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「自分のお金をもつのをやめなさい」池袋の駅で会った女性の「世界から借りてるもの」の話

 獣医を辞めてから、私は女性のみのシェアハウスに移り住んだ。三十歳を過ぎて獣医以外で転職するにも難しく、アルバイトをするには見栄を張りすぎていた。でもお腹も減るし、貯金も減るし。友達が消費期限の一年以上経ったレトルト食品をくれて、毎日、大事に食べていた。古くなりすぎたレトルトは、砂浜になりそこなった粘土みたいな茶色い味がした。

 彼女とは池袋の駅前で会った。わずかな交通費をケチって、時間だけはあったから、どこまでも自転車で行く日々。買い物はしないけど、いつもより遠くまで来られたことがうれしくてならない。彼女は駅の近くの脇道で真っ赤なスーツケースを前に、何かに思い悩んでいるようだった。気にかかって声をかける。

「何かお困りですか?」

 大きなサングラスをしていて、目は見えない。光る茶色の髪がゆるやかに彼女の顔を包みながらベージュのジャケットの上に落ちていた。

「待ち合わせていたんだけど、二時間も遅れるみたいで。一人でどうしようかと思ってたの。ねぇ、せっかくだし、どこかでお茶しない?」

 そう誘われて、私は近くの駐輪場に自転車を止めてから、彼女と一緒に近くのカフェに入った。

「ご馳走するわ。好きなのを頼んで」

 遠慮と欲望のはざまで、私はクリームのいっぱい乗った甘いラテを頼む。席に着くと、彼女は私の話を聞きたがった。今は何をしているのか、これからどんなことをしたいのか。この頃の私は絵本を描きたいと思っていたので、獣医だった時の体験を活かして、亡くなった動物のご家族に届くようなお話を作りたい、そう話す。

 彼女は質問のしかたが上手で、蛇口から水が流れるように、思わずいろいろなことを話してします。話し終えると、彼女は黄緑の革の財布から一万円を取り出して、テーブルに置く。

「あなたの、未来に投資するわ」

 そう言って私のほうに滑らせる。私はさすがに戸惑い、両手を広げて断る。

「そんな、初めてお会いしたのに、受け取れません」

 私がそう言うと、彼女は軽く左右に首を振る。

「見て」

 彼女は両手を開いて見せた。尖った白いネイルの先には赤い天然石があしらわれている。

「指が両手に五本ずつあるの」

 あまりにも当たり前のことを言われて、応えようがなくなって、ただうなずく。

「父はね、右手の親指が一本しかないのよ」

 彼女は一呼吸おいて続ける。

「私、フィリピンで生まれたの。父は日本人。登山が好きな人で、ある時、遭難して。日本で生まれて、指が五本ずつあるって、すごく幸せなことじゃない?」

 あまりにも当たり前で、ふだんは全く思い出しもしないことだ。当たり前に気づくことは大事だけど、私がお金をもらうことには理由がない。彼女は言葉をつづける。

「自分のお金をもたないことよ。お金じゃなくて、なにもかも。自分のだと思うと、大事にしないでしょ。今、自分の物だと思っている物は、全部誰かからの借り物なの。このスーツケースも服も靴もぜーんぶ。誰かが今、私に貸してくれているものなの」

「誰か?」
「ふふ、なにかしらね。神様とか、宇宙とか、なんかそういう人知を超えたもの」

 正直、よく分からなかったが、とりあえずうなずいて見せる。

「この一万円を私の物だと思ったら、なんとなく服を一枚買って終わりだと思うの。着なくてもどうでもいい。だって、自分のお金なんだもの。そういう感じ。一時の退屈を紛らわせればいいだけ。でもね、もしも私が、あなたのこれからの活動に期待するって言って渡したらどうかしら?」
「一人でお寿司をお腹いっぱいとかはできないですね」

 彼女はそれを聞いて声を出して笑う。

「あはははは、いいのよ。食べて。でもね、食べる時、きっとすごーく味わうと思うの。もう二度と食べられないかもしれない、みたいな感じで」

 私は笑いをこらえるようにしてうなずく。

「当たり前にならないことよ。どんな時も、どんな事も。借りたお金はね、また宇宙に返すの。その時、一番大きくなる返し方をするのがいいんだわ」

 彼女はそう言い、もう一度テーブルの上で、私のほうに向かって一万円札を滑らす。 彼女はそう言い、もう一度テーブルの上で、私のほうに向かって一万円札を滑らす。

  今まで、お金をもらったことは何度もある。お年玉や入学祝い、就職祝い。それはくれるのが当たり前で、もらったお金は全部自分の物だった。だが改めて、会ったばかりの人からお金を渡されると、どうしたらいいのか分からなくなる。この一万円は、一万以上の重みをもって、ここに在る。

「もしも受け取ったら、使い方を悩みますね。多くの人のためになるようなことに使わないといけない気がしちゃうけど、今はそこまでのことはできないし。毎日の生活の足しにしたいというのが一番だし」

 自分が食べるお米を買うことが、宇宙に対する大きなお返しとは、とても思えなかった。

「じゃあ、これは、あなたへの宿題ね。この一万円は、分かりやすくあなたの前に置かれたけど、今までに出会ったどの一万円とも、本当は同じなの。一万円に限らず、すべての物と同等なの。このコーヒーとも同じだけの価値」

 彼女は立ちあがる。カップにはコーヒーが少し残っていた。

「片づけておいてくれる? それと、その一万円は、それ以上の価値にして宇宙に返すこと」

 私は立ち上がれずに、彼女がスーツケースを手に取るのを見る。振り向かずに行こうとする彼女に「ありがとうございました!」という声をぶつけるように投げる。

 目の前にはクリームの残ったラテと、一万円札。

「自分のお金をもたないこと。すべてのものは、誰かが貸してくれているものなの」

 彼女の声がいつまでも一万円札の上で響いていた。

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