坂口安吾と矢田津世子

安吾にリセット癖があることは割と容易に読み取れる。
小説だろうと評論だろうと安吾にとって文章を記すことの意義はひとつしかなく、「生きている」ことの根源も同根の「ふるさと」をどのように「表現」するかに根ざしている。弁証法ではなく反復こそが安吾の真骨頂である。

つまり安吾にとって生きることと書くことは等価なのだ。
では「等価である」とはどういうことか。
それは「生きる」と「書く」が同時に存在できないことを示唆している。

生きるために書くのでもなく、書くために生きるのでもない。「等価」は機能的に等しいことではない。
存在論的に「等価」なのである。

「価値論」的に洞察しないと安吾に宿る「ふるさと」への帰還を繰り返す衝動は理解できない。

安吾は模索の末に継続ではなく反復を意識的に選択しているのだ。
キルケゴールのレギーネとの関係は安吾の矢田津世子との関係は同じ位相にある。
安吾の想いを矢田津世子は微塵も受け取っていない。

安吾の切迫感は生きづらさからきたのではない。
安吾にとって「自然主義文学」のように何かについて赤裸々に告白する手法は論外なのである。

生きることを対自的に書くのではなく、即自的に文学に昇華したいのだ。
しかし、そんなことが可能だろうか。
唯一ののぞみは「命がけの跳躍」の反復しかない。
安吾は無謀な企てを反復する覚悟を決めたのである。それは矢田津世子との関係性が齎した覚悟なのである。