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Adagietto(アダージェット)

実習室の掃除を終え、鍵穴にマスターキーを差し込んだタイミングで聞こえてきて、もしや...と手が止まった。弦の響きが厚みを増すのを待たずハープが伴奏に加わる。最初の3歩は慎重に、4歩目で滑り出すメロディー。間違いない、マーラーのアダージェットだ。交響曲第何番の何楽章だったっけ?感染症対策で入り口を開けたままの音楽室から流れ込んできて、廊下は細長い箱なのだと気づく。今このフロアにいるのは、音楽室の彼等と廊下の私だけだ。

これがBGMなら、机拭きより床掃除の方が合いそうだ。ダスターモップを床に滑らせる。曲のテンポに合わせるとあまりにノロいから、いつもより少しゆっくり目ぐらいで。なんだか優雅?いや、ちょっと妙よね。でも急ぎたくないな。もういいんじゃない?この時間、他の階に顔を出して様子を見たり手伝ったりするのは。各フロアの仕事量の不均衡も解消しつつあるし、時間内に清掃を終えることに各自が慣れていく時期がきた気がする。

戦争が始まってまもなく母が急死した。見つけたのは前日に帰省したばかりの私だった。そこに至るまでの経緯を遡って繋いでいくと、母に呼ばれた、あるいは仕組まれたと言って差し支えないような軌跡が見えた。それがあまりにくっきりしていたので、自称葬儀委員長として動くことにしたのだった。葬儀屋さんと親戚に沖縄の風習を教えてもらい、電話と来客に追われ、居間の壁に必要事項を書いた紙をマステで貼り付けて情報の一元化を計り、夜には「なんなんだ?この突然の文化祭は!」と弟に毒づき、母が生前望んでいたこじんまりとしたお葬式を自宅で執り行うことができた。寒さや単調な生活に倦んでいた頃に訪れた、私にとって丁度いい大きさのイベントだった。そういう場を設けてくれた母に感謝している。母も「そうでしょ」と得意気に言うだろう。

こちらに戻ってきたら、4月の異動までのんびり出来るはずが、留守の間に事情が変わっていた。新しい校舎で一緒に働くメンバーが、お掃除歴1年半の私より経験の浅い人達ばかりということが判明。息子と同年代の新人さん達も入ってきた。ついこの間まで五十代半ばの私が一番歳下で、妹か娘のような気分で働いていたというのに。
新校舎での清掃が始まり、ラフなプランだけが示されてまだ何も固まっていない、これから試行錯誤と変更を重ねていく現場になるとわかった時、しばらく控えめにでしゃばることを決めた。葬儀の時に発動させたエンジンはまだ冷めていないようだったし、この件も私に丁度いい大きさのような気がした。

上司がひょっこり現れた。いつもの「お疲れ様」のあと「何聞いとんのかな?」と声をかけてくる。
「『ベニスに死す』っていう映画で使われてる曲です」
「あぁ、なんかそういうのあったな」
日本公開は、彼が中高生ぐらいの頃じゃないだろうか。
私は数年前にやっと観た。退屈で何度か早送りした。もっと若い頃、スマホがまだない時代に、主人公の執着にわずかでも自分を重ねられた頃に見ておくんだった。
「上も見てきますわ」上司は階段をのぼっていった。
頭上のフロアでは、100人ほどが講義を受けている最中だろう。

廊下の突き当たりの大きな腰高窓が、構内と道向こうの緑地の木々を切り取っている。朝日に光る窓いっぱいの緑の重なりを、私はいつも(大きな絵みたいだなぁ)と思いながら眺めているけれど、超大型ディスプレイに映し出された森系のサンプル動画と言う方が近い気がする。先月よりもずいぶん濃い緑になってきて、画面は青みを帯びてきている。枝が揺れている。窓に近づくと、アダージェットに葉擦れの音が加わって、今どこにいるのかちょっとわからないような感覚になる。と、音楽がぷつりと途切れ、先生が話し始めた。ダスターモップを押すスピードが上がる。
うん、もう充分だ。この3ヶ月半間よくやった。濃い味の日々はもうおしまい。暑くなったら自分のことできっと精一杯だ。そろそろ、one of お掃除おばさん'sに戻ろう。


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