見出し画像

哲学にできることはまだあるかい ~ アニメ・映画と災害、そして脱出(exit) ~

「2日か3日ですぐ帰れるものと
 ばかり思ってた あの日から7年

 ケンカしたまま別れた友や
 家を出たきり帰らぬ兄や
 言えないままの ありがとう、
 ごめんが宙ぶらりんのまま今日まで来たよ」

 これは、RADWIMPS(ラッドウィンプス)東日本大震災から7年後に発表した「空窓」という曲の歌詞です。

画像3

 ラッド(RADWIMPS)は3・11から1年後に、「白日」という曲を、翌年「ブリキ」を、翌々年「カイコ」を、同様に「カイコ」を、「あいとわ」を、「春灯」を、それから1年あけて「空窓」を発表しました。

  上記の曲を作曲した野田洋次郎は、NHKのあるインタビューでこう語っています。

 「やはりあのとき日本に住んでいたすべての人がその前日3月10日とは全く違う自分になったと思うんですよね。あの出来事を経験して僕自身も当然そうだったし。この気持ちは残さないとと思ったんですよね。ただただ自然なこととして」

 セカイ系の誕生と終焉

 皆さんは、エヴァンゲリオン、通称エヴァという作品をご存じだろうか。

画像5

 一般的に、エヴァ世代のオタクは、オタク第三世代(1980年代生まれ)と呼ばれ、この時期に、エヴァを代表作とする「セカイ系」という作品群の流行があったことが知られている。

 セカイ系とは、< 主人公(ぼく)とヒロイン(きみ)を中心とした小さな関係性(「きみとぼく」)の問題が、具体的な中間項を挟むことなく、「世界の危機」「この世の終わり」などといった抽象的な大問題に直結する作品群のこと >という東浩紀の定義が一般的に使用されている。

 セカイ系の作品として、庵野秀明(あんの ひであき)の『エヴァンゲリオン』(1995)と並んで有名なのは、新海誠(しんかい まこと)の『ほしのこえ』(2002)である。まさに庵野秀明と新海誠の二人がセカイ系の幕開けと流行を決定付けた人物である。

画像5

 そして、2016年、新海誠の『君の名は』と庵野秀明の『シン・ゴジラ』という二人の監督によって、日本の映画史に残る作品が誕生した。

画像6

 予算・スケジュールが限界を突破し、破たんした状態で作られたラスト2話で、唐突にシンジ(主人公)とこれまで登場したキャラクターの内面の描写を始めるというヤバいアニメであった『エヴァンゲリオン』の監督、庵野秀明は、『シン・ゴジラ』において、エヴァとは異なり日本の官僚機構というシステム面のみに向かい、内面を描かなかった

画像7

 余談ですが、アル中かつギャンブル依存症であったドストエフスキーは、『罪と罰』を借金取りに追われながら執筆の時間を少しでも短縮するために、口述筆記して書きました。そんな『罪と罰』は、今やロシア文学の金字塔となりました。極限状態に置かれた人間はたいてい死にますが、数年、数百年に一度、偉大な偉業を成し遂げる人物が出てくることがあります。モーツアルトもその一人です。

 (一般に普及している)セカイ系の定義を提唱した人物として先ほど紹介した東浩紀は、新海誠の『君の名は』をみて、Twitterで、こうつぶやきました。

 「君の名は。は、一つの時代の始まりというより(セカイ系の)終わりを告げる作品に見えた。」と。
 続けて、「新海誠の「君の名は。」は村上春樹の「ノルウェイの森」に相当するのだ」と評し、一か月後には、
 「ひと月ほど考え続けた結果、ぼくは、「君の名は。」はたいへんな傑作であり、ぼくがいままで擁護してきた価値観を見事に体現した作品でもあるが、いまのぼくとしては絶対肯定できない作品だという結論に達した。言い換えれば、この作品に行き着いたセカイ系の想像力を肯定できないという結論に達した。・・・・・・ぼくはいままで村上春樹を高く評価してきたし、それ自体はまちがいでもないと思うが、かつて1990年代、「ノルウェイの森」の後の春樹をなぜ柄谷行人ら『批評空間』派が批判しなければならなかったのか、その理由がようやく理解できた気がした。あれはぼくらから何かを奪うのだ。」とつぶやいた。

 新海誠は、中央大学で国文学を専攻。永井荷風を卒論のテーマとして選んでおり、いくつかのインタビューでも愛読書に村上春樹をあげ、まさに文学青年といった感じの人物であるため、東浩紀の「新海誠の「君の名は。」は村上春樹の「ノルウェイの森」に相当する」という評は、正鵠を射ているといえる。

 ちょっと話が込み入ってきたので、ここまでの話を整理してみる。

 セカイ系(90年代から00年代)の象徴であった庵野秀明新海誠の二人が2016年に、セカイ系に死、終わりを宣告した。という流れだ。

 新海誠の『君の名は』と庵野秀明の『シン・ゴジラ』には、共通するテーマがある。

 それは、災害、すなわち、東日本大震災(3・11)である。

画像8

  『君の名は』は、隕石衝突から町を救済する話であり、『シン・ゴジラ』は、いうまでもなくゴジラという災害が主役である。

 新海誠は、ハフィントンポストのインタビューでこう語っている。

「――新海監督の作品では『ほしのこえ』『秒速5センチメートル』など、離ればなれになった男女はそのままであるパターンが多かったと思います。『君の名は。』では、なぜハッピーエンドにしたんですか?
もちろん僕自身が年を取って変わった部分もあるとは思います。でも、やはり大震災が起きた2011年が、大きなきっかけだった気がします。2011年以前、僕たちは何となく「日本社会は、このまま続いていく」と思っていました。もちろん、人口が減って経済規模も縮小していくなど、少しずつ社会が衰退していく予感はあったとは思います。でも、さほど起伏のない「変わらない日常」がこの先ずっと続くんだという感覚がありました。

 東日本大震災が起こった日、当時の私は中学三年生で、高校入試も終わり、中学の卒業式に向けて予行練習をしていた時だった。家に帰るなり、どのテレビ局も東日本大震災の映像を流し続けていた事を今でも鮮明に覚えている。私の中学校の卒業と共に、日本社会は未来への希望を失った。

 日本社会から奪われた日常

 「その日、人類は思い出した。ヤツらに支配されていた恐怖を…鳥籠の中に囚われていた屈辱を……。」(『進撃の巨人』1巻冒頭より)

 『進撃の巨人』は、突然現れた超大型巨人と鎧の巨人によって、ウォール・マリア(城壁)が破られたことにより、それ以降の人類は、いつ壁が巨人に破られるのか分からないという恐怖に怯える日々が続くという展開から物語が始まる。

 これは、巨人という人間の力ではどうにもならない、コントロール不能な天災というのがテーマとなっており、当時、東日本大震災があったこともあって、進撃の巨人の世界観が話題となった。

画像9

 ところで、「実存的不安」という言葉をご存じだろうか。

 ググると以下の解説が出てきたので、引用する。

 「実存的不安とは、具体的な脅威を超越した、人間の存在その ものに関する究極の不安のことである。 実存的不安には、「死が不可避である」ことに対する不安、「自分の人生には意味がない」 という経験に関連する不安、「人間は所詮一人である」という根 本的な孤独感などさまざまな側面がある。」

 実存的不安は、死ぬのが怖いとか、人生の無意味さとか、そういった不安を指す言葉だと思ってもらって構わない。

 20世紀の哲学の巨人・ハイデガーは、死と向き合わず、死への不安から逃避することゾルゲと呼び、そういった人間をダス・マンと名付けた。

 しかし、死と向き合うこと・人生の有限性を認めて、生きること(死の先駆的覚悟性)で、本来の人間性を回復できるとハイデガーは説いた。

 『進撃の巨人』20巻・アニメ3期のウォールマリア奪還作戦で、猿巨人が繰り返す投石により、調査兵団の兵士が次々と死んでいく場面がある。

 エルヴィン団長は、自らの死と引き換えにリヴァイ兵長に猿の巨人を仕留めることを託す場面がある。そこで、エルヴィン団長は調査兵団の全兵士に対して、ある演説をする。

「どんなに夢や希望を持っていても
 幸福な人生を送ることができたとしても
 岩で体を打ち砕かれても同じだ
 人はいずれ死ぬ
 ならば人生には意味が無いのか?
 そもそも生まれてきたことに意味は無かったのか?
 死んだ仲間もそうなのか?
 あの兵士達も…
 無意味だったのか?」

「いや違う!!
 あの兵士に意味を与えるのは我々だ!!
 あの勇敢な死者を!!
 哀れな死者を!!
 想うことができるのは!!
 生者である我々だ!!
 我々はここで死に 次の生者に意味を託す!!

 それこそ唯一!!
 この残酷な世界に抗う術なのだ!!
 兵士よ怒れ 兵士よ叫べ 兵士よ!! 戦え!!」

画像10

 それから調査兵団の全兵士が玉砕覚悟で突撃し、エルヴィン団長も最終的には死ぬ。

 ハイデガーのいう死の先駆的覚悟性を覚悟したであろう兵士たちは、本来の人間性を回復できたのであろうか、『進撃の巨人』では、エルヴィン団長の演説とは逆に、無意味に死んでいく兵士たちが描かれていた、空しくもそこに人生の意味はなかった。

 ・・・哲学によって、人生は果たして救われるのか?

 暗黒啓蒙(The Dark Enlightenment)

 「Get Brexit done」をスローガンに掲げたEU離脱派のボリス・ジョンソン英国首相ひきいる保守党が365議席を獲得するという圧勝を果たした。

 選挙で示された民意は、EUからの離脱、Brexitであった。

画像11

 一方、アメリカのドナルド・トランプは、「Keep America Great!」という新たなキャッチフレーズを掲げて、大統領再選を目指している。

画像12

 彼らの躍進の裏には、オルタナ右翼(alt-right)の存在が指摘されてきた。オルタナ右翼(alt-right)の主な活動の場は、インターネット空間だ。

 日本でいうところの「ネット右翼」のアメリカ版だと考えてもらえばいいだろう。

 ネット右翼、通称ネトウヨというと、過激思想を想像するかもしれない。

 しかし、ラッドの「HINOMARU」の炎上事例のように、時代の空気としてナショナリズムがゆるく広く浸透し、日本社会の右傾化が叫ばれている。もちろん、ラッド自体は、右翼ではなく、むしろ、ラッドのデビュー二枚目のシングル「祈跡」(きせき)は、「発展途上国の子供を救うために、私たちは何が出来るか?」という左派的な曲を作ったりしている。ラッドは、 2009年の民主党政権誕生の翌年は、マニフェストという曲を作ったりしており、時代の空気をよく読むバンドだといった方が適切だろう。

画像13

 そんな世界を取り巻く右傾化思想に影響と理論的基盤を与えた思想がある。

 それが、ニック・ランドの暗黒啓蒙・新反動主義である。

 暗黒啓蒙・新反動主義に関する詳しい話は本題から逸脱するので避けるが、暗黒啓蒙・新反動主義こそがイグジット(EXIT)、脱出の根源思想である。

 詳しい話を知りたい方は、私が以前書いたnoteのリンクを貼るので、見ていただければ幸いである。

  さて、話を戻すと暗黒啓蒙・新反動主義は、イグジット(EXIT)・脱出の思想だと述べた。

 ここからは、2019年の年間売上ランキング4位になったとある漫画の話をしよう。

 タイトルは、『約束のネバーランド』だ。

 物語は、ハウスと呼ばれる孤児院から始まる。主人公のエマ(性別は女性)は、ノーマンとレイという親友、そして、院のシスターでママとして慕われているイザベラという優しい保母さんに囲まれて、幸せな日常を過ごしていた。

画像14

 だが、孤児院は、子供たちを育てて出荷する人間飼育場だということを知り、主人公のエマは脱走、ハウスからのイグジット(EXIT)・脱出を決意する。

 ハウスの外、外部(outside)がどのような世界なのか、ひょっとするとハウスよりも地獄ではないのか?という問題があった。

 しかし、主人公のエマたちは、外部(outside)には希望があると信じて、ハウスからのイグジット(EXIT)・脱出する。

 まるで、イギリスのブレグジット(Brexit)のように・・・

 イザベラという母性の母性のディストピア、孤児院(ハウス)という大聖堂の支配から逃れる物語である。

 どういうことか、主人公のエマはイザベラのようなママ(母親・シスター)の役割・ジェンダーを選択する事を拒否し、友情・努力・勝利によって新しい人生を自ら選んでいく、たとえそれがいばらの道であっても。

 進撃の巨人と約束のネバーランドは、セカイ系作品の持っていた生きる意味や価値を見失ってしまった「ひきこもり」状態否定した

 進撃の巨人の主人公エレンも、約束のネバーランドの主人公エマも、内に籠らず、外部(outside)への出口を自らの意思と決断によって見出した。社会は、ひきこもりをやめて、脱出を選んだ。

 PTSDになった日本社会

  ちょっと詳しい人からは、こんな疑問が飛び出すだろう。

 1995年に起きた阪神大震災・オウム事件により、生きる意味・人生の価値を見失ってしまった社会のひきこもり的な傾向から「セカイ系」が誕生したことと、東日本大震災によって実存的不安に晒されたために、「セカイ系」が終焉したことの整合性については、どう考えるの?

 この疑問に答えるために、ここでは、東日本大震災阪神淡路大震災差異について、改めて確認しよう。

  内閣府が作成した平成23年版防災白書のデータによると、東日本大震災の死者数は13135人なのに対し、阪神淡路大震災の死者数は6402人となっており、東日本大震災の死者数は阪神淡路大震災のおよそ二倍だ。

画像15

 ・・・だが、東日本大震災から8年後の2019年3月7日の朝日新聞の記事では、「死者1万5897人、不明2533人」となっている。このことから実質的な死者数は、18430人と阪神淡路大震災の死者数の3倍近い数に達する事が分かる。ちなみに、阪神淡路大震災の行方不明者数は、たった3人だ。

 参考として、上記データを元に、Rで下記のように記述して、グラフを作成しました。

x <- data.frame(地震=c("東日本","阪神淡路"), 人数=c(18430,6437))
 g <- ggplot(x, aes(x=地震,y=人数))
 g <- g + geom_bar(stat = "identity")
 plot(g)

セカイ系R2


 また、国土交通省の「平成22年度国土交通白書」によると、東日本大震災は溺死が9割、阪神淡路大震災は建物の下敷き・倒壊が死因の8割を占めている。

セカイ系R4

 以上からも分かるように、東日本大震災と阪神淡路大震災は、同じ「地震」といえども、東日本大震災は阪神淡路大震災の3倍近い死者を出し、その死因の9割以上は、「地震」ではなく、地震による「津波」であり、さらに、福島の原子力発電所の事故まで起ったので、日本社会に与えた傷の深さは、東日本大震災の方が阪神淡路大震災よりも深刻であり、質的にも異なる衝撃だったのだ。 


 ここで、最後に哲学的な背景を参考程度に少し書いていこうと思う。

 本当に、参考程度なので、読み飛ばすことをおススメする。

 現代社会のことを哲学では、「ポスト・モダン」と呼んでいる。

 「モダン」とは、近代という意味で、「ポスト」は、~以降という意味である。この2つを合わせると、近代以降、近代よりもあとの時代、まさに現代を指す「ポスト・モダン」という言葉になる。

 フランスの哲学者ジャン=フランソワ・リオタールは、『ポストモダンの条件』(1979)という本で、「大きな物語の終焉」を唱えた。

 大きな物語の終焉をざっくり説明すると、人生の正しさとか、何が正義なのか、真理とはなんかといったことに対する共通理解の基盤を失ったという話。

 また、リオタールは「知識人は終焉した」という言葉でも有名で、確かに私たちは日本の代表的な知識人は誰か?と聞かれると言葉に窮するでしょう。言い換えると、誰の言葉を信用して生きていけばいいのか分からなくなったという事。

 大きな物語の終焉した代わりに、小さな物語というが生まれたとリオタールは語った。

 小さな物語は、Twitterをみても分かる通り、みんな人それぞれ多様な価値観・視点を持っており、誰をフォローするのかといった基準もまちまち。そんなTwitterのTL上に流れてくるツイートは、当然ながら人それぞれ異なる。TwitterのTLという島宇宙・界隈・クラスタごとに、価値観・流行といった事は異なっている。このような状況をリオタールは、小さな物語と名付けた。

 セカイ系の定義を提唱した人物として紹介した哲学者・東浩紀は、『動物化するポストモダン』という本で、現代(ポストモダン)を「みんなが共有できる価値観や目的がなくなってしまった時代」だと述べ、「データベース消費」が、特にオタクカルチャーを中心に行われるようになったと語っている。

 データベース消費とは、猫耳・メイド服・アホ毛・ツンデレといった記号に対して、萌える・ブヒることを指している。例えば、ロリ巨乳・処女ビッチ・簀巻き萌え(すまきもえ)・キモウト、先生×生徒・オメガバース(Alpha・Beta・Omega)・ブロマンスといった萌え・BL用語の類だ。

画像16

 次回は、この「データベース消費」、二次創作について書いていこうと思う。やっと、なろうの話が始まるわけだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?