【評論】『藪の中』のヒロイズム〜触発されて

芥川龍之介の「藪の中」はよく分からない短編である。勿論、結末に正解が示されていないからではない。逆に芥川の主知主義的な傾向は「藪の中」でも晩年の箴言でも「破綻」がないのが破綻と言いたいくらい主知的である。

(因みに、柄谷行人に「藪の中」の短い論評がある。柄谷の結論は「芥川の知は知的に中途半端だ」的である)

『藪の中』の主題は「私的所有の起源」である。事件当事者の三者三様の自白がひとつの真実に収斂しないまま終わってしまうことから「不条理文学」と評価されたり「事実の相対性」を描いたとか、三様の自白に矛盾のないストーリーを創ってみたりと様々な読解がされている。

三様の自白からぼんやりと窺うことができる「事件」の様子は性的な駆け引きである。これを「動物的」と評し等閑に付す解説もあるが蛮性を伴う極めて人間的な営為が描かれているのだ。そこには価値と所有の萌芽がある。そして到着する芽吹きは資本主義的な私的所有権である。価値形成は私的所有の根拠を垣間見せる。

三角関係の問題は芥川の師匠である夏目漱石の問題でもあった。近代的個人が成立するのはなぜなのか。そして私的所有が可能なのはなぜか。そこには近代的個人とそれを支えるヒロイズムが関係している。

自白したのが三人であること。三人とも下手人は自分であると主張していること。全体である『世界』に主人は不在である。私という「主体」が空席の玉座を占めて複数の主人公を誕生させてしまったのだ。しかしそれは畢竟遠近法的倒錯の結果でしかない。

物語が自分語りに変わる時に自分こそが主人公だと確信してしまう。そして主人公としての自分を維持するためには飽くことなき自分語りを強迫的に反復するしかない。しかし「永久機関」が存在しないならば主人公の反復の推進力を調達しなければならない。では調達先はどこにあるのか。

答えの片鱗は『藪の中』に垣間見えるはずだ。