見出し画像

バゲットが「凶器」に!?

バゲットを「批評」する?!

私は大学で「批評論」という授業をやっている。もちろん、ボードレールや小林秀雄といった古典的な批評家も扱うのだが、本離れの激しい現代の若者たちに、やにわにハードコアな「批評」を論じたりするのは、愚の骨頂でもあるので、初めてこの授業を担当する今年は、なんと「バゲットを『批評』する」から始めた。

残念ながら、大学のある豊岡には、(下記の理由から)まともなバゲットを商うまともなパン屋がない。その中でも、いちおう最もそれらしい風情をもつ、つまり大方の日本人には「バゲット」と見え、パン屋自身も「バゲット」として作って売っている「バゲット」を買ってきて、教室で(コロナ禍なのでもちろん除菌等の配慮をしたうえで)フランスの家庭でよく使うパン切り専用のまな板とナイフで切ってみせ、学生一人一人の前に一切れずつ配り、それを精神を集中して食べてもらって、「批評」してもらった。

題して「みんなで『ミシュラン』!」。評価シートを配り、①バゲットの「味」を描写する。②バゲットを「評価」する ⑴超絶マズいから超絶オイシイまで十段階の★で評価する ⑵なぜその★の数なのか、その理由を言葉で表現する。

ところが、である。昨今の家庭では、バゲットないし「フランスパン」をある程度日常的に食していると思い込んでいた私の的はだいぶ外れてしまった。30人中確かに半分くらいの学生は人生でそこそこ食べたことはあるというが、残りの学生はほんの2、3回か、全く食べたことのない学生すらいた。「批評」は一般的に批評するジャンルにおける同種のモノ・コトを数多く経験しそれを比較することが必要条件の一つだが(たとえば、美術批評をするためには、相当数の美術作品を観て比較できなくてはならない)、これまでの人生で全くないしほとんどバゲットを食べたことのない人に、バゲットを「批評」することはそもそも不可能である。

そうしたバゲット体験の有無の話を聞きながら、私は、「バゲット」として批評するのではなく、単なる「パン」として批評するならば(パンならば皆人生で数多く食べているはずだから)、難題にならなかったのではないかと、反省した。

「バゲット」とは?

「みんなで『ミシュラン』!」のあと、私はそもそもフランスで「バゲット」とはどのようなものかを説明した。日本ではあいまいに「フランスパン」などと総称されるが、フランスではパンの種類ごとに厳格に規格が決まっていて、たとえば最もポピュラーな「バゲット」は長さ68cm、重さ350g、その倍ぐらいの太さの「パン・パリジアン」(パリでは単に「パン」と呼ばれる)は、同じ長さで重さ600g、逆に半分くらいの長さと重さの「フィセル」は長さ30cm、重さ150g。「さあ、今日みんなが食べて「批評」したパンは「バゲット」だろうか? 長さが35cmしかなかったので、形からして厳密には「バゲット」とは言えないでしょう。」

さらに味や食感に関して言えば、フランスの巷のパン屋で売っているバゲットは、例えばパン・ド・カンパーニュに比べると、気泡が多く、独特の「かろみ」をもっている。その「かろみ」ゆえに、腹にたまらず、食事中に何切れも食べられる(ちなみにフランス人は一食で半本分を食べる)。

ところが、日本で(工業製品でなく)きちんと手作りされている多くのバゲットには、この「かろみ」をもつものがほとんどない。妙に粉自体が重かったり、詰まりすぎていて気泡が足りず、「おもみ」がまさった(パンとしては美味しいものの)ものが大半である。だから、とても一人で半本は食べられない…。

「理想的な」バゲットを作れるか???

じゃあ、そんなことを言っているお前自身は、そんな理想的な「かろみ」をもつバゲットを作れるのか。

一昨年から今年にかけて、コロナ禍で自宅にいる時間が多くなったこともあり、私は家で仕事の合間に何度かバゲット作りに挑戦してみた。ドライイーストを使ったり、天然酵母を使ったり、ホームベーカリーを使ったり、手で捏ねてみたり、いろいろな方法を試してみた。

だが、出来上がりは、「理想」から程遠い。一度、何気なく、そのうちの一本を写真に撮って、Facebookに載せたら、さっそくフランスのある友人から「つっこみ」が入り、「ずいぶん奇妙な形をしたバゲットだね」と酷評された。第一、家庭用のオーブンで焼くので、いわゆる「バゲット」の規格を満たしようもない。せめて味と質感だけでも「理想」に近づけようとするが、そうおいそれと「かろみ」は出てくれない。中でも自分なりに最も「成功」したものが、本連載のトップに写真を載せたものである。この時は、気泡もかなり「理想」に近く開いた。

特に天然酵母を使うと、面白いが難しい。それはまさに「天然」、生きているので、粉と他の材料が全く同じでも、その日の気温、湿度などの環境次第で、発酵の速度・加減が微妙に変わる。その発酵の「パフォーマンス」と戯れるのは実に面白い体験なのだが、それこそ回数を重ね、熟練しないと、そのパフォーマンスをある程度安定的かつ理想的な結果に導くことは至難の技だろう。

バゲットが「凶器」に?!

ところで、日本でもバゲットの「存在」には、もう一つ大きな難点がある。焼き上がってからの難点だ。空気中の過度の湿度である。

フランスは(地域にもよるが)、湿度が低いところが多い。ゆえに、バゲットは、空気に晒しておくと、水分を失い、どんどん固くなっていく。24時間も経つと、歯を立てるのも難しくなるほど、固くなる。ところが、日本、特に去年まだ住んでいた京都のような一年中湿度の高いところでは、バゲットは焼き上がった直後はパリパリの食感だが、1、2時間もすると「しなっと」し始め、一昼夜も経とうものなら、「しなしな」になり、弾力が増しすぎて、逆に噛み切るのも一苦労になる。

ところで、松本清張の『礼遇の資格』という推理小説をごぞんじだろうか。主人公の夫が妻の浮気相手を殺害するのだが、その凶器がなんとこちんこちんに固まったフランスパンなのだ!

しかし、舞台設定が日本なので、はたしてフランスパン(=バゲット?)で殺人は可能だろうか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?