ぎがきまる。関白鷹司信房の娘鷹司孝子と結婚。家督を譲られると加藤忠弘の改易、黒田騒動のお裁き。幕府の改革で老中、若年寄、奉行、大目付の役職を新設。現職将軍を最高権力者とする幕府機構を確立。武家諸法度の改訂で参勤交代を義務付ける。長崎貿易を整理して鎖国令を発布。島原の乱で松倉勝家に切腹させる(武断政治寛永の大飢饉正保国絵図、正保城絵図を完成させ田畑永代売買禁止令を発令する。家綱に家督を譲る。(享年47歳)

四代徳川家綱(1641〜1680)

家綱

任期 10歳より29年(1651年-1680年)
江戸城本丸で生まれる。家光死去により10歳という若年で家督相続将軍世襲制が磐石である事を世間に知らしめる。これ以降、将軍宣下は京都ではなく江戸で行われる。末期養子の禁を緩和大名家臣から証人を取る事の廃止殉死禁止令発令。武断政治から文治政治へシフト。一万石以上の大名に領地朱印状を公家や自社には領地目録を交付。宗門改の徹底と全国への宗門人別改帳の作成命令、諸国巡見使の派遣。諸国山川掟の制定、東廻海運・西廻海運を開拓などの全国規模の流通・経済政策。「本朝通鑑」編纂。伊達騒動、越後騒動が勃発。男子が出来なかった為、館林初代藩主弟の松平綱吉(徳川家光の四男)を養子に迎えて後継とし、直後に死去する。直系の子が世襲する形が崩れる。(享年39歳)

五代徳川綱吉(1646〜1709)

綱吉

任期 34歳より29年(1680年-1709年)
徳川家光の四男として江戸城で生まれる。1661年に上野館林徳川初代藩主となる。1680年に子供が出来なかった家綱の養子になり、直後に家綱が亡くなった為将軍宣下を受ける。大老酒井忠清を廃し、自身の将軍職就任に功のあった堀田正俊を大老にし、その後酒井家を改易直前まで追い込む(改易はしてない)越後騒動の裁定し直し。勘定吟味役(後の勘定奉行)の設置。外様大名から幕閣への雇用。尊王心が厚く御料を1万石から3万石に増額、大和国と河内国の御陵66陵を修復。天和の治と言われるほど善政を敷いていたが、堀田正俊が暗殺されると一変する。生類憐みの令発令、貨幣の改鋳して経済を混乱させる。嫡男の徳松が死去した為、甥の綱豊(兄綱重の子、後の家宣)を次期将軍に決定し、1709年に死去。(享年63歳)

まとめ

今回は徳川初代将軍から五代徳川綱吉をご紹介しました。あれこの人何やったっけ?ってのを簡潔にわかるようにまとめてみました。また徳川関連の日付けが来たら残りの将軍も書きたいと思います。

今日のさわだくん

111日チャレンジ20曲目

蕾/コブクロ

2007年3月21日リリース、コブクロ14枚目のシングル曲。フジテレビ系テレビドラマ「東京タワー〜オカンとボクと、時々、オトン〜」の主題歌。小渕健太郎が18歳の時に亡くなった母親の事を思って作詞。

あとがき

はい、今日も無事に書くことが出来ました。今から幸田町に車で向かい、宮沢和史のライブを楽しんできます。このあとがき、意外に書くこと思いつきません。ではまた明日お会いしましょう。