日本語の私小説に就いて

自然主義文学が仏蘭西語から日本語に輸入されて日本語の風土に於いて変形された結果私小説に化けたらしいといえないだろうか。自然主義文学から狭義の私小説がに収斂されたのではないか。

私小説の定義なるものが研究者以外の読者に必要なのかか分からないし「純文学」ってなんだと聞かれても芥川賞と直木賞の違いを説明することにどれ程の意義があるのかも私には分からないのです。

葛西善蔵や嘉村磯多を私小説の極北として私小説の代表格と捉えてもいいし、古井由吉の晩年の作品も「究極」の私小説といってもまったくの的外れともいえない気がするのですが暴論でしょうか。狭義な意味はともかく、広義に解釈すれば「純文学」は「私」にまつわる全般に敷衍できそうにも思えたりするのです。

「私小説」は文脈を踏まえないと意味が分からなくなるほど作品が文脈(作者の動向)に依存しているので近傍にいた「業界通」には本物の文士扱いされる傾向があるように思います。実際の読者は醜聞的なものを野次馬的に期待して読んでいたのではないでしょうか。
作品からも自己言及的に書かれている箇所が割とあって作者の自意識が伺えたりもします。

私小説の源流を成す自然主義文学と呼称される作者をを閲すると徳田秋声や近松秋江らの自然主義文学が私小説の先行者として存在することが分かります。
所謂、文壇的には夏目漱石、森鴎外ら秀才的な異端児の評価が低かったのも宜なるかなとは思うのです。
小説の社会的位置付けは大学の序列と連動しているのも「世俗的」で興味深いところです。

微妙な路線としては白樺派があります。志賀直哉を代表とするのは危うさが伴いますが漱石、志賀、芥川の系譜も成り立つので微妙ということ自体が微妙ではあります。
極私的には坂口安吾と中上健次に関心があり、ふたりの文学的な射程距離が広角のために他の作家にも手をのばすように読んでいます。
その過程での出会いもあるのですが、安吾からは花田清輝と田中英光を知るきっかけをもらいました。
中上健次の独特の嗅覚は古典を含む文学の大海原を教えられています。
坂口安吾と中上健次は小説家であると同時に批評眼も抜きんでていて小説以外の文章が面白かったりします。ふたりの代表作をあげようと思うと小説ではない可能性もあります。(極私的にはその時々でかわります)
どうしても馴染めない小説家もいますが、こだわりをできるだけ捨てて乱読の余生をおくるのが「夢」なのです。